第三十三話 魔剣は口を挟めない①
「む……」
キュピーン! と、フラガラッハ様の感性に閃きが走った。
「恋の香りがする」
さすがはフラガラッハ様。よい勘をしていらっしゃる。
私は部屋の隅に立てかけられたフラガラッハ様を手に取った。
「それは私からフラガラッハ様への慕情の念ですね。気づかれてしまっては仕方がありません」
「え? いや、違う。これはイリアとゼウからの……」
イリアが身につけている、本体である腕輪の思考を停止させる。擬体だけでも、蓄積させた魔力で一日はもつ。
「せっかくですので、リビングで語り合いましょう。私がどれほどフラガラッハ様のことをお慕いしているか、朝までたっぷりお話しさせていただきます」
「い、いや! 待ってくれ、私はまだ……!」
フラガラッハ様を胸に抱き、イリアを一瞥してから、私は部屋を後にした。
だから、この先起こる出来事について、私やフラガラッハ様は一切感知していない。
それはイリアとゼウ、二人だけの物語だ。
※
風が頬に気持ちいい。
ふわりとやわらかな安らぎに包まれたまま、ゼウは目を覚ました。
「ん……」
見上げると、こちらを覗き込んでいるイリアの視線とぶつかる。
「大丈夫ですか、ゼウさん?」
状況が整理できない。
フィリアさんがくれたぶどうジュースを飲み、夕食を片付けた後、風呂に入ろうと思って。
それからどうなった……?
イリアがやさしく頭をなでている。彼女に膝枕をしてもらっているという事実に気づいたゼウは、上体を勢いよく起こした。
「すいません! 俺……! なんてことを」
さらに跳び退こうとしたゼウの手を、イリアは取った。
イリアとフィリアの部屋のテラスだった。
中庭を見渡せるウッドデッキ。
なんてことだ、自分は無防備に寝転びながら、イリアさんの膝を堪能していたらしい。
「お風呂でのぼせて倒れたんですから、まだ動いちゃダメです」
イリアは自分の脇に置いてあるグラスをゼウに差し出した。
ゼウは観念してイリアの隣に腰掛けると、受け取ったグラスの水を一息で飲み干した。
少し落ち着いてきた。
なぜか自分はラフな部屋着に着替えている。
そして、イリアもまた、パジャマ姿だった。彼女からはお風呂上がりのいい香りがして、ゼウは無意識に体を少し離した。
美しいものに、自分が近づいてはいけない。
「星がきれいですね」
イリアは感嘆の声をもらした。
イリアとフィリアの部屋は、アンダーソン兄妹の両親の寝室だった場所だ。窓を開けると中庭につながっている。きっとゼウとイリアの両親は、ここから庭先で戯れる二人の子供たちを眺めていたのだろう。
夜空には満天の星々が散りばめられている。
部屋からもれた灯りが、イリアの愛らしい表情をやさしく浮かび上がらせていた。
イリアが微笑みかけると、ゼウはまた手の平ひとつ分彼女から離れようとした。
「どうして?」
イリアは逃げようとするゼウの左手に、自分の右手を重ねた。
「昼間はいっぱい、近づいてくれたのに」
ウッド・モビールで寝ている時だって、手を握ってくれたのに。
「あれは……」
ゼウはふてくされたように、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「違うんです。俺は……」
長い沈黙があった。
やがて、ゼウは俯きながらポツリと呟いた。
「……守れなかったから」
「え?」
「イリアさんは、二回もさらわれて、危ない目にあったのに……俺は、どっちも何もできなかったから……」
——だから今日は、離れないようにしてくれたのか。
イリアの胸の奥で、「トクン」と何かが跳ねた。
それはとてもあたたかで、なのに、果てしない高揚をイリアにもたらした。
「もしかして、ディアーナ様との試合で無茶したのも……?」
「カッコつけたかった、から……イリアさんの前で」
いたずらがバレた少年のように、ゼウの頬が赤くなる。
「俺……ひとつだけ、イリアさんに言ってないことがあります」
ゼウは泣き出しそうな顔でイリアを振り返った。
「父と母が死んだ時、頼る人がいなくて……。俺……俺は……体を売っていたことがあるんです」
ゼウは大きく目を見開いた。
何が起こったのかわからなかった。
息がかかる距離に、イリアの顔があった。
彼女の大切な、儚く、やわらかいものが、自分の唇に触れている。
長い——。
長いくちづけだった。
固まったまま動かないゼウからようやく唇を離すと、イリアはさっきと何も変わらない表情で、ゼウの顔を下から覗き込んだ。
「だから?」
「え……」
「そんなことで、私がゼウさんのこと、嫌いになると思うんですか? 離れると思うんですか?」
イリアは両手でゼウの手を取った。そのまま自分の胸元に手繰り寄せる。
必死だった。
イリアは、ゼウのことをもっと知りたかった。
「私……っ! あのっ……け、けっこう、限界っていうか……」
「イリア、さん……?」
「あと一言、い、言いたいんですけど! 今、もう、口から心臓が飛び出して爆発しそうっていうか! す、すすすごいことしちゃったから、どうにかなっちゃうていうか……」
イリアは最後まで言いきることができなかった。
ギュッ……と、ゼウがイリアを両手で抱きすくめたからだ。
「その一言は、俺が言います。俺から、言いたいから」
「は、はい……」
二人の鼓動が、同じ速度で早鐘を打つ。
ゼウがイリアの肩に両手を添えて、二人は見つめ合った。
「好きです、イリアさん。ずっと……ずっと好きだった」
「私も……ゼウさんのことが、大好きです」
星が瞬く夜空の下。
イリアは目を閉じ、顎をほんの少し上へ向けた。
ゼウが震える手で、イリアを抱き寄せて——。
二人のシルエットは、ひとつになった。
「ん……」
ゼウらしい、臆病なくちづけだった。
そっとゼウが離れた後、イリアは彼を胸の谷間へ導いた。
「ずっと辛かったね」
「う……」
ゼウは静かに涙を流した。
「誰にも、言えなかったから……」
「いいの。言いにくいことを、話してくれてありがとう」
——つかまえた。
守ってあげたい、とイリアは思う。
心が確かに重なっている。
腕の中にゼウを感じながら、イリアは彼の頭をなで続けた。




