第三十二話
王都から帰宅後の数日間は、穏やかな日々が続いていた。
ゼウは裏山へ狩りに出かけ、ヒナは小型二輪のウッド・モビールで王都の学校へ通う。
「くっそー、あんだけ大騒動になったのに、校舎は無事なんだもんなぁ」
毎朝ヘルムを被りながら悪態をつくヒナだった。
居候状態のフィリアは家事全般を引き受け、フィリアの本体である腕輪をつけたイリアは、剣の稽古を兼ねて連日ゼウの狩りに同行していた。
「うへぇ〜お金稼ぐって大変だぁ〜」
残念ながら、イリアが期待していたようなゼウとの甘い時間はなかった。魔物と遭遇する度、私とフィリアがイリアをしごいたからである。
「いいんだぞ、ゼウに甘えても?」
「フラガラッハさんとお姉ちゃんいて、できるわけないじゃないですかっ!」
事件は、イリアたちが引っ越してきた一週間後の夜に起こった。
「週末だあぁぁーッ!」
フィリアとゼウが用意した豪華な夕食を前に、ヒナは歓喜の雄叫びを上げた。
「たかだか三日、通学しただけだろう?」
「剣に学生の辛さがわかりますかっての!」
「ゼウ様、今夜はこちらをどうぞ」
フィリアはゼウとイリアのグラスにガーネット色の飲み物を注いだ。
「これは?」
「ぺぺを閉店する際に持ち出してきたトラウベンモストです。今夜の肉料理と、疲れた体にあいますよ」
グググ〜とフィリアに促され、ゼウはグラスの赤ぶどうジュースを一口含んだ。
「?」
アルコールの匂いがする。
「フィリアよ、これはトラウベンモストではなく、赤ワインでは?」
「あ……」
ボトルのラベルを確認したフィリアが頭を下げる。
「失礼いたしました。ボトルを間違えたようです」
「いえ、大丈夫ですよ。おいしいです」
そう言って、ゼウはもう一口飲み下す。
ゼウが酒を飲んでいるところを見たことがないが、この様子だと大丈夫らしい。
「え? ゼウにぃお酒飲んだの?」
ヒナに訊いてみたら、慌てたような素振りがあった。
「下戸なのか?」
「いや、わかんないけど……ゼウにぃってお酒飲めたっけ?」
フィリアに促されて、ヒナの視線の先でゼウは赤ワインをどんどん飲み進めていた。
◯
広い湯船に首まで浸かりながら、イリアは「ほぅ」とため息をもらした。
「筋肉痛がなくなってきましたね」
腕輪の状態で話しかける。擬体の方は夕食の洗い物に従事していた。
「それはいいんだけど、ムキムキになってきてないかなぁ」
「一週間程度でそこまでは。ただ、腰回りの贅肉は引き締まりましたね」
「うそっ、そんなについてた⁉︎」
「嘘です」
「お姉ちゃん……」
檜作りの浴場にイリアの恨めしそうな声が響いた。
「よい人たちですね、アンダーソン兄妹は」
「うん。こんなに毎日楽しいのって、それこそ嘘みたい。いっぱい助けてもらって……恩返ししなきゃ」
その時。
「え……?」
脱衣所の戸口が開いて、ゼウが浴室に入ってきた。
当たり前だが、全裸である。
「ええぇッ⁉︎」
湯煙でこちらに気づいていないのか、ゼウはイリアを気にした様子もなく、桶で湯船のお湯を頭からかぶって体を洗い始めた。
何か……。
——様子がおかしい?
(え? はぅ…! な、や……えぇええェ⁉︎)
ゼウの体中の傷痕に、イリアは目を奪われる。
プコットという人物と、アンダーソン兄妹は旅をしていたことがあるという。生身の肉体で、彼はどれほどの死線を超えてきたのだろう。
イリアは顔を口の辺りまでお湯の中へ浸して、そそくさと奥へ移動した。
「……?」
さすがは武術の達人。湯船のわずかな波の音の変化に気づいたゼウと、イリアの目があった。
「あひゃ⁉︎ ぃっ! あああのっ! 先に入っててごめんなさいっ!」
ゼウは目を細めると、とんでもない台詞を口走った。
「入っていいですか……?」
「は? へ? へへ……」
頭と体を洗い終えたゼウが湯船の中に入ってくる。
そればかりか、ゼウはイリアの背後に回ると、後ろから妹を抱きすくめた。
「ふぇっ! ええぇぇぇーッ⁉︎」
イリアの心臓がバクバクと早鐘を打つ。
「イリアさん……」
「は! はいぃ⁉︎」
ゼウの唇が、甘い吐息と共にイリアのうなじに押し当てられた。
「あ……」
くちゅ……と、ゼウのリップが触れる首筋から音が鳴って、イリアはふるっと身震いした。
「ん……」
「……………」
ゼウの逞しい胸板が、イリアの背中に密着している。
激しく高鳴る鼓動が彼に伝わってしまう——それがイリアはたまらなく恥ずかしかった。
「……⁉︎」
ゼウの右手が、イリアの腹部をなでるようにゆっくりと迫り上がる。人差し指と親指が、イリアの双丘の裾野にやさしく触れた。
「あ……だ、だめです、ゼウさん。お姉ちゃんの、腕輪……ある、から……」
そう言いながら、イリアは右手を後ろに回して、ゼウの頭をかきむしるように抱き寄せた。
「ん……そんなところ……つまんじゃ……ぁ……恥ずかしい……」
これはキスをする流れと踏んだらしい。イリアは顔を横に向け、瞳を閉じた。
だが。
「ん……?」
ゼウの顔はイリアのうなじに突っ伏したまま動かなかった。
「あれ? ゼウさんっ⁉︎」
「心拍数を確認しましたが、どうやら夕食で飲んだアルコールが回っているようですね。すぐに湯船から出さないと危険かと」
「酔っ払ってたのッ⁉︎ そんな素振り全然なかったのに!」
肩を貸す形でゼウを湯船から外へ出しながら、イリアが「そんなぁ……」と小声で嘆いたのを、私は聞き逃さなかった。
イリアがなんとか洗い場のあたりまでゼウを運んだ後も、彼は床に転がったまま動かなかった。
「擬体に来させるので、脱衣所のドアを開けて外気だけ入れておいてください」
ゼウの傍にしゃがみ込んだイリアは、顔を赤くしながら彼の下腹部に見入っていた。
「ひゃあぁ〜……」
「イリア?」
「あ! はいはい⁉︎」
「聞いていましたか? 指でツンツンしてる場合じゃありません」
「ご、ごめん、お姉ちゃんっ!」
イリアは立ち上がって脱衣所のドアを開けた。
「まったく……」
平均的な成人男性と比べて、おそらくあれは大きい方だろう——と私は分析した。
男性の裸体を目の当たりにするのは私も初めてだ。いいデータが手に入った。