月の実の砂糖煮
知様主催の「ぺこりんグルメ祭」企画参加作品です。
山あいの村はずれに、唖の女が住んでいた。子どものころに熱病で喉がつぶれ、声が出なくなったのだ。名をコンスタンスといい、一人娘があったが、両親も夫もいなかった。コンスタンスは読み書きができなかった。コンスタンスは娘を名付けることができず、村人たちは母親の名を借りて、娘をコンスタンシアと呼ぶことにした。
コンスタンスは貧しかった。
裏山に桑が茂っていたので、蚕を飼い、生糸を繰って生活していた。蚕は春から秋にしか育たない。それで冬になると、コンスタンスは幼いコンスタンシアを教会に預けて小麦畑の手伝いに出かけた。庭にはささやかな菜園があった。マルメロの木もあり、秋に実をつけたが、硬すぎてとても食べられたものではなかった。
コンスタンスは少しもしゃべることができなかったから、コンスタンシアは主に教会で言葉を学んだ。言葉を覚えたてのコンスタンシアがたどたどしく母親に話しかけると、コンスタンスは嬉しそうに笑顔を返した。しかし、それだけだった。コンスタンスが娘に話しかけることは一切なかった。
幼いコンスタンシアは賢かった。母親が話せないことを早くに悟った彼女は、読み書きの練習を司祭にせがんだ。司祭は多忙な奉仕活動の合間を縫って、できる限り彼女の勉強に付き合ってやった。
コンスタンシアが少女として成長すると、母親に読み書きを教えられるまでになった。コンスタンスの飲み込みは遅かったが、とにもかくにも、母娘は筆談を覚えたことによって、意思疎通のレベルが飛躍的に向上した。
彼女たちの家には、石盤と蝋石が常備してあった。
(にんじん の すーぷ か いも の すーぷ か)
コンスタンスが石盤に書きつけると、コンスタンシアはすぐに立ち上がった。
「お庭ににんじんがたくさんあるから、にんじんのスープにしましょう」
コンスタンスの筆記は綴り間違いが多く、文法も滅茶苦茶だったが、コンスタンシアは、母と何気ない会話ができるのがとても嬉しかった。
ただ、彼女たちの筆談には限界があった。娘が教えることのでき、母が覚えることのできる言葉しか使えないのだ。
ときおりコンスタンスは石盤を抱えて考え込んでいた。そんなとき、コンスタンスは文字を書きつけている最中の石盤を、決して娘に見せなかった。
あるときコンスタンシアは、やはり石盤を見つめて考え込んでいるコンスタンスの後ろをそおっと通りがかり、文字を盗み見た。
(あなたの なまえは MAR……)
コンスタンシアの胸がどきりと鳴った。コンスタンスは慌てて石盤の文字をこすって消したが、コンスタンシアの目には母親の書いた文字が目に焼き付いていた。
「私には、本当の名前があるの?」
母親に訊ねると、コンスタンスは困ったように首を横に振るばかりだった。コンスタンスは名前の綴りが分からず、書くことができないらしい。
娘の名前について、それ以上、親子の会話にのぼることはなかった。
コンスタンシアは十四歳になった。
母にならって養蚕を手伝い、立派に糸も繰る。庭のささやかな菜園の世話は、彼女に任されていた。
しかしコンスタンシアは、忙しい仕事の合間のほんのわずかな時間を見つけては教会に通い、本を読んだ。勉学の必要性を身に染みて感じていたのだ。母とより深く対話するには、コンスタンシアが多くの言葉を知っていなければならない。コンスタンシアの見識が広がれば、いつか母親が石盤に書きかけていたあの名前についても、教えてもらえるかもしれない。
コンスタンシアは教会の小さな書斎に篭もり、床にぺたんと座ったまま本の文字を目で追っていた。書架にあるのは、聖書に関する本ばかりだった。
読むことに集中していたコンスタンシアは、司祭がノックもなく書斎に入ってきていたことに気付かなかった。視界が陰った気がしてふと顔を上げると、すぐそこに司祭が立っていたので、コンスタンシアはひどく驚いた。
「……君は、修道に入るつもりかね?」
司祭はコンスタンシアを見下ろす格好で訊ねた。年齢を重ね、落ちくぼんだ眼窩に鋭い光が走る。司祭の真剣な様子に気圧されたコンスタンシアは立ち上がることも忘れて司祭を見上げた。数秒の沈黙ののち、コンスタンシアは「いいえ」と答えた。
「私が家を出たら、母が困ります。このまま俗世で働き続けるつもりです」
司祭は表情を変えずに黙ったままコンスタンシアを見下ろしていた。コンスタンシアは不安になって首を傾げた。
「あの、こうして本を読みに来るのは、ご迷惑でしょうか……?」
すると司祭は片膝をついてコンスタンシアと目線を揃えた。いざり寄り、コンスタンシアの頬へと手を伸ばす。
「唖を親に持つ気の毒な娘よ。こうして育てて、学を授けてやった恩を思うならば、その身を差し出すのが筋というものだろうに」
司祭は骨ばった手をコンスタンシアの頬から首筋にかけてなでおろし、粗末なワンピースの中へ這わせようとした。コンスタンシアは叫び声を上げてその手を跳ねのけ、後ずさりした。
コンスタンシアが何も言えずにいると、司祭はつまらなそうに頭を振って立ち上がって言った。
「やれやれ……もう少し、賢い娘だと思ったのだがな」
司祭は自らの懐から何かを取り出すと、コンスタンシアに投げて寄越した。
「今日の件は他言無用だ。よいな?」
司祭が書斎を去ったあと、コンスタンシアの薄汚れたエプロンの上には、銀貨が一枚だけ残された。
教会を出て丘を降りていくと、今さらのようにコンスタンシアの目から涙があふれた。感じないふりをしていた恐怖が実体を得たのだった。幼い頃から教会に通うコンスタンシアを、司祭はいったいいつからそのような目で見ていたのだろうか。歯が鳴り、手足が震え、コンスタンシアは自分がどうやって歩いているのか分からなかったが、とにかく早く教会から離れたかった。
丘の途中には左右にあんずの木の並ぶ道があった。ちょうど花の時分だったが、可憐な花も、コンスタンシアの慰めにはならなかった。コンスタンシアは、もう一歩もあるけない気がして、とうとうあんずの木の根元に座り込んだ。
膝を抱いて泣いていると、少しずつ恐怖が和らいでいった。恐怖の次にコンスタンシアを支配したのは、絶望だった。もうあの教会には行けない。学びたい一心で通った場所に、二度と足を踏み入れることはできない。コンスタンシアは、居場所をひとつ失ったのだった。今日の出来事は、母親には話せない。コンスタンスを心配させるのは、コンスタンシアの望むところではなかった。
エプロンのポケットには硬い感触があった。取り出せば、手の中に銀の硬貨。こんなちっぽけなものと引き換えに、コンスタンシアの夢は打ち砕かれたのだった。ぎゅっとそれを握りしめ、草むらに放り投げようとした瞬間、思いがけない声が頭上からコンスタンシアに降ってきた。
「あんた、汚れた金を持っているね」
びっくりしたコンスタンシアは、銀貨を握りこんだまま声の主を探した。見上げてみると、いつからそこにいたのか、黒ずくめの老婆が木の枝に座っていた。驚きのあまり涙も引っ込んで老婆を見上げていると、老婆は見かけに似合わない俊敏さで枝から飛び降りた。頭巾も黒。上着も黒。下に重ねた長いスカートも黒。肌も焼けて黒くなっていて、黒でないものは、何かの動物の骨を連ねた首飾りと彼女自身の白髪だけだった。当然ながら、コンスタンシアは老婆を村で見かけたことがなかった。
「その金を寄越しな。そいつは持っていてもあんたのためにならない」
老婆は有無を言わさぬ調子で言い、真っ黒な手をコンスタンシアに差し出した。怯えたコンスタンシアが固まっていると老婆は頭巾の中の白髪を伸びた爪で掻いた。
「タダってわけじゃないさ。あたしは魔女だ。代わりに、あんたが進むべき道を占ってやろう。ほれ、どうだ?」
言われてみれば、老婆はうわさに聞く魔女そのままのなりをしていた。村人たちの話で、この地方を渡り歩く旅の魔女がいるらしいと聞いたことがある。コンスタンシアは半ばやけになって銀貨を老婆に渡した。どうせ捨てようとした金だ。
老婆は銀貨を受け取ると、黄ばんだ歯を見せて笑った。
「あい確かに」
銀貨をポケットに押し込むと、老婆は首飾りから骨の一つを外した。ぱんぱんに膨らんだポシェットから小型の錐を取り出して、その骨に何やら文様を刻み込む。
「火をおこすよ。草取りをしとくれ」
言われるままにコンスタンシアは、なるべく地面が剥き出しになっている場所を選んで、ぷちりぷちりと草をむしった。老婆はどこからか木の枝を集めてくると、火打金を火打石に打ち付けて火口を燃やし、焚き木の中に放り込んだ。
やがて火は大きくなった。
夕日の色をした炎は枝を舐め、飲み込んでは、ひらりと舞い上がって火の粉を散らす。地べたに座り込んで炎を見つめていると、コンスタンシアの心は不思議と凪いでいった。家のかまどで火を焚き、にんじんのスープを作る最中、母と一緒に火加減を見ているときのような、くつろいだ気分になってきたのだ。
コンスタンスは、帰りの遅いコンスタンシアのことを心配しているだろうか。
コンスタンシアが母親を気にかけていると、老婆は文様を刻み込んだ骨を炎の中に放り込んだ。
骨を焼くあいだ、老婆はぽつりぽつりと身の上を語った。老婆がまだ年老いる前、家族を失った彼女に声をかけたのが、彼女の師となる魔女であったこと。その魔女の占いによって、彼女は魔女になると決意したこと。一つの場所に長く留まると、亡くした家族を思い出してしまうため、老いた身体に鞭を打って旅暮らしを続けていること。
気が付けばコンスタンシアも、家庭の事情や勉学の夢について語っていた。先ほど教会で起きた出来事については、傷口が真新しく委細を語ることはできなかったが、「もう勉強できないと思う」とだけ話した。言葉にしてしまうと、再びコンスタンシアの目に涙が盛り上がった。
火の勢いが小さくなってくるころ、老婆は火箸で焚き木を転がし、炎の中から骨を取り出した。骨は変色して割れ、今にもぼろぼろに崩れてしまいそうだった。
老婆は土の上に置いたそれを火箸で転がし、あちこちの角度から眺めてから、おもむろに口を開き、歌うように朗々と声を上げた。
「いとかぐわしき月の実」
「は?」
コンスタンシアが思わず聞き返すと、老婆は元の調子に戻り、言葉を続けた。
「月の実を煎じて母親に飲ませれば、あんたに夜明けが訪れるだろう。作り方は、あんたの母親の商売相手がよく知ってるよ」
コンスタンシアはぽかんと口を開けて老婆を見返した。
「月の実……ってなんですか? 商売相手? え?」
「さあ? 転機はじきに来る。よく注意することだね」
老婆は火の勢いの衰えてきた木の枝を火箸で離して、消火の態勢に入った。それ以上コンスタンシアが何を訊いても、老婆は何も答えなかった。
コンスタンシアは老婆に礼を述べるべきか迷ったが、最低限の作法として「ありがとうございました」とだけ言い、あんずの木の群れを離れた。老婆はじっと火が消えるのを待っていた。
初夏が訪れ、桑の葉が茂ると、コンスタンスは春蚕の卵を孵化させ、養蚕に取り掛かった。蚕小屋には、蚕が桑の葉を食べる音がカサコソとひそやかに響く。蚕は、繭づくりの前夜に最も多くの桑の葉を食べる。その頃には蚕の桑の葉を食べる音はうるさいほどになる。やがて糸を吐くようになった蚕は繭づくり専用の木枠である蔟に移し、繭が出来上がるのを待った。
コンスタンシアは、慎ましやかな光沢を放つ繭を見るのが好きだった。蔟の中にひっそりと育まれた繭は、繊細な糸の檻の中で、静かに羽化の時を待っている。しかしコンスタンスは繭づくりが始まって一週間ほどもすると、蚕小屋に火鉢を持ち込んで、小屋中を乾燥させてしまう。火鉢と一緒に持ち込んだ椿の葉が乾いてパリパリになる頃、繭の中の蚕たちは息絶える。そうして出来上がった生糸の原料としての繭は、良品のみが選別され、大釜で煮たてられるのだ。
そこからはコンスタンシアの本領発揮だった。煮て糸のほぐれた繭からたった一か所の糸端を探し出し、数個の繭から繰り出した糸を撚り合わせ、生糸として完成させていくのだ。
母娘は協力して生糸を作り上げ、とうとう第一弾の製品が出来上がった。
(パウロさんの ところへ もっていって)
コンスタンスは石盤に文字を書いてコンスタンシアに見せた。パウロは隣町の絹織物の職人で、コンスタンシアが生まれるずっと前から、コンスタンスが生糸を納めている相手だ。コンスタンスが話せない事情に深い理解を示していて、決していい加減な価格で買いたたくようなことはしない、信頼できる取引相手だ。
ただ、これまでコンスタンシアがひとりで生糸を売りに行ったことはない。
「私が行くの?」
心細くなったコンスタンシアが母親に弱音を漏らすと、コンスタンスは目を細めて娘の背中をポンとたたいた。
子ども一人分ほどの重さのある生糸を背負って、コンスタンシアは家を出た。
隣町までは歩いて半日もかからないが、生糸は思った以上に重い。初夏の日差しも、コンスタンシアを悩ませた。何度も木陰で休憩しながら、これまでの母親の苦労を思った。これから母は少しずつ老いていくだろう。今まで以上に自分がしっかりしなければ、親子の生活はままならなくなる。コンスタンシアは革袋の水を飲んで、両の頬をぱちんと叩いた。
昼時には町に着いた。
母と訪れた記憶を頼りにパウロの工房を探し当て、コンスタンシアは簡素な木の扉をノックした。ややあって扉が開くと、素朴ななりをした若い男が出てきた。パウロは既に老人の域に差し掛かっているので、彼ではない。誰だろうかと訝りながら、コンスタンシアは礼を取った。
「ごめんください。養蚕家コンスタンスの娘、コンスタンシアと申します。パウロさんに今年一番の生糸をお納めに伺いました」
コンスタンシアが名乗ると、男は破顔した。
「ああ、父に御用ですか。あいにく外出しているところです。すぐに戻ると思うので、中でお待ちください」
男は工房にコンスタンシアを招き入れた。屋内に男と二人きりという状況は、コンスタンシアに否が応にも教会での一件を思い出させた。荷物を下ろし、案内された工場の片隅の椅子に座ると、コンスタンシアは身を固くした。
「僕はパウロの息子、ドゥドゥです。コンスタンシアさん、お腹が空いていませんか? ちょうど昼時ですし、食事にしましょう」
男は戸棚をがさごそと探り始めた。
「そんな、お構いなく」
コンスタンシアは固辞するが、ドゥドゥはのんびりとした声で「ちょうどいいジャムがあるんですよ。ああ、チーズもあった」と言う。あっという間にコンスタンシアの前には、パンにジャム、チーズの皿とミルクが出された。ドゥドゥも同じテーブルに自分の分の食事を持ってきてから、祈りの文句を唱え始めた。場の雰囲気に流されたコンスタンシアも同調し、祈りの姿勢を取る。
「主よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。これらの賜物を祝福し、我らの心と体の糧としてください。かくあれかし」
ドゥドゥが祈りを終えると、コンスタンシアはすかさず言葉を続けた。
「わざわざ食事までご用意いただいたドゥドゥさんにも感謝いたします。かくあれかし」
「ありあわせですが、いただきましょうか」
ドゥドゥはにっこり笑ってコンスタンシアに食事を勧めた。
スライスしたバケットに添えられたジャムは、深い紫色をしていた。ワインのような色合いにも見える。
「これは何のジャムですか?」
「桑の実ですよ」
コンスタンシアは驚いた。初夏に実を付ける桑の木の実をつまみ食いすることはあったが、ジャムにするという発想はなかった。ジャムをバケットに塗って食べると、甘酸っぱい風味が口いっぱいに広がる。
「おいしい!」
コンスタンシアがバケットをぱくつくのを、ドゥドゥはにこにこ眺めていた。そして自らもバケットにジャムを塗って一口食べると、穏やかな声で話す。
「都での下宿先がジャム屋さんで、色んなジャムの作り方を教えてもらったんです。このジャムもそのひとつなんですよ」
「ドゥドゥさんが作ったんですか⁉」
「ええ。お口に合ったようで嬉しいです」
食事を終えてから間もなくして、パウロが戻ってきた。生糸の査定を終えたパウロは、コンスタンシアに金を握らせて言った。
「今年も良い糸を作ってくれてありがとう」
「そんな。母がいつもお世話になっております」
パウロは髭もじゃの顔いっぱいに笑顔を広げて「は、は、は」と声を上げた。
「帰り道はドゥドゥに送らせてくれ。コンスタンスさんにせがれを紹介させてほしいんだ」
コンスタンシアは遠慮したが、ドゥドゥ自身の希望もあり、帰り道はドゥドゥと一緒になった。
ドゥドゥは、商売の勉強のために都で数年を過ごし、町へ帰ってきたばかりなのだと話した。ジャム作りを覚えたのはそのおまけのようなものなのだとのことだった。
「都では絹製品が飛ぶように売れるんです。専門書籍も次から次へと出版されて、目が回るようでした」
ドゥドゥの言葉にコンスタンシアは目を丸くした。
「専門書籍? ドゥドゥさんは本を持っているのですか?」
「都を出るときにいくつか手放してしまいましたが……少しは手元に残っています。興味があるなら貸してさしあげましょう」
「まあ! ありがとうございます」
願ってもない申し出に、コンスタンシアは是非もなく応じた。はじめドゥドゥに抱いていた恐れは、いつの間にかすっかり姿を消していた。コンスタンシアとドゥドゥは、たくさんおしゃべりを重ねながら、村への街道を歩いた。
コンスタンシアは約束通り、ドゥドゥから色々な本を借りた。教会で読んでいたような聖書絡みの本ではなく、生糸生産や加工に関する実践的な本ばかりだった。コンスタンシアは借りた本から得た知識をコンスタンスに余すところなく伝えた。母娘の仕事は効率化し、生糸の生産量は増えていった。
その年最後の晩秋蚕の生糸をパウロに納めたあと、ドゥドゥはいつも通り、コンスタンシアを村まで送っていった。日が短くなり、村に着くころにはあたりは暗くなっていた。
村はずれのコンスタンシアたちの家が見えてきたとき、ドゥドゥは「わぁ」と声をあげた。
「黄色い実がいっぱいだ!」
庭のマルメロの木に果実が鈴なりにみのっていた。コンスタンシアは苦笑した。
「見た目はきれいなんですけどね、硬いばかりで食べられやしないんです」
「そうなんですか?」
ドゥドゥはマルメロの木に目を奪われたままのようだった。黄色い果実が灯火を受けてぼぉっと輝き、闇の中に浮き上がって見える。夜風が甘く爽やかな香りを運んできた。
「まるで月の実だ」
ドゥドゥの言葉を聞いた途端、コンスタンシアの心はざわついた。
(いとかぐわしき月の実……?)
二人は吸い寄せられるようにマルメロの木の下へ行き、黄色い実を見上げた。ドゥドゥはじっと果実を見つめながら、何か考え込んでいる風だったが、やがて口を開いた。
「コンスタンシアさん。これに似た実を、下宿先で見かけたことがあります。実を煎じて砂糖煮にすると、とても喉に良い、薬効あるジャムが出来上がるんです。この実を譲っていただけないでしょうか。ちょっと、試してみたいんです」
コンスタンシアは首を傾げた。
「試す……?」
「もしかしたら、お母さんの声を取り戻す助けになるかもしれません」
ドゥドゥは熱っぽく言ってから、口をつぐんだ。
「すみません。あやふやに期待を持たせるようなことを言ってしまいました」
コンスタンシアは、いつかの魔女の占いを思い出していた。魔女が予言したのは、このことだったのではないだろうか。コンスタンシアは母の了承を得て、ドゥドゥの申し出を受け入れた。
ドゥドゥはその晩、母娘の家に泊まっていった。
翌朝、ドゥドゥはマルメロの実をすっかり収穫してしまうと、母娘の台所を借りてさっそくジャム作りに取り掛かった。
まずは果実の表面の産毛を洗って取り除く。硬い木の実を割り、種を取り出して大鍋で煮出しているうちに、ドゥドゥはマルメロを薄切りにしていった。コンスタンシアも手伝おうとしたが、実は木材のように硬く、とても包丁が入らない。
「危ないから無理をしないでください」
ドゥドゥはコンスタンシアから包丁を取り上げ、額に汗を浮かべて全ての実を切り分けていった。
コンスタンスは火の番をしていたが、思い出したように石盤に蝋石で書きつけた。
(とても よい かおり)
「ええ、そうね。お母さん」
コンスタンスは考え込む素振りを見せてから、石盤にさらに書き込んだ。
(まるめろは あなたの おじいさんと おばあさんが うえたの)
母親の文字を目にして、コンスタンシアは驚いた。祖父母について母親が何かを語るのは、とても珍しい。コンスタンスは言葉を続けた。
(だけど みのる まえに しんでしまった)
ドゥドゥは大鍋に薄切りにしたマルメロの実を加えて、種と一緒に煎じた。家中に甘い香りが漂っている。コンスタンシアが家中の砂糖という砂糖をかき集めると、ドゥドゥは大鍋の中身をざるですっかり濾した。
「実まで取り出しちゃうんですか?」
コンスタンシアが疑問を口にすると、ドゥドゥは困ったように答えた。
「もったいないようだけど、苦みや渋みが出てしまうので、ここで実は捨ててしまいます。さあ、砂糖を加えましょうか」
ドゥドゥは濾した煎じ汁を大鍋に戻すと、大量の砂糖を投じた。鍋の中身を木べらでかき混ぜ続けると、やがてとろみが出てきた。ドゥドゥは火から大鍋をおろし、玉じゃくしで清潔な瓶に煎じ汁を詰めていった。
三人は鍋に少しだけ残った煎じ汁を、それぞれ匙ですくって舐めてみた。
「‼」
ドゥドゥ、コンスタンシア、そしてコンスタンスは目を見開いて互いの顔を見た。
「おいしい!」
「うまくいきましたね!」
ドゥドゥとコンスタンシアがはしゃいでいると、コンスタンスは石盤に何やら書き付けた。
(よあけの いろ)
不思議に思ったコンスタンシアが、コンスタンスの指さす先を見ると、瓶に詰めたマルメロのジャムが、夜明けのような曙色に染まって蜜の輝きを放っていた。
その冬、コンスタンスは毎日マルメロのジャムを舐めて過ごした。大瓶いっぱいに作ったジャムは、少しずつ減ってきた。小麦が芽吹き、麦踏みを終え、雪が溶けてきたころ……
コンスタンシアが目を覚ますと、ベッドに腰かけたコンスタンスが娘の髪を撫でながら、喉にもう片方の手を当て、うなっていた。
「あ……、あぁ……」
コンスタンシアは目をしばたたかせ、次に両手でこすった。うなり声をあげている? コンスタンスが?
飛び起きたコンスタンシアは母親の肩を抱いて訊ねた。
「お母さん、大丈夫? 苦しいの?」
コンスタンスはひゅうひゅうと喉を鳴らすと、再びうなり声をあげた。しかし、コンスタンシアは、母親のかすれたうなり声の中に、確かな言葉を聞きつけた。
「あ り が と う」
コンスタンシアははじめ自身の耳を疑った。つぶれてしゃがれた母の声は決して美しくはなかったが、コンスタンシアのためだけに、まっすぐ投げかけられていた。コンスタンシアは言葉を返すことができなかった。何を言えばいいのか分からなかったのだ。代わりにコンスタンスを抱いて声を上げて泣いた。コンスタンスはいつまでも娘の髪を撫でていた。
マルメロのジャムを舐め続けたコンスタンスは、少しずつ声を取り戻していった。喉の調子が良くなってくると、コンスタンスが娘に語りかける時間は、これまでの分を取り戻すかのように長くなっていった。
そもそも庭のマルメロの木は、熱病で声を失ったコンスタンスのために、両親が植えたものだったらしい。二人は遠方から取り寄せた喉の妙薬・マルメロの種を丹精込めて育てたが、果実がみのる樹齢になる前に死んでしまった。残されたコンスタンスは、硬すぎるマルメロの調理方法が分からずじまいだったのだ。
コンスタンシアは、ずっと気になっていたことを母親に訊ねた。
「お母さんは、私にどんな名前をつけたかったの?」
コンスタンスは、とびきり優しい笑顔を娘に見せた。
「マルメラーダ。あなたは、私の希望そのものよ」
再び桑の葉が茂り、その名が娘に馴染むころ、ドゥドゥが母娘に桑の実のジャムを届けに来た。彼がマルメラーダに結婚を申し込むのは、何度目かのマルメロの季節を迎えたときだった。マルメラーダはコンスタンスとともに隣町へ移った。それからは毎年秋になると、マルメロの甘い香りが絹織りの工房を満たし、家族を柔らかく包んだのだった。
※マルメラーダ:マルメロの砂糖煮。ポルトガルの伝統的な菓子。