第二十五話
「なに、このおっぱい⁉︎ えっっろ!」
湯船の中で、ヒナは背後から鷲掴みにしたイリアの両胸をふにふにと揉みしだいた。
「あ……だ、だめだよ、ヒナちゃん……そんなところ、つまんだら……ん……」
「ホントに今まで悪い男に引っかからなかったの? 変なとこ連れ込まれて変なことされたりしてない?」
「あ、や……へ、変、なこと、って……?」
「だから、例えばこういう……」
ヒナは右手をイリアの胸から下半身へ伸ばして、はたと動きを止めた。
「うそ……ない……」
「……?」
「ま、負けた。完敗だ……」
ヒナはイリアの体から両手を離すと、湯船の端に背中を預けてがっくりとうなだれた。
「ヒナ様は、妹と何か勝負をしていたのですか?」
脇から傍観していた私は声を上げた。
温泉でも引いているのだろうか、擬体を通して、私の内側にぽかぽかした何かがじんわりと染み渡る。
「なんでもないっス……こっちの話」
アンダーソン家の浴室は通常の民家の三倍ほどの広さを誇り、湯船に至っては私たち三人が足を伸ばしてもまだゆったり浸かることができるほどだった。
頭にハンドタオルを乗せながら、私たちは「ふぃ〜……」と同時に感嘆のため息をもらした。
「そういえばさ、イリアさんとゼウにぃってどっちから告白したの?」
「えぇッ⁉︎」
イリアはとんでもない声を上げた。
「あれ……?」
イリアは目を泳がせながら口元を波打たせる。
事情を聞いて、ヒナの両目が点になった。
「えぇーッ! まだ好きって伝えてないの⁉︎」
イリアはお湯の中へ口から下を沈めて、コクコクと頷いた。
「イリアさんめっちゃ泣いてたじゃん。てっきりゼウにぃが告白でもしたのかと思ってたのに、あの唐変木!」
さすがは妹。言うことが手厳しい。
「ん? じゃあ、告白もデートもしてないのに、これから一緒に住むってこと? なにこの状況?」
「言ーわなーいでー。それに、で、デートは今度するし」
「そのことなのですが……」
私は口を挟んだ。
「先日のクーデターの捜査のために入国したエステリアの調査団から、出頭命令を受けています。事件の聞き取りがしたいそうです。ゼウ様との逢瀬はその後になるかと」
「えぇ〜⁉︎」
イリアはあからさまに口を尖らせた。
「ウィザードたちのことをどこまで話すのか、私の存在を公にするべきかどうか。事前に決めておかなければならないことは山ほどあります」
「まだまだ前途多難だねぇ」とヒナが茶化す。
「まぁ、王都の復興作業もあって出頭期限は二日後ですから、それまではゆっくりさせてもらいましょう、イリア」
「ゼウさんに迷惑かからないかな?」
「それは大丈夫。ゼウにぃ、さっきの夕食も楽しそうだったし」
「そのような素振りはなかったように思いますが?」
「あんなに喋ってるゼウにぃ、久しぶりに見たんだ。だから大丈夫」
ヒナはなんだか、うれしそうだった。
たっぷり一時間は入浴を楽しんだ後、私たちは浴室を後にした。
「二人ともパジャマかっわいー」
「そ、そうかな? ルームウェアがなくて、恥ずかしいんだけど……」
「いいなぁ、あたしも今度似たやつおそろで買おうかな」
リビングに戻る途中、イリアは裏口で足を止めた。
「あぁ」とヒナが頷く。
「ゼウにぃ、裏でトレーニングしてると思う」
イリアの手がドアノブの辺りをうろうろした。
「声かけていいよ。どうせあたしらがお風呂入ってる間、律儀に外の見張りしてたんだと思うから」
イリアが裏口のドアを開くと、月明かりの下で独闘を繰り返すゼウの姿が見えた。
演舞のように、ゼウの拳が舞う。見えない敵に向かって、目では到底追い切れない速度で蹴りが放たれる。
洗練されてはいるが、雄々しく力強い。
ドアの音に反応して、ゼウは動きをピタリと止めた。
「あの……お風呂ありがとうございました」
「いえ……」
「とっても、気持ちよかったです。体の痛みも和らいだみたい」
「気に入ってもらえたのなら、よかったです」
言いながら、ゼウはイリアと目を合わせなかった。暗がりで見えにくいが、心なしか頬が赤い気がする。
「ははーん」
ヒナの口元がニヤリと歪んだ。
「ゼウにぃ! すごかったよ、イリアさんのか・ら・だ・つ・き」
「な……!」
ゼウがわかりやすく狼狽する。
「聞いてたな、バカ兄貴」
「ちが……! お前の声がデカいから!」
「や、やめてヒナちゃん……」
イリアは俯きながらヒナのルームウェアの袖を引っ張った。頭から「ぷすぷす」と湯気が立ち昇っている。
「のぼせましたか?」
「違うっ」
イリアは頬を膨らませて私を睨みつけた。
——好きなら、裸を見てもらえばいいのに。
生物にとって、性的欲求は自然の反応だ。恥ずかしがるようなものではい。
人間の感情というものが、時々私にはわからない。
「真ん中もーらい♪」
リビングにマットレスを三つ川の字に並べた後、ヒナは中央にダイブした。
二つの空室を私とイリアの客間にあててくれるという話だったが、部屋の掃除が済んでいないので、今夜は皆でリビングに集まって寝ることになっていた。ゼウは入浴中だが、ソファーで眠るらしい。
「ねぇねぇ、三人でぎゅっとして寝ようよ?」
「ヒナ様は元気ですね」
「あたし、お姉ちゃんも欲しかったんだ。夢が叶ったぜ」
居候させてもらう身だが、そう言われて悪い気はしない。
「だから、なぜ私を抱き枕にするのだ?」
私の胸元で、フラガラッハ様が身悶えしている。密着した状態で喋っていただけると、声の振動が直接体に響いて気持ちがいい。
「あぁ、胸の大きさが足りないでしょうか? ひと回りサイズを大きくして谷間に挟めば、クッション代わりになってよろしいかもしれません」
「いや、そういうことでなくて……」
諦めたらしい、フラガラッハ様は大人しくなった。
「調査団のとこ行く時さ、アルトさんにも会えるかな?」
「?」
「いやぁ、ほら……嫌味がないっていうか、サバサバしてるっていうかさ、あの人、けっこういいなぁと思ってて」
「当然レオ師団にも調査が入るでしょうから、会えるのではないでしょうか?」
「だよねー。どうしよう、あたしもデートに誘っちゃおうかな」
アルトはレオ師団の副団長、ジーナとただならぬ関係のように見えたが……言わないでおくことにした。
しばらくして、入浴を終えたゼウがリビングへ姿を見せた。緩めのシャツにボトムパンツ。濡れた頭にはタオルをかけていて、イリアは目を輝かせてゼウを見つめていた。
「お風呂どうだった? イリアさんの残り香嗅いじゃったりした?」
「ヒナ……お前な」
「むっつりのくせに。ソファーじゃなくてこっちに並んで寝たらいいのに」
「いや、外の警戒はしておきたい。万が一何かあったら、すぐに動ける方がいい。それに……」
「それに?」
「女性に混じって寝るだなんて……は、破廉恥だ」
「ゼウにぃ絶対むっつりだわ」
「フィリアが広範囲の防御結界を張っている。並の魔物では入れないし、もし突破されても距離があるから、お前ならそれまでに充分対応できるだろう。気にしすぎだぞ、ゼウ」
フラガラッハ様は諭すように言ったが、ゼウには聞こえない。
「伝言いたしましょうか?」
「いや……面倒だからいい」
「お辛いですね、フラガラッハ様。主とコミュニケーションが図れないことほど、寂しいことはありません。でもこれからは私がついていますから、大丈夫ですわ」
「助けてくれ、ゼウ! なんかこの子ずっとはぁはぁ言ってて怖いんですけど!」
「?」
「うふふ……いくら叫んでも聞こえませんよ」
「すげー。フラちゃんモテモテじゃん。あでも、剣ってキスとかどうやってするんだろね?」
イリアはヒナやゼウの様子をポカンとした様子で眺めていた。
これまで生きてきた二十数年間の中で、こんなに賑やかな夜はなかった。
「うるさいかな。ごめん、はしゃぎすぎてるかも」
顔を覗き込んできたヒナに、イリアはゆっくりと首を横に振った。
「ううん。すっごく、楽しい」
ふふ——と、イリアは穏やかに微笑んだ。