未来の君へ
今日は高校の入学式、記念すべき日である。
…というのは建前で、少し環境が変わっただけで、前と同じようになるようになれと思いながら生活をするばかりであろう。
桜が咲き誇る中、緊張した顔をした人がチラホラと見える。
俺と同じ新入生であろう。
俺は前述した通りに思っているので、緊張などしていない。
…と思っていた。
「あのー…君は新入生ですよね…?」
落ちた桜の花びらをを踏みながら学校に向かっていると、突然後ろから透き通るような可愛らしい声で俺のことが呼ばれた。
自信過剰だって?そんなことはない、なぜならば肩を軽く叩かれているのだ。
逆にこれで反応しなかったら、変な人になってしまう。
「はい、俺は新入生ですが」
「そうですよね、新入生じゃなかったら恥ずか死んでいましたよ」
「それで、俺に何か用ですか?」
「いえいえ、大したことでもないのですが、同級生で話せる人が欲しくて」
「ということは俺と同い年ということですね?」
「はい?そうですが?」
「なら敬語は外してもいいか?あまり使い慣れていないんだ」
「そういうことなら全然いいですよ」
そう言い優しく微笑む彼女、俺はさっきも言ったが敬語を使うのは慣れていないので、とても助かった。
というか、同級生だと分かったのに彼女は敬語を外さないんだな。
それから学校に着くまでの十数分は彼女と共に行動することになった。
「そうだ、私たちまだ自己紹介してませんでしたね」
「確かにそうだな、じゃあ先に名前を言わせてもらうが、俺は『矢渡紫苑』って言うんだ、よろしくな」
「紫苑君ですか、かわいい名前ですね」
「別にいいだろ、俺が好きで決めたわけじゃないんだ。気に入ってはいるけどな」
「はい、私もいい名前だと思います」
「それより君の名前は?」
「私は『蓮井綾乃』と言います」
「蓮井ってあまり聞かない苗字だな」
「確かにそうかもしれませんね、今まで気にしたことなかったのですけど」
学校に着くまでは、好きなものについての話などをした。
俺から話を持ち掛けたのだが、この話題で話したのは理由がある。
何が好きかを知っておくことで、これからは好きなことで話を広げられるようにしたかったのだ。
「それではまた後程」
そう言うと綾乃は俺たちが今日から通うはずの学校に吸い込まれていった。
「同じクラスになれるといいな!」
俺が綾乃の後ろをついて行きながらそう言うと、綾乃はくるりと振り返り最初会った時のように微笑んだ。
今更だが、こんなに仲良くなれた人が居てもクラスが違えば話さなくなってしまうのであろうか?
そんなことは考えないほうがいいか、とりあえず今のうちは同じクラスになることを祈っておくことにしよう。
* * *
学校の教職員らしき人に順路を案内されて入った教室にはさっきまで喋っていた少女の綾乃がいた。
「同じクラスだったみたいだな」
「紫苑君と近くになれて嬉しいです」
学校が始まった初日からこんなに話せる人が同じクラスにいて良かった。
誰も喋らずに準備をしているクラスメイトを見ながらそう思った。
俺は矢渡で、綾乃は蓮井だったので、席は隣同士だった。
偶然俺たちの前にいた人数が同じだったようだ。
席は廊下側から見て、男子女子と交互になって並んでいた。
用意されている席の数から考えて、このクラスの人数はざっと40人前後というところだろう。
因みに俺も綾乃も窓側の席で一番後ろの席だった。
窓からは朝日が差し込んでおり、春の温かさも相まってとても眠くなってしまった。
ウトウトとしていると前の方からパタンと何かを置く音とともに、若いが俺たちよりも明らかに年上らしい声で喋り始める人物がいた。
その人物は白衣を着ており、明らかに化学などの先生であることを示していた。
「はい、皆さん集まっていますね」
元気な声でそうみんなの視線を集める。
「これから君たちの担任になる『御神智樹』だ。呼び方は御神先生でも、智樹先生でも構わない。」
声でも少しわかってはいたが、俺たちの担任はかなり若いらしい。
ぱっと見でも20前半であることは確かだろう。
ここまで年が離れていないと、なんだか生徒から友達のような扱いをされろうだが大丈夫だろうか?
「まずは始業式があるからそこで少し待ってろ」
そう言うと御神先生は教室を出て行ってしまった。
「私たちの担任の先生若かったですね」
隣から綾乃が話しかけてくる。
「そうだな、年が離れているよりは話しやすいだろうから、そこは楽そうだ」
さっきの言動からも分かったが、御神先生はかなり友好的というかフレンドリーで、物腰が柔らかいと感じるような声をしていた。
「ただいまー」
そう言ってパソコンを持って帰ってきた御神先生は、カタカタとパソコンをいじり、スクリーンに画面を映し出した。
「お前らの年からリモートで行事を行うことになったらしい。学園長がそう説明してくれた」
なったらしいということは、御神先生は今年から教員になったのだろう。
少しすると、スクリーンにはさっき御神先生の言っていた学園長とやらが映し出される。
…と言ってもここの学園長とは顔馴染みなので、俺は学園長のことをとても知っていた。
学園長は御神先生程ではないにしろ、学園長らしくない年齢をしていた。
30と少しくらいの年齢しかない。
「はい皆さん、ご入学おめでとうございます」
そう一言置いて、話を続ける。
話を要約すると、「入学できたことに満足することなく、日々昇進してほしい」ということだった。
時計を見るとその話だけで、15分くらい使っているようだった。これだけの内容で、15分間話を続けられる語彙力がどこから来るのだろうか。
* * *
学園長の話が終わると、その後の始業式のスケジュールはサクサクと進み、気が付くと放課になっていた。
「紫苑君、一緒に帰りませんか?」
「そうだな」
綾乃とは学校に行くとき同じ道を通ったので、ある程度は同じ方向なのだろう。
そう思った俺は、快く帰りの誘いに承諾した。
「ねぇ紫苑君、紫苑君は未来のことについてどう思いますか?」
「未来って言ったら将来に就きたい職業とかか?」
「そういう考え方もありますが、もっと曖昧な感じで…」
未来か…あまり考えたことはなかったな。
「未来について思うことはないかな」
「私の考える未来はとても素晴らしいところだと思います」
「それまたどうして?」
「人間は進歩する生き物だからですよ、とてもいい意味で」
前向きな子なんだな、世界の良いところだけを見せ続けられた箱入りを想像してしまうくらいに。
「綾乃とはこの辺で会ったけど、ここからどの道に出るんだ?」
俺が綾乃の帰り道を聞くと、綾乃は俺の家に続く方向を指さし「あっちです」と言い放った。
「俺の家と同じ方向だな」
偶然もあるもんだな、偶々(たまたま)話しかけられた人物と、同じクラスで隣の席、そして家がそこまで遠くないときた。
必然的に登校中や学校で話す時が多くなるのだから、これからより一層関係が深くなっていくんだろう。
「方向はさっき聞いたが、本当に綾乃の家はこっちなのか?」
「はい、そうですよ?」
嘘でも言っているのではないだろうかと疑うほど、俺の家の傍まで綾乃は付いてきた。
俺は昔からアパートで暮らしているのだが、つい先日引っ越しでもあったのか、ずっと空いていた隣の部屋がガタガタと音を立てていたのを知っていた。
遂に家まで辿り着いて口を開いた。
「綾乃の家ってあそこのアパートの105号室か?」
「そうですけど、なんで知ってるんですか?」
やはり予想は的中していた。
「俺の住んでいる所は104号室なんだ」
「隣ですね、だから分かったのですか」
「そういうこった」
俺はいつも暮らしている家のドアの前に立って「じゃあな」と綾乃に言い、ドアを開けた。
そうすると、「また明日」といい綾乃が、俺の隣のドアを開け、中に入っていく。
ドッキリとかじゃなかったのか…
まぁこの半日足らずという短い時間を一緒に居ただけでもそんなことする性格ではないことは分かっていたのだが。
* * *
「ただいま」
誰もいない部屋に一人そう呟く。
まだ時刻は12時をまわったところ辺り、お腹が減ってきたので昼ご飯を作ることにしよう。
置いてあった袋麵を作るためにポットでお湯を沸かせる。
「そういえば綾乃と連絡先交換してなかったな」
そう思い出した俺は忘れないうちに綾乃の元へ行こうと玄関を出て、隣のインターホンを鳴らす。
すると「はーい」と言い、綾乃が出てきた。
「どうしたんですか?」
「いやさ、連絡先だけ交換しておこうと思って」
「言われてみればまだ連絡先交換してませんでしたね」
お互いにスマホを取り出し、連絡先を交換する。
「要はこれだけだ、時間取らせて悪かったな」
「いえいえ、気にしないでください」
家に帰りキッチンに戻ると、沸き切ったお湯が溢れていたのは言うまでもない。
* * *
次の日、学校に行く時間を指定した連絡を綾乃に飛ばして、朝の支度をしていた。
時間ピッタリに「おはようございます」と言い、ドアを開けて綾乃が出て来た。
夜、布団の中で考えたのだが、入学したてで新入生かもわからない生徒に声をかけて友達になろうとする綾乃は、改めて考えると異常だった。
クラスが決まり、隣にいる人に話しかけるならまだしも、同級生かもわからない相手に…だ。
異常ではあると言ったが、明らかにおかしいかと言われればそうとも言い切れない。
ただ、不思議な人であることには変わりないので、もっと知りたいと思った。つまり興味が湧いたのだ。
因みに、今日から授業が始まったのだが、授業と言えるようなものではなく、先生の紹介やこれからの授業の流れについての説明を各教科でされ、一日の日程は全て終了してしまった。
授業は終わり、今は帰りのホームルーム中。
「今からプリント配るぞ」
そう御神先生が言い、前からプリントがリレー形式で流れてくる。
プリントに書かれてある内容は、『来週修学旅行に行くので承知しておいてください。』的な内容はだった。
『修学旅行って早すぎるだろ!まだ入学してから1週間しか経ってないんだぞ!』
と何も知らない人からするとそう思われるかもしれないから言っておくが、これは生徒間の関係を深めるのが第一の目標であり、『いじめのない学校を目指す!』を校訓としている我が校では、至って自然な流れでこの行事が行われるようになった。
かなり新しい学校であるが、その当初からこの修学旅行はあったらしい。
話を戻すが、このプリントにはもう一つ大切なことが書かれていた。
それは『基本的に二人一組で行動をすることとなるので、ペアを作っておくように。』ということだった。
順当にいけば、クラスで話せるようになった左右の人か、元々同じ中学校だった友達同士で組むかの二択になりそうだな。
まぁ残念ながら俺は中学の友達などいないのだが。
そんなことはどうだっていい、なぜなら俺には綾乃という心強い味方がいるのだから。
そんな訳で「一緒にペアを組んでください!」と頼み込んだ。
「そんなに頼み込むようにしなくてもいいですよ、私も紫苑君とペアを組もうと思っていましたので」
こうして、友達が初日にできたメリットがいきなり出たのであった。
* * *
時間は早く過ぎるもので、今日は金曜日。
授業もボチボチ始まり、クラス内も騒がしくなってきた。
俺も綾乃以外に話せる人はできたのだが、綾乃ほど仲良くはしないだろう。
6限目に科学の授業が終わり、そのままホームルームが始まった。
初日に紹介はしていなかったが、御神先生は科学の担当だった。
「月曜日から修学旅行がありますので、土日に準備しておいてくださいねー」
そう連絡をして、放課となった。
若い先生であるからなのか話が短く、他クラスより帰りが早いのでかなり嬉しい。
「修学旅行の準備って言っても何すればいいんだ?」
帰り道に綾乃に質問をする。
「入学した日に配られたプリントに必要なものは書いてあったと思いますが」
確かに書いてあった気はするが、先週配られたプリントの詳しい内容など覚えていない。
「スケジュールが1泊2日だったはずなので、着替えなどは必要でしょうね、それと大きめのバッグも」
日帰りじゃないのか、この修学旅行。今初めて知った。
「楽しみですね」
「そうだな」
いつものように、綾乃は優しげに微笑んだ。
* * *
土曜日は、綾乃を誘って修学旅行で必要なものを揃えるため、買い物に出ていた。
休日だし他に用事でもあるかと思ったが、快く了解してくれた。
今のところ必要だと思っている物は着替え用の服と、雨具、モバイルバッテリーなどがある。
それ以外に必要なものがあれば、その度買い入れることにしよう。
あまり動かずに色々な物が買えるように我々はショッピングモールに来ていた。
必要なものが出てきても、基本的に何でも揃うから丁度良いだろう。
俺も綾乃も一通り買いたい物を買い終え、帰ろうとした時…
「折角ショッピングモールに来たんですから、もう少し遊んでいきませんか?」
綾乃の口からそんな誘いが出るとは思わなかった。正直驚きが隠せない。
「いいぞ、せっかくの休日だしな!」
俺も今から帰ってもすることはなかったので、断るという選択肢はなかった。
とりあえず、午前中に集まり、今はお昼時でお腹が空いていた。
「一旦どっか昼食べに行かないか?」
「いいですね、好きなものとかありますか?私は好き嫌い無いのでなんでもいいのですが」
「俺も特に食べたいものが決まってるわけじゃないんだよな…」
「じゃあとりあえずフードコートに行きましょう」
「そうだな、気に入ったのがあるかもしれないし」
フードコートに着くと、たこ焼き屋が俺の目に留まった。
「綾乃、俺はたこ焼きを食べることにする」
「随分と早いですね、なら私も一緒に行きます」
そう言って俺の後ろを付いてくる綾乃。
家でたこ焼きを食べることが無かったので、久しぶりにたこ焼きを食べる気がする。
最近食べていなかったから俺の目に留まったのだろうか?
まぁ期待通り、気に入ったものが見つかったので良しとしよう。
2人分のたこ焼きを店で購入し、向かい合わせの席に着く。
「「いただきます」」
そう二人同時に言うと、またしても同時に箸を動かす。
綾乃は普通のたこ焼きを買っていたが、俺はチーズの入ったたこ焼きを買った。
「綾乃?チーズ入ったたこ焼き一ついるか?」
「良いんですか?」
「いいぞ、分け合った方が美味しく食べれるだろうしな」
「そういうことなら一ついただきます」
そう言って俺のたこ焼きを一つ取ると、綾乃も自分のたこ焼きを俺の船皿に置いていく。
「分け合った方が美味しくなりますもんね」
そう言い、こちらを見て微笑む。
なんだこの子…天使か?
プレーンのたこ焼きはとても美味しくいただきました。
たこ焼き自体の量は多くなかったので、すぐに食べ終わってしまった。
「「ごちそうさまでした」」
2人で声を重ねそう言うと、これから何をするかという話になった。
「なんかしたいことあるか?」
「うーん…強いて言えばゲームセンターですかね…」
なんか歯切れが悪いな…体調でも悪いのだろうか?
気になって聞いてみることにした。体調が悪いなら今遊ぶよりも、修学旅行のために体調管理をした方が数倍マシだろうし。
「体調は悪くないんですけど、うるさいところってあまり好きではないんですよね…」
「じゃあなんでゲームセンターを勧めたんだ?」
「今遊べるところがそこ以外に思い浮かばなかったからですかね、男性ならゲームは好きでしょうし」
「俺はゲーム好きだが、男子の全員が全員ゲーム好きかと言われたらそんなことないと思うぞ」
「確かにそうですね」
綾乃が嫌がっているなら、無理してゲームセンターに行かなくても良いだろう。
ならばと思い、したいことに誘ってみる。
「一回帰って荷物を置いていかないか?」
「いいですよ」
* * *
歩いて家まで帰ると、一度別れ修学旅行用の荷物をバッグに詰め込み、再度ドアを開け外に出る。
「お待たせしました」
直後、綾乃が俺の出てきたドアの隣のドアから出てくる。
「行くか」
そう言って俺は歩き出した。
綾乃には目的地を言っていないので、少し困惑したような顔をしながら俺の後を付いてくる。
なにもな会話をしないのもつまらないと思い、俺から会話を振ってみることにした。
「綾乃って嫌いなものはあるか?」
入学式前に好きなものについて聞いたので、今度は嫌いなものについて聞くことにした。
「そうですね…都会、でしょうか」
ゲームセンターがうるさくてあまり好きじゃないと言っていたし、人混みも同じように好きではないのだろうか。
「俺は逆だな、逆っていうほど逆でもないけど」
「田舎ってことですか?」
「そうじゃないんだが…廃れている所が嫌いだな」
「田舎とは違うんですか?」
「田舎は廃れているわけではないだろ?」
「言われてみたらそうですね、確かに田舎は廃れているとは言いませんね」
「そういうことだ」
* * *
歩いているうちに、目的地に到着した。
「ここは…綺麗ですね」
「そうだろ、俺のお気に入りの場所なんだ」
到着した場所は川だった。かなり小さいが森の中に流れている川は、秘境と言われるに相応しいと言えるだろう。
昔からここに来ていたが、この場所に人が居るところを見たことが無く、一人になりたい時に来ることが多かった。
そして、今まで自分以外にこの場所を教えたことはなかった。
つまり、綾乃が俺以外にこの場所を知っている唯一の人ということになる。
「家からそんなに離れていないのにこんなところがあるなんて知らなかった…」
そんなに離れていないと綾乃は言っていたが、実際は1時間近く歩いている。
気軽には行けないが、たまに来るにはいいところだと思う。
2時間ほど川の音を聞きながら、駄弁っていると夕陽が赤く染まりだした。
「そろそろ帰るか」
「そうですね、寒くなってきましたし」
立ち上がり、帰りの方向へ歩き出すと綾乃も俺の後を付いて来る。
「また連れてきてくださいね」
歩き出した時に綾乃はそう言った。
また1時間程の時間をかけてアパートまで戻ってくると、流石に少し疲れたのか「それでは」とだけ言い、綾乃は自宅へ消えていった。
* * *
「ただいまー」
俺もドアを開け、我が家へ帰宅する。
久しぶりにあの場所へ行ったからか、心が少し休まっているように感じた。
気が向いたらまた行くとしよう。またも綾乃を誘って。
窓の外を覗くと、さっきとは違い月が綺麗に輝いていた。
日曜日は元々予定が無かったのだが、綾乃から『紫苑君と一緒に遊びたいです』と連絡が来ていた。
「綾乃から遊びに誘ってくるなんて珍しいな」
「確かにそうかもしれませんね」
その後、「それと暇だったので」と付け加え、歩き出した。
「紫苑君は昨日よく眠れましたか?」
「あぁ、ぐっすり眠れたぞ」
「私もいつも以上に眠れた気がするんですよね」
あの場所に行ったから、心が休まったのだろう。
自然的な情景は日本人として安らぐものがある気がする。
「着きました」
そう言うと、俺はこの辺一帯でも大きく有名な河に辿り着いていた。
「昨日は紫苑君のお気に入りの場所に案内されたので、今度は私のお気に入りの場所を紹介しようかと思いまして」
大きく幅を取った河と、それに比例するように大きく広がった河川敷
俺は河川敷の方へ歩き出し、ゴロンと寝転んだ。
今の時刻は午後の2時くらいで、太陽が高く昇っていた。
太陽の光は俺の体を温め、眠気を誘う。
「昨日はよく寝れたって言ったけど、まだ寝れそうだな…」
かなり朦朧としてきた意識で、そう呟くように言った。
「そうですね、私もよくここで昼寝をするんですよ」
「何にも追われないで寝っ転べるって幸せだな」
俺は瞳を閉じたまま会話をする。
見えてはいないが、綾乃も瞳を閉じているのだろう。
それほどまでにポカポカとした陽気に身を包まれるというのは、極楽といえるものだった。
絶えず会話をしていたはずなのに、いつの間にか俺の意識は深いところへ落ちていた。
* * *
「…てください、起きてください」
「んっ…」
目を覚ますと、太陽は黄色に近い光ではなく、オレンジに近い色で光っていた。
「やっと起きてくれましたね、もう結構時間経ってるんで帰らないとですよ」
「もうそんな時間か…」
大体の時間を把握した俺は、本格的に帰らなければいけないことを意識する。
「紫苑君とってもぐっすり眠っていましたね」
「4時間以上昼寝をしたのは久しぶりだったからな」
「私も寝ていたんですけどね」
「あそこは本当に気持ちよく寝れるな」
「だから私はあそこが気に入ってるんですよ」
眠るつもりは殆ど無かったのに眠ってしまったという事実が、その場所が良いところであるということを証明していた。
アパートに着いたが帰る前に一つ言わなければいけないことがあった。
「また連れて行ってくれよ」
「はい、また今度に…ですよ」
そう会話を交わし、俺たちは別々のドアに手を伸ばした。
* * *
「はーい、ここに一列で並んで」
御神先生が俺たちのクラスの統制を取っていた。
新任とはいえ、仕事はできる人ということがこの一週間で分かったので、クラスメイトは全員と言っていいほどの人数が、御神先生のことを信頼していた。
「楽しみですね」
「そうだな」
修学旅行のペアを決めた時と全く同じ会話をし、これからの修学旅行が楽しみであることを表す。
移動はバスでの移動ということになっていた。
バスの席はクラスで1台、ペアで隣同士ならどこに座ってもいいということになっていた。
俺たちのペアはどこでもいいと思っていたので、出入りの楽そうな前の方の席にした。
クラスのみんなはこれからの修学旅行が楽しみで仕方がないのか、空気はソワソワと浮足立っていたが、その空気を切るような者は誰一人としていなかった。
行先は海辺の都市らしく、夜は海の見えるホテルに泊まるらしい。
そう聞くだけで、楽しいと分かる。
友好関係を深めることが目的なので、ペアとなった人と離れなければ行動は自由で何をしても良いらしい。
バスの中は騒がしくあったが、隣で綾乃がすぅすぅと寝息をたて眠っていた。
日曜日に昼寝をしたと言っていたから、夜眠れなかったのだろう。
俺は夜眠れないなんてことはなく、ぐっすり眠れたのだが。
会話をするためだけに起こすのは悪いと思ったので、俺も目的地に着くまでは目を閉じることにしよう…
* * *
「はい、目的地に着いたので眠っている人を起こしてください」
御神先生のその声によって、俺は目を覚ます。
綾乃はまだ眠ったままだったので、起こすことにする。
「おい、起きろ、着いたぞ」
肩を軽く揺すってみる。
「はい…」
まだ眠たそうだったが、起きてくれたみたいだ。
「まずはホテルに行って荷物を置きます。その後は自由行動となりますが、怪我などはしないように気を付けてくださいね」
最低限の注意と、これからの行動を教えてくれた御神先生は前の方の席から、案内を始める。
事前に知らされていた番号の部屋に辿り着くと、早速ドアを開けて中を確認する。
「おー」
「綺麗ですね」
そこには、ベッドが二つと大きな窓、そして個室の小さな露天風呂が用意されていた。
着替えなどだけを置いて、集合時間に間に合うように部屋を出る。
「よし、全員いるな。では自由行動でいいぞ。でもペアとは逸れるなよ」
「「「はい」」」
クラス全員でそう返事をすると、そのまま街に向かって一斉に歩き出した。
「俺たちも行こうぜ」
そう言うと綾乃は俺の服を掴み、「待ってください」と消え入りそうなか細い声でそう言った。
「どうした?」
「都会って…苦手なんです……」
「確かに昨日そんなこと言ってたな」
「はい…少しトラウマがあって…」
苦手程度の物かと思っていたが、そこまで重症だとは思わなかった。
「じゃあこのまま海でも見てるか?」
「それもいいですけど一回部屋に戻りませんか?」
綾乃の手は微かながら、しかし確かに震えていたので、嘘というわけでもないのだろう。
これ以上綾乃を怖がらせてはいけないと思い、綾乃の言う通り部屋に戻ることにする。
幸い自由行動だったので、ホテルに戻っても誰も何も言わなかった。
* * *
「大丈夫か?」
普段とは打って変わり、暗い顔をした綾乃。
「何があったのか話してくれないか?少しでも綾乃のことを知りたいんだ」
綾乃にトラウマがあったことを俺が知らなかったから気が遣えなかったのだと反省し、それと同時に綾乃のことを知りたくなった。
それも、いつも以上に。
「怖い人が居る…とかではないんですけど、都会が危ない所だと知っているので…」
何かの恐怖症に近いのだろうか、綾乃は特定の物を怖がっているように見えた。
「トラウマを克服できない私はやっぱり駄目ですね」
そう言って作ったように微笑む。
その眼には、少しではあるが潤いがあった。
「いや、無理に怖いものを克服する必要はないだろ、それよりも現在を楽しもうぜ」
「そうですね…元気出ました」
今度は自然と笑みが零れていた。
その後は夜にやるようにと持って来たトランプなどで遊んだ。
会話はさっきの様にしんみりとすることは無く、意気揚々とした雰囲気が部屋中に漂っているようだった。
綾乃がトラウマについて、少し前向きに考えるようになったからだろうか?
前向きと言うのが合っているのかわからないが、前のように綾乃が笑ってくれたので、俺はそれで良しとしよう。
いつの間にか窓から入ってくる光は淡くなり、ドアの向こうから話し声と足音が聞こえ始めた。
「もうみんな帰ってきてるみたいだな」
「もうすぐ暗くなりますし、御神先生のことですからなるべく早くホテルに戻るように連絡でもしているのでしょう」
綾乃がそう言ったので、スマホを取り出しクラス内での連絡事項を確認すると、予想通りそこには御神先生から『6時までには全員ホテルに集合しているように』と書いてあった。
「やはりそうでしょうね」
「あの先生のことだ、『ホウレンソウ』はしっかりしているからな」
クラス毎に部屋が固まっているので、話し声や足音が少なくなった時『もう既に、うちのクラスは全員ホテルに帰ってきたのだろう』と思った。
「もうクラスの奴らは全員帰ってきたっぽいな」
「そうですね、となると…」
タイミングを見計らっていたのだろうかと疑うほど丁度良く、スマホがバイブレーションを起こし、連絡が来たことを俺たちに知らせる。
「やっぱり来ましたね」
連絡の差出人は御神先生で、『ペアのどちらかが6時30分に俺の部屋に集合』と書かれていた。
「6時30分となると…あと丁度30分後くらいか」
「まだ結構時間に余裕がありますね」
一瞬風呂に入ろうかと思ったが、今から部屋の風呂に入ったら、集合の時間に間に合わなくなるかもしれないので止めておいた。
「紫苑君、未来について話しませんか?」
「未来って言うと、入学式の日みたいにか?」
「そうですけど、もっと詳しく紫苑君の思い描く未来の話を知りたいので。私、未来のことについて人と話すの好きなんですよ」
俺の思い描く未来の話と言っても、そんなの全く思いつかないな。
「強いて言わせてもらえば、家族が欲しいな」
「家族ですか?」
鸚鵡返しにそう聞き返される。
「優しい家族に囲まれて過ごすんだ。それって何よりも幸せだろ」
「幸せの基準は人それぞれだと思いますが…そうですね、とても素晴らしい話だと思います!」
目を光らせながら、そう綾乃は俺の話を褒めてくれる。
「未来の話と言っても、自分のこと以外にも沢山話すことはあると思うんです」
「自分のこと以外の未来の話…か」
「そうです。例えば、環境のこととか、仲の良かった友達のこととか」
「環境について考えるのは国を代表する人たちがやればいいと思うが…」
「確かにそうですね」
綾乃はそう苦笑をして、話を元に戻す。
「私たちって未来ではどんな関係なんでしょうね」
考えてもみなかった。
改めて考えてみると、俺たちの関係は数年後どうなってしまうのだろうか。
だが俺は…
「俺は綾乃のこと忘れないと思うし、良い関係を続けたいと思っているよ」
「私も、紫苑君とずっと一緒に居たいです」
* * *
「もうこんな時間か」
部屋についている時計を見ると、時計の針は6時25分辺りを指していた。
御神先生の部屋はこの隣だったので遅れることは無いのだが、早めに行動しておいて良いだろう。
「私が行ってきましょうか?」
そういえばまだどちらが先生の部屋に行くか決めていなかった。
「俺が行ってくるよ、帰ってくるまではゆっくり寛いでいてくれ」
「わかりました。そうすることにします」
俺は「じゃあ、また後で」と言い残し部屋を後にした。
隣の部屋を見ると、ドアは開いており生徒が間違えないように工夫がしてあった。
「失礼します」
そこにはまだ御神先生の姿しかなかった。
「おぉ紫苑君、早いな」
「いえいえ、5分前ですし」
そう言うと御神先生は嬉しそうに微笑んだ。
すると間もなく大量の足音が聞こえてきた。
クラスの半分の人数が集まったことを確認すると、御神先生は「みんな時間内に来れて偉いな」と言葉を置いた後、そのまま話を続ける。
「これから皆風呂に入ると思うのだが、大浴場と部屋の露天風呂どちらを使用してもらっても構わない」
大浴場なんてものがあるのか、初めて知った。
でもこのホテルはかなり大きいホテルなので、大浴場があってもなにも不自然なことは無いのだが。
「7時半に食堂に集まって食事をとるので、それまでに食堂にいること」
御神先生が「以上、解散!」と言った瞬間、クラスメイトが自室に戻りだす。
俺も戻ろうと思い後に続くと「紫苑君は残ってくれ」と呼び止められる。
なんだろう、悪いことは特にしてないと思うのだが。
「なんですか?」
「紫苑君のことは学園長から聞いているよ」
学園長が何を話したのだろう?
「君も俺と同じような境遇にいたらしい、昔は…ね」
「やっと理解しました。御神先生も”拾われた”んですね」
「全くもってその通りだ。まぁ君と僕以外にはいないらしいけどね」
* * *
暗闇の中に少年が一人、雨に打たれていた。
「君…どうしたんだい?」
急に体が雨に当たらなくなる。
「どうもしない…」
上を見上げることは無く、下を向いたままそう応える。
「俺と一緒に来ないか?」
そう勧誘された。
知らない人にはついて行かないのがこの世の定めた安定択というものなのだが…
何も言わずにコクリと頷くと、若く整った格好をした男性の後をついて行く。
着いた場所は学校だった。
「ここは…?」
「見ての通り学校さ、ここが俺の家のようなものなんだ」
学校に住んでいるということは普通の者ではないだろう。
「数日はここで暮らすといい」
そうして、身の丈に合っていない服とふかふかとした布団を渡された。
なぜ俺にこんなことをしてくれたのかは考えなかった。
幸せを願いすぎて夢に出ているだけだろう。そう思う他に無かった。
少し横になろうと思い布団に入った瞬間、緊張しきった意識は飛んで行った。
「おはよう、昨日はよく眠れたようで良かったよ」
そう言い柔らかそうなパンを1つ俺に差し出してくる。
夢ではなかったのか?なぜ目が覚めたはずなのにまだ学校にいるんだ?
「魘されている様子もなかったから大丈夫だと思うが、体調はどうだ?」
「大丈夫です…」
弱々しくそう応えると、男は高く笑った。
「ここが今日からお前が住む家だ」
数日を学校で過ごし、住居ができたと言われて連れてこられた場所はどこにでもありそうな、至って普通のアパートだった。
「さぁ中に入って」
男がそう言うとドアを開けてくれた。
中に入ると、そこまで大きくないにしろかなり綺麗に整った部屋が目前に現れた。
「座って話をしようか?」
優しく物言いで男がそう言った。
ここまでしてもらって否定はできなかった。
「あの日、君はどうしてあんなところにいたんだい?」
「家出してきた」
「ただの喧嘩ではないんだろう?服もボロボロだったし、その日はずっと雨が降っていたから傘もささずに家を出ていることになる」
「うちの家庭はおかしかったんだ」
質問をされる前に自分から声を動かし始める。
この人になら何があったのか話してもいいと思った。
「父親はアルコール中毒、母親は家庭を何とかする為に働きづめでほとんど家に帰ってこなかった」
「…」
「学校には行っていなかったし、家にいても父親には暴力を振るわれていた」
思い出して悲しくなるが、涙をグッと堪え話を続ける。
「あの日、家にいるよりも外に行った方が楽だと思って家を出たんだ」
「やはりそういう事情があったのか…」
男は顎に手を上て考えているような仕草をする。
「君の身元とこれからの生活は俺が保証しよう、ここで安心して暮らすと良い」
そう言って、一つだけ連絡先の入ったスマホを投げ渡してくる。
「何かあったら呼んでくれ」
* * *
「話はそれだけだよ、学園長から知らされた情報が真実か確かめたかったんだ。それにしても紫苑君のクラスの担任に任命するとは、学園長も性格が良いのか悪いのか…」
御神先生はその後「はぁ」とため息をつき、自室にて休んでいてくれと俺に伝える。
「ただいま」
そう言い自室のドアを開ける。
「あっおかえりなさい。遅かったですね」
「御神先生と話をしていたんだ」
先に風呂に入りたいと言うと、綾乃は快く「いいですよ」と言ってくれた。
「ふぅ…」
脱衣所にて服を脱ぎ、暖かい湯船に浸かる。
それにしても御神先生との話でまた昔のことを思い出してしまった。
あの頃は中学1年生くらいだったから、3年近くたっているはずなのだが、なかなか忘れることができない。
「失礼します」
そう綾乃の声が聞こえたので、「おう」と無意識に返事をする。
…綾乃の声?
綾乃はタオルで一応隠してはいるが、裸でこちらに歩み寄ってきた。
風呂だから裸なのは当たり前なのだが、なんで綾乃は風呂に入ってきたんだ!?
困惑しているとチャプっと音がし、隣には綾乃が座っていた。
「ななな何でここに!?」
「おうって言ってたので、入っていいということなのかと」
「いやそういうことじゃなくて!男女で風呂に入るのは流石にマズいだろ!」
「そういうことなら私は気にしませんよ?」
「俺が気にするんだよ!」
前から不思議な奴とは思っていたが、まさかここまでだったとは…
しかし入ってきてしまったのはもう仕方ないことなので諦めることにしよう。
「紫苑君…辛くありませんか?」
「辛いって何がだ?」
「勘違いなら良いのですが、部屋に帰って来た時とても辛そうな顔をしていたので」
あー、昔のこと思い出したからだな。
なるべく出さないようにしていたのだが、やはり完全に隠せていたわけではなかったみたいだ。
「辛かったら頼ってください」
そう言って俺に抱きつく綾乃…綾乃!?
俺から離れた後に「話はこれだけです」と言い、早足で風呂場から出て行ってしまった。
何だったんだ…本当に。
だけど、吹っ切れることができた気がする。
世の中には自分の親みたいな奴しかいないと思っている時期があったが、実際そんなことはなく色んな人が居るらしい。
* * *
修学旅行は終わり、自分の住む町に帰ってきた。
水曜日は休みであったが、木曜日と金曜日は普通に授業があった。
水曜日はまた綾乃とどこか行こうかと考えたが、流石に迷惑になるかもと思い止めておいた。
土日にも一緒に居たので、たまには一人になりたかったというのもある。
因みに、木曜日と金曜日の話題は修学旅行の話で持ち切りだった。
土曜日になり、食料や筆記用具などの買い物に行かなければならないことを思い出した。
綾乃と一緒に行こうと思い誘ったのだが、日付を聞かれた後に断られてしまった。
用事でもあったのだろうと思い深くは聞かなかったが、綾乃から誘いを断られたのは初めてな気がする。
* * *
しょうがないので独りで街に出かけると、すぐに大きな建物が見えだした。
歩道は広く作られており、ランニングをしている人がチラホラと見受けられた。
歩いていると前から小さな女の子が歩いて来た。
家族らしき人物はいなかったので一人だろうか?
年齢は多分小学校低学年あたりに見えたので、家族なしでこんなところ歩いて大丈夫なのかと心配になる。
その女の子と俺との距離が少し縮まった時、隣の工事中のビルからカタッと音がした。
音のした方向を見上げると、鉄骨が物凄い勢いで高度を下げていくのが目に映った。
俺は鉄骨に気付いておりそのままでも当たらないだろうが、鉄骨の真下には女の子がいた。
考える間もなく俺は走り出し女の子を突き飛ばした。
鈍い音と共に俺の意識は消えていった。
* * *
目を覚ますと視界の中には白しかなかった。
一瞬ここは天国なのだろうかと思ったが、首を少し傾けるとそこには生命補助装置的なものが置いてあった。
しかし、酸素の供給を無理やりされていたり、血管に直接栄養を流されたりはしていなかった。
窓から町の風景や空も見えたのでここは病院なのだろうと予測する。
「こんにちは、意識が戻ったみたいですね」
白衣を着た男性が、俺に話しかけてきた。
多分だが、この病院の看護師なのだろう。
その後は、意識がどれだけハッキリとしているか、記憶の障害などは発生していないかだけ確認され、すぐに男性は出て行ってしまった。
置いてあったカレンダーを見ると今日は日曜日らしい。
ということは、丸一日は意識が戻らなかったのか。
少し経ってさっきの看護師と二人の女性が病室に入ってきた。
二人の女性と言っても、年齢的に見ると親子なのだろう。
…というかあの女の子見たことあるぞ?
あっそうだ、鉄骨の下敷きになる前に俺が突き飛ばした子だ。
ならば感謝でも伝えに来たのだろうか?
そう思っていると…
「ありがとうお兄ちゃん」
女の子がそう感謝を伝えてくれた。
「君もケガはない?」
そう問いただすと、女の子は「うん!」と元気よく答えた。
その後は同伴していたその子のお母さんらしき人物に、散々というほど感謝をされた。
こんなに感謝されるなら、助けた価値があったというものだ。
「俺の名前は矢渡紫苑って言うんだ。君の名前は?」
何かまた縁があるかもしれないと思ったので、一応名前を聞いてみることにした。
すると、女の子は「蓮井綾乃」と、良く知っている名前を口にした。
いつの間にか病室からいなくなっていた看護師が時間を伝え、二人に帰る様に勧める。
お母さんは「失礼しました、またお見舞いに来ます」と言い、頭を下げてから病室を後にし、女の子は「じゃあね」と言い、手を振りながら病室を後にした。
数分後、あの二人の案内が終わったのか、看護師がまた病室に顔を出した。
看護師は俺に何があったのかの詳しい状況を教えてくれた。
俺が女の子を突き飛ばした際の勢いで少し前に出ており、外傷は足の怪我だけで済んだらしい。
骨まで響いていたので完治には時間がかかるそうだが、命に別状は無いとのこと。
丸一日意識が戻らなかったのは、鉄骨が足に当たった際のショックが原因だと言っていた。
看護師が状況の説明を終え病室から出て行った直後、とてもよく知った顔立ちをした人物が部屋に入ってきた。
「紫苑君、足の怪我は大丈夫ですか?」
「綾乃…」
「紫苑君は偶然あの女の子と私の名前が一緒だったと思っているのかもしれないので言っておきますが、あれは紛れもなく昔の私です」
「どういう…ことだ?」
現実を受け止められていない、有り得ない話過ぎて、本当はあの時死んでしまったのではないかとさえ錯覚した。
「そのままの意味ですよ、タイムマシンに乗ってこの時代に跳んで来たんです」
そんなフィクションのようなことを綾乃は口にした。
しかし、綾乃が嘘をつくような性格ではないことは重々承知していた。
「私はあの時、貴方がとても輝いて見えたのです」
あの時というのは俺が綾乃を突き飛ばした時という意味だろうか?
「私にとって貴方は命の恩人です。ですから、どうしてもこの時代の貴方に会って話をしたかったんですよ」
「じゃあ、未来の話が好きって…」
「そうですね、本当は私が未来から来ていることを示唆していたんですよ?紫苑君は気付いていなさそうでしたが…」
だから、執拗に未来のことについて聞いて来たのか。
というか、今の時代にいる綾乃は小学生の低学年くらいだったので、遅くとも10年後にはタイムマシンが出来上がっているのか。
この世界の科学力は目まぐるしいほどに進むんだな。
* * *
怪我はあったのだが、車椅子を使えば移動はできたので、早々に退院することになった。
今は4月の終わり頃。
気温はまだ低く、気持ち厚着でも問題ないような時期であった。
「その…言いにくいことがあるんですけど」
綾乃のお気に入りの場所である河の河川敷を歩きながら綾乃がそう言った。
車椅子を押してもらっているので、俺は歩いていないが。
「目的が達成されてしまったので、私はもう未来に還らないといけないんですよね」
綾乃はこの時代の俺に会いに来るのが目的だったと言っていた。
「いつ頃になるかわかるのか?」
「わからないですが…今日中には多分…」
今日…か、随分と急だな。
まぁタイムマシンなんてものを使っているからには、制約などがあるのだろう。
「だから今日は未来について語りませんか?」
「未来についてって、結構話しただろ?」
「未来で実際に起こることを話そうって意味ですよ」
未来のことを想像するのではなく、教えてもらうのか。
新鮮だし、これから先の人生でも経験しないだろうな。
綾乃から一方的に未来のことについて話されることになってしまったが、今日の会話はいつも以上に盛り上がった気がする。
この町の雰囲気、新しくできた仕事、逆に無くなってしまった仕事。
話を聞く限り、今とはかなり違った世界になっているのだろう。
10年後まで生きるのが少し楽しみになった。
* * *
いつしか綾乃は歩みを止め、河川敷に腰掛けていた。
俺もその隣に座り込む。
辺りは暗闇に包まれ、幾多もの星と一つの大きな月が空に浮かんでいた。
今日中に未来に還ると言っていたが、もう日付が変わりそうな時間であった。
「もう、私は未来に還ると思います」
感覚的なもので分かるのだろうか?
「そっか、未来でも会えるといいな」
「そうですね」
そう綾乃が言うと、綾乃の体が小さな粒子になって消えていく
「まだいろんな話を紫苑君としたいんですけどね…」
「そうだな、俺もだ」
同意すると、さらに綾乃は薄くなっていく。
「さようなら、私の命の恩人。ありがとう、私のヒーロー」
そう言うと、俺が何か言う前に綾乃の姿は完全に消えてしまった。
綾乃がいなくなった後、俺は一年に一度とあるところに訪れていた。
「綾乃と約束したからな」
今日は4月の終わり頃、当たり前のように綾乃の姿は無かった。
しかし、会えるまでこの場所に来ると決めていた。
未来の君へ、出逢うために。