【三題小説】「失われた地図」「冬の灯火」「沈黙の庭」
冬枯れた庭は、沈黙の底に沈んだようだ。
「また今年も長い長い吹雪の日々が来る」
少女はほう、と白い息を吐いた。
高く険しい山々の合間にひっそりと住まう人々に、
自然はわずかな恵みすらも出し惜しんだ。
「私の終の住処は、ここなのだろうか」
遠い遠い都では、溢れるほどの花が満ち、鮮やかで暖かな衣と美食に飽く生活を送るという。
遠い地から買われてきたという、母の遺したロザリオ。
少女はそれを、自分を別の世界に誘う鍵のように、大事にしていた。
ここじゃない。私の居場所はここじゃない。
その気持ちが年々、少女の孤独を苛むようになった。
それは少女らしい華やかな外の世界への憧れというよりも、
まるで自分がこの世界の異物であるような、言い知れぬ違和感のような物だった。
「お前も適齢だろう。鍛治屋の息子が嫁を探しているそうだ」
親を失ってから面倒を見てもらっている村長の言葉だ。
何度も様々な婚姻を断り、最近では苛立っている事がわかる。
子を成せる時期が来れば、この村の女はすぐに男の物になる。
都ではまだ恋と自由を謳歌する年齢と聞いた。
少女の心にかっと憤りがこみあげた。
確かに私は、恩を受けている。
それでも、どんよりとした瞳のあれを、自分の夫として迎えようとは微塵も思えなかった。
それを口に出して仕舞えば、恩知らずの我儘な娘だと、狭い村中が私を白眼視する。
うちの息子の何が気に入らないのかと、詰め寄る鍛冶屋を想像して窒息しそうだった。
ああ、嫌だ、嫌だ。
私の口を塞ぐ負債になるなら、恩など始めから、くれなければ良かったのだ。
最初から棒で叩き、石を投げてくれれば、私は自分を窒息させる、この生ぬるい沼に浸かる事も無かったものを。
村で余った者同士、山羊のようにあてがわれ、愛せぬ人の子を送り出すのが私の生涯なのか。
この村はそれを私の幸福の為だと、押し付けるのだ。
少女はからからになった喉で断りを入れるので精一杯だった。
「考えさせてください」
少女は寝室に戻り、布団とも呼べぬ粗末な布で全身を巻き込んだ。
だがやがて眠りは、鼻をつく獣臭に遮られた。
男が、上にのしかかっていた。
鍛冶屋の息子だった。
無口だが高圧的で、無遠慮になめまわすように
人の身体を見る所を、少女は嫌悪していた。
かすかに開いた扉から漏れる光の中で、
鍛冶屋と談笑する村長の横顔が見えた。
聞こえるはずもないのに、少女の耳には
我儘な娘への、躾だという言葉がはっきりと聞こえた。
安全だと思っていた、自分の唯一の場所が侵された。
全身の力が、萎えている事に気が付いた。
いつかこんな事があれば抵抗してやると
思っていた通りには、手足は動いてくれなかった。
絶望がこんなにも、人の力を奪うとは思わなかった。
「今、女にしてやるからな」
湿った、暗い優越感の籠った言葉が、耳に軟体動物を差し込まれたように少女には思えた。
途端、神が力をくれたかのように、少女の手は自由になった。
声にならない叫びとともに、ロザリオを握り込んだ手で男の顔を打ち払った。
この顔を二度と見たくないと、衝動的に薄い布団を頭から被せ、強く強く巻きつけた。
しばらくはもがいていたが、気が付けば、鍛冶屋の息子は動かなくなっていた。
早鐘を打つ心臓で、少女は扉の外を覗き見た。
村長と鍛冶屋は大分、酒が入り下卑た歓談を続けていた。
「随分、暴れていたようですな」
「なんの、初物の女というのはそういう物ですよ」
それ以上の話は聞くに耐えない、と思った。
少女は小さな高い窓によじ登ると、吹雪の中に身を投げ出していた。
もう本当に、この世界のどこにも居場所を無くしてしまった。
あてどなく、歩く、歩く。
居る場所が無いから、ここにはいられないから。
どこに、どこに行けばいいの。
私の世界は、どこにあるの。
少女の蒼白な指がついには動かなくなった頃、吹雪の中に、ぽつりと、青い灯火が現れた。
冬の灯火を見ると、魔女にさらわれ、帰っては来れない。
そんな言い伝えを語って聞かせてくれた母の声を思い出しながら、少女は目を閉じた。
◇
暖炉で小さく木が爆ぜる音で、少女はうっすらと目を開けた。
石灰岩の像のような白い肌の女性が、少女に笑みを送った。
「お目覚めかい」
魔女とは思ったより高い声なのだな、と、少女はぼんやりと頷いた。
そうして、ようやく体が動くようになった頃に、少女はふと聞いてみた。
「アハハ、私は魔女ではないよ」
長い金の髪を揺らして朗らかに笑う女性に、少女は少しがっかりしたように、俯いた。
「私はポラリスの地図屋さ」
「地図、ですか」
「ポラリスは北極星。道標って意味。ほら、そちらの壁をご覧」
女性がカーテンを引いた奥の壁には、何枚もの地図を重ね合わせた、世界地図が広がっていた。
少女は巡り合わせの皮肉に、少し泣きたくなっていた。
「そうですか、でも私の居場所が記された地図なんて、きっと、どこにも無いでしょう」
「ああ、まだ無いね。だが、面白い。地図屋冥利だね」
女性は歩きながら考え事をするようで、しばらく壁の前を歩き回っていた。
「よし、ここにしよう」
女性が指を指したのは、折り重なった地図の間の、何も書かれていない、空白の地図だった。
「そこの地図は、失われてしまったのですか」
少女がそう尋ねると、女性の穏やかな笑みに悪戯っぽさが加わった。
「とんでもない。北極星がなぜ空の天辺で、一人ぼっちで震えているかわかるかい」
少女は言っている事がわからずに首をかしげた。
「彼がどこにも行けないからだよ」
「どこにも行けない星が、どうして人を導くのですか」
「いいかい。道標はね、それが指し示す終着点にだけは、立っている意味がないんだ。だから地図の、道標の無いところだけが、君の終着点なんだよ」
荒唐無稽。そう思うと同時に、少女の幼い頃からの漠然とした違和感は、
確かに皆が見つけ切った世界のどこにも、居場所などないと告げていた。
「まだここは、世界に成っていないんだ。まだ誰も見ていないのだからね」
それでは、それではまるで観測した時に世界が実体に変わるかのようだ。
「でも、私はそこへ行く手段がありません」
「扉の鍵ならそこに、あるじゃあないか」
女性の向けた指先は、少女の手の中のロザリオを示していた。
促されるがままに、奥の扉の鍵穴にロザリオを差し込むと、まるで本当に鍵であったかのように、
ガチャリと掛け金を外す手応えがあった。
「どうして……」
「世界には既に鍵であるか、まだ鍵かどうかわからない物の二つしかないのさ。人も物も。それで今、鍵だとわかった。それで良いじゃあないか」
明らかにそうではなかった事で言いくるめられているのに、少女には何も反論が浮かばなかった。
「世界を決定するのは、私達の眼差しなんだよ。いいかい。命は世界でなかった物を、世界にしていくのが使命なのさ」
女性は扉の先に溢れた柔らかな光を指し示した。
「でも私は、何も対価を払えません」
「いつか君もまた、誰かの道標になればいい。この世界でほんの片隅にしか居場所の無い者にこそ、極星として輝く才能があるのだから」
そうして地図屋の壁の、失われていた地図の箇所には、真新しい地図が張り出されていた。
見るものが見れば、これらの地図は現実のそれとは違った事に気づけたろう。
その壁面に広がった世界は、少しずつ重なった、様々な世界の地図でできていた。
そこに、どこからも隔絶された、彼女の世界が生まれていた。
少女はこの世界のどこからも、いなくなった。
そうしてこの世界はささやかに、一人の少女を失った。
少女を失った村で、それでも彼女の庭は、沈黙を抱いたままだった。
でもそれは春を待つ、命を秘めた沈黙であった。
それは冬の灯火のようだと、風だけが噂していた。
【俺後書き】
今んとこ最長かつ最も三題のまとめ方に失敗していると思っている一作。
書いてからどうもミヒャエル・エンデっぽいな、と思ってしまう。
こういう話があったような…?
でもこの独我論的な世界形成は直接の元ネタはPS時代にハマったネオアトラス2というゲーム。
地図の空白に船を派遣し、プレイヤーが信じるか信じないかでマップをやり直せるというシステム発想の切り口がとても面白かった。
今書いているギャグ長編でもこういう世界観を使う予定だったりする。