第三十四話
朝からイリアの様子はおかしかった。
早朝からリビングに現れたかと思うと、イスに腰掛けたまま三十分以上も虚空を見つめている。こちらから話しかけても上の空で、そのくせ時々思い出したように自分の唇を指先でなでては、「ふへへ……」とだらしなく口の端を歪めていた。
「徹夜でもしたのか?」
徹夜といえば、私も昨夜はフィリアから夜通し愛を囁き続けられるという、拷問に等しい行為を受けた。
気晴らしに、イリアには訓練を兼ねて剣を振るってほしかったのだが……。
フィリアは台所で朝食作りに忙しい。そこへ、ヒナが欠伸をしながらリビングへ入ってきた。
「おっはよ〜」
「おはようございます、ヒナ様」
フィリアはキッチンから顔だけ覗かせて会釈をしたが、イリアはまだ呆けたままだった。
「おはよ、ヒナちゃん……ふ、へへ」
「朝っぱらから大丈夫、イリアさん? なんかあったの?」
その時、キッチンの裏口から朝の薪割りを終えたゼウが戻ってきた。
「おかえりなさい、ゼウ様」
「鍋の火加減、どうですか?」
「ばっちりです」
「うちの台所、魔力制御じゃなくてすいません」
「いえ。独特の香りとお肉がパリッと仕上がるので、お料理が楽しくなります」
フィリアと談笑するゼウに気づいたイリアの目に生気が戻る。
目が合ったイリアとゼウは、同時にほんのりと顔を赤らめた。
「おはようございます、ゼウさん……」
「お、おはようございます……」
なんだ、二人の間に流れるこの甘酸っぱい空気は。
「ははーん。昨晩なんかあったね、こりゃあ」
ヒナは顎に親指と人差し指を当ててキラリと目を光らせた。
「む……? なんだ、その何かとは? まさか……」
「イリアはまだ生娘です」
突然フィリアが振り返って言い放った。
「お姉ちゃんッッッ!!!」
それならひと安心である。
「いやぁ、キスくらいはしてるでしょ、あれは」
イリアとゼウの肩がビクッと跳ねて、ヒナは呆れた様子でアングリと口を開けた。
「わかりやすっ!」
私のグリップを胸の前に構えたイリアは、目を閉じて精神統一を始めた。
「イグニション」
ブレイドはイリアの胸元から頭にかけて。刃渡り九十センチ程度のミドルソードに私は収まった。
「ほぅ」と私は感嘆した。
「初めて明確に自分の意志で私をコントロールしたな」
「えへへ」
「しかし、お前の通常の魔力値は決して高いわけではない。このサイズでは競り負けるぞ?」
「ちょっと考えがありまして。いい、お姉ちゃん?」
中庭の中央、イリアの正面に対峙したフィリアは緩く前方へ両腕を伸ばした。
「雨雫」
フィリアの周囲に無数の雨粒が姿を見せる。飴玉のようなその一粒一粒が、高次元に圧縮された魔力の結晶体。半透明のそれらは空中に固定され、フィリアとイリアの間を阻んだ。
防御特化の白魔法には様々なバリエーションがあるようだ。
「いつでもいいですよ」
「それじゃあ……」
イリアは両手をだらりと下げた。あまりの弛緩に、彼女の体が前のめりになる。
瞬間、イリアの思考が跳ねた。
よぎるはゼウとの甘く淫らな逢瀬——ではなく、やさしくほほえみかけるゼウの笑顔だった。
「ふ……!」
俊速の突きが飴玉の防御網を三つ、ガラス細工のように破壊した。
完全に中心を捉えた、正確無比の三連突き。
「おぉ」と、思わず私は声を上げた。
瞬間的にではあるが、私の魔力を爆発的に引き出してみせた。
「ディアーナの刺突を真似たな」
「あ、わかっちゃいました?」
てへっとイリアは舌を出したが、狙ってできるものではない。
何かを演じること。生きるため、他者を観察し続ける人生の中で、イリアは模倣に慣れていた。
そこに、イリア自身の意志が混ざった。
ゼウと姉を守りたいという、明確な意志が。
「なるほど、いいでしょう」
フィリアが圧の効いた声で呟いた。
どうやら、初手で防御魔法が破られたことでプライドに傷がついたらしい。
「週末のゼウ様との初デートに向けて、ダイエットがしたいのでしたね? 全力で手伝ってあげます」
フィリアではなく、イリアの腕輪——ドラウプニル本体が白く発光した。
腕輪からどろりと溢れた白い発光体は、フィリアの隣で人の形を作り出す。
出来上がったのは、フィリアと同じ白銀の長髪を後ろにまとめた長身の男だった。
知性的な顔つきに、このあたりでは見かけない民族衣装を身につけている。明るくゆったりとしたシルエットに、豪奢な装飾品の類から、どこかの国の王族のようだった。
「お姉ちゃん、これって……」
イリアの口元が呆れたようにへの字になる。
「『砂漠の愛に抱かれて』のアフマウ様じゃあ……」
砂漠の愛に抱かれて——大陸でベストセラーになっている人気の恋愛小説のタイトルだ。
「違います。フラガラッハ様です」
「いや、だって……フラガラッハさん擬体化できない……」
「私が想像する擬体化したフラガラッハ様のお姿です。何度もまぐわった愛しの君」
「え?」
あ……とフィリアはあらぬ方向を向いた。
「愛するフィリアからの依頼だ。私が直々に稽古をつけてやろう」
アフマウ(念押ししておくが、私ではない)は、私とまったく同じ声質とトーンで喋りながら、腰の鞘からロングソードを抜剣した。
「よくわからんが、あれは倒して否定しておきたい。いけるか、イリア?」
「はい!」
「さぁ、フラガラッハ様。私をお守りください」
「当然だ。私の愛が、君を守り通す」
なんだ、あの歯が浮くような台詞は。
私の声で喋られる度、剣先がぞわぞわする。
「さぁ、始めようか!」
アフマウは無造作に剣を横に払った。魔力値は私に及ぶべくもないが、並の剣士よりもその剣速は疾く、威力も申し分ない。
「たぁッ!」
再び、イリアは瞬発的に魔力を引き上げ、切先を下から打ち上げた。
アフマウの剣の軌道が上段へ逸れる。さらにそのまま打ち下ろされた一撃を、イリアは横へ高速回転することで回避した。
「はぁッ!」
回避運動を利用した逆袈裟斬り。その捻転はゼウの動きに酷似していた。
だが、その剣閃はフィリアが出現させた雨雫の粒によって阻止された。
「ズルい! お姉ちゃん!」
「私のフラガラッハ様をそう簡単には傷つけさせません」
「ありがとう、フィリア」
「礼には及びません。愛は障害がある方が燃え上がるのです」
あのやりとりは、つまり、ドラウプニルが一人でやってるんだよな……?
空恐ろしくてツッコむのが憚られた。
「だ、だがまぁ、稽古相手にとって不足はない。続けるぞ、イリア」
「はいッ!」
先日、私はディアーナをして「化け物」と称したが——。
大陸南部の外れで、名無しの女が一人、異常なスピードで化け物じみた才能を開花させつつあった。




