第三十五話
「ねぇねぇ、ヒナちゃん。ここの結い方、変じゃないかな?」
リビングで姿見鏡を見ていたイリアは、ポニーテールに結い上げた結び目の髪飾りを触りながら言った。
今朝から同じような質問を、もう五回もしている。
「全然、変じゃないよ。イリアさんのうなじ、めちゃくちゃそそられるもん」
学校の準備に忙しいヒナは、苦笑しながら返す。
イリアの服装は、深い海を思わせるアクアブルーのトップスに緩いロングスカートだった。両肩が露出していて、イリアにしては大胆な衣装だ。
「うーん……」
それでも、イリアは何度も姿見鏡の前で髪型や服装を念入りにチェックしていた。
変かどうかが気になるのではなく、ゼウが気にいるかどうかが気になるのだろう。
ヒナは戸口に立て掛けられた私の傍で屈み込んだ。
(こんだけばっちり決めたイリアさん見たら、ゼウにぃ鼻血でも出しそうだけどね)
ぼそぼそと囁くヒナに、私も耳打ちした。
(ゼウが来る前に、こちらからイリアを奴のところへ連れていくというのはどうだ?)
それいただき! とヒナが立ち上がる。
「イリアさん、せっかくばっちり決めたんだから、ゼウにぃに見せに行こうよ」
「えっ⁉︎ いや、それはなんていうか、まだ心の準備が……」
「いいからいいから。どうせこの後デートするんだからさ」
ヒナがイリアの手を引いてリビングから廊下へ出る。ついでに私も持っていってくれるヒナはやはり優秀である。
「入るよ、ゼウにぃ、フィリアさん」
ノックの返事も待たずに、ヒナはゼウの部屋のドアを開けた。
室内で向き合っていたゼウとフィリアがこちらを振り返る。
「わ……」
と、ゼウの出で立ちを見たイリアは声を上げた。
白いシャツの上から着込んだ皮のベストに、ロングブーツがよく似合っている。ゼウは元々上背があるので、いつもの野暮ったいマントと狩猟服の組み合わせに比べれば、今日の服装はワイルドに整っていた。
だが、最も目を引いたのはそこではない。
「まだ最後まで終わっていません、ゼウ様」
「あ、すいません」
向き直って目を閉じるゼウの両頬に、フィリアは手を添えた。
「忘却の雨」
淡いクリーム色の発光がゼウの顔を照らす。
フィリアが手を下ろした時、ゼウの顔から全ての傷跡が消えていた。
「いかがですか?」
フィリアから手鏡を渡されたゼウは、自分の顔を見て顔をしかめた。
「変な感じです」
「あくまで白魔法でコーティングしただけですので、ご注意ください。お化粧のようなものですね。一日で元に戻ってしまうと思います」
「充分です。ありがとうございます」
「あなたの顔の傷は、私の白魔法では治せません。あなた自身の中にある深い後悔の念が消えなければ、ゼウ様の傷は治ることがないようです」
「後学のために知りたいのだが」
私は質問した。
「魔法とは、自然の理を魔力で増幅するものというのが私の認識だ。その意味では、何かを『治す』というフィリアの白魔法は、自然界の法則に反している。フィリア、お前が再生しているものはなんなのだ?」
フィリアは儚く微笑んだ。
「思い出ですよ。『記憶』と言ってもいいと思います。私の白魔法は物質の記録を探り当て、巻き戻しているにすぎません」
簡単に言うが、人は魔法の域にすら到達していないのだ。
「逆に言えば、メモリーが失われているものを治すことはできません。だから人の再生が最も難しいのです。死んだ人間の記憶は霧散して消えてしまいますから」
「いやぁ〜、忘れてたわ。ゼウにぃって、ホントはイケメンだったんだね」
ほぉ〜ん、とヒナは感嘆のため息をもらした。
ゼウは本来整った顔立ちをしているし、寡黙で目つきはやや鋭いが物腰は柔らかい。顔の傷させなければ、どこかの国の王子と言われても世の女性たちは信じるだろう。
そんな存在感が、今のゼウにはあった。
「あの、そんなに見ないでください……」
ぽおっとした表情で見つめるイリアから、ゼウは恥ずかしそうに目を逸らした。
「変じゃ、ないですか? 顔もですけど……その、格好とか」
イリアがふるふると顔を横に振る。
服についてはフィリアとヒナが用意したのだ、間違いはなかろう。
「自分じゃなくて、イリアさんの方はどうなの、ゼウにぃ?」
「そんなの、似合ってるに決まってるだろ」
「女の子が気張ってデートの準備したのに、そんだけ?」
ゼウはイリアを見つめながら、声を振り絞った。
「め……めちゃくちゃ、かわいいです」
ぼしゅん! と頭から音を立て、今度はイリアがゼウから顔を逸らした。
「あ、ありがとうございまふ……」
「こんなんで大丈夫なんかね、デート」
ヒナがやれやれと腰に手を当てる。
これから三人は王都へ出かける。ゼウとイリアはデートで、ヒナは学校だ。
この時を待っていた。
フィリアが私に向かって微笑む。
私が心の中で頷くと、フィリアは口だけをパクパクと動かした。
——始めましょう、オペレーション・サンクチュアリ。