第三十九話
薄暗い部屋の中央で、アシェッドは呻き声をあげていた。
何かに話しかけているようでもあったが、それはもはや人の言葉ではなかった。
跪き、焦点の定まらない目で虚空を見上げている。その頭部が、突然ボコリと膨らんだ。
「あ……が……」
最期の瞬間、アシェッドは苦痛ではなく、歓喜の表情を見せた。嬉しそうに微笑んだ後、アシェッドの頭部はスライムのようにとろけて全身を包み込んだ。
ブニブニと人の形を失った——その後。
爆散。
肉塊ではない。飛び散ったのは別のものと化した〝何か〟だ。飛散したそれは隣にいたもう一人の人物の首筋に触れた。
「ま、待ってくれ! いやだ!」
後ろ手に縛られたその中年男性は悲鳴を上げた。アンジャカの軍服を身につけている。襟元に派手な階級章が付いており、位の高いことが見てとれた。
「条約違反だ! 貴様ら、我が同胞の報復に怯えるがいい!」
虚勢の雄叫びが虚しく響く。
映像の手前、見えないところから、ケタケタと笑い声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「同胞って、バカじゃないの? まともに人間してるのは、もうあんたで最後だよ」
男の首筋に付着した〝元〟アシェッドの肉体は、溶けるように皮膚の中へ潜り込んだ。
「お……ぼ……!」
男が両目を見開き、もがく。全身が黒く変色していく。
溺れたように口元をパクパクとさせた後、男の体は肥大化し、軍服が千切れ飛び——。
男はコボルトを思わせる魔物へと変貌した。
「というわけで」
画角の外からヘルティモが顔を見せると、子供のように無邪気な笑顔でこちらに向かって手を振った。
「アンジャカは僕らウィザードが乗っ取った。今見てもらったのは人間爆弾。いや、風船かな? まぁどっちでもいいや。人間の中にたっぷり魔物のエキスを仕込んで、僕らの合図でバァーン! って爆発。飛沫に触れた人間は魔物に早替わり。いいアイデアだと思わない? ウィルスのパンデミックみたいで」
ふふ、とヘルティモは指先を舐めた。
「僕の崇高なる同志たちと一緒に、これからアンジャカの人間を大陸中の国に紛れ込ませる。聡明な国家元首の皆様方は、これがどういう意味かわかるよね?」
ヘルティモの双眸は私に向けられていた。
「先に断っておくけど、戦争がしたいわけじゃないんだ。こっちも人材不足でね、国は手に入れたけど、人間との全面戦争はこちらとしても回避したい。僕らの当面の最優先事項は、魔剣フラガラッハの抹殺。白魔法の使い手もフラガラッハと一緒にいるんだろ? そいつもぜひ手に入れたい。もちろん、アングルの一部もね。何も差し出せって言ってるんじゃない。ただ僕らが彼らのところへ攻め込むのを邪魔さえしないでいてくれればいい。戦争ごっこはその後だ」
ヘルティモはニタァと笑った。
「ねぇ、いいだろ? 遊ぼうよ、フラガラッハ」
バルトガはそこで映像を切った。
ゼウを筆頭に、イリアもヒナも政務室のモニターから顔を背けなかった。だが、皆一様に表情が険しい。
「……先日、大陸中のエーテルネットワークがジャックされて、この映像が流されたっス」
我々もアンダーソン邸で見ていた。
回線はアシェッドの頭部が破裂する直前でどうにか遮断された。だから、我々がその先を目撃したのは今が始めてだった。
「大陸中の国をパニックに陥れるのが目的なのかな?」
イリアは自身の手で両肩を抱いた。
「いや、遮断されるのも計算のうちだろう。これは我々だけに向けられたメッセージだ。どうやら先日の計画を阻止されたのがよほどお気に召さなかったらしい」
「各国はすぐに検問を強化し、外部からの人間の流入を制限しました。ただ、これで交易と物流が滞ることになりました」
アルトは努めて事務的に発言した。
「それが狙いだろうな。反撃には出ないのか?」
「ブルーカーテンに隣接する『デア』が真っ先に反発しました」
デア……大陸北東にある小国の戦闘民族か。
「それで?」
「ウィザードの宣言通り、デアの国内で大量の人間が魔物化しました。アンジャカに近い国ですから、検閲が間に合わなかったのでしょう。魔物化の感染は瞬く間に拡大し、逃げ延びた者の証言によると、最後は疑心暗鬼にかられた人間同士で討ち合いになり、自滅したようです」
「ひどい……」
「魔物化する人間を特定することはできないのですか?」
フィリアが手を上げた。
「魔法は我々にとって未知の技術です。人間の内側に秘匿された濁ったエーテルを検知できるかは、その是非を試みるだけでも時間がかかると思われます」
「どう思う、ゼウ?」
私の言葉を、イリアが仲介してゼウへ知らせた。
「向こうから来てくれるなら、他の人たちに迷惑がかからない。かえって好都合だ」
「まぁ、そう言うだろうな」
「イリアさんたちは……」
「絶対にイヤッ!」
イリアはゼウの言葉をピシャリと遮った。
ゼウが何を言おうとしたのかわかったのだろう。
「わたしもゼウさんと戦います!」
「でも……」
ゼウの言わんとすることもわかる。
ウィザードの連中がどの程度の戦力で挑んでくるつもりなのか、全く不明なのだ。王都カサレアから奪取され、飛行艇墜落後に行方知れずになっている一個師団分のアーマー・モビールが使われる可能性も十分ある。
「どのみちウィザードたちは私が持つ白魔法もターゲットにしています。下手に隔離されるより、フラガラッハ様とゼウ様のそばに置いていただく方が安全かと」
「決まりだな」
「話が進んでるとこ、悪いんスけど」
バルトガが一歩前に出た。
「我らレオ師団も貴殿らに協力させていただく」
「せっかくの申し出だが、貴公らは自国の守りを固めることに専念した方がいい。ただでさえダリア騎士団の半数以上を失って自衛力が低下しているのだ。それに、ウィザードの連中が我々にしか手を出さないという約束を守る保証もない」
「国を救っていただいた御恩を忘れ、自分たちだけ安全な場所にいるなど、我らレオ師団の名折れです。それに、あなた方の一助になることは国王の一存でもあります」
「……少し、考えさせてください」
ゼウはわずかに俯いた。
「もう一点、気になっていることがある。ヘルティモはアングルの遺骨について発言していたが、ゼウとヒナの師匠が隠した場所が割れたということか?」
「先日ゼウさんたちに協力いただいたおかげで、我々も隠し場所の特定が終わりました。ウィザードがどうやってその場所の情報を得たのかは不明ですが、おそらく我々が特定したのと同じ場所を指しているものと思われます」
「どこなんだ?」
「遺骨の場所はラグナ大陸の第一文明国の近くにバラけて隠されています。ただ、そのうちのひとつが……」
アルトは少し間を置いてから言った。
「ゼウさんたちのご自宅の地下なんです」
ん?
「アンダーソン邸は二階立てですよね。正確には、一階南西の角部屋の真下に封印されています」
「なにいいィィィッ⁉︎」
私とフィリアは同時に叫んだ。
なぜならその角部屋は、先日私とフィリアが、ゼウとイリアのためにリフォームしたラブルームだったからである。




