思案
あれから2日が経った。彼女には「この相談は内密にしておきましょう」と約束して最低限の言えることは話したつもりだ。問題はこれからをどうするかだか。しかし、知らない幸せとはよく言ったもので、普通の牧師生活から急に三流サスペンスの世界に突き落とされた気分だ。相談を受けたとしても、知らぬ存ぜぬで居ることもできるだろうが、それは何か裏切り行為のように考えられてしまう。できれば、このことを素通りして、無事に数年を過ごしてこの教会から移動できれば最高だ。私は現に被害を受けていないのだから。だが、それでは神の前においては悪ではないだろうか、見たくもない関わりたくもないが私は見なくてはならないのかもしれない。それにこれに向かったところでそれは褒められたものではないし、下手をすれば私は教会や教団からは爪弾きにされるだろう。これまでの仕事を犠牲にして入学した神学校で学んだことが、この教会で終わりにされるかもしれない。そうなってしまうシステムがおかしいことは重々分かる。しかし、人に従うよりは、神に従うべきだ。そして罪を隠す者は成功しない。肝心なのは今自分がどうあるかだ。この出来事に忠実になれなければ後も忠実であれるわけがない。心に湧き上がる拒否感と、聖書から導き出される義務感に挟まれながら私はこれまでの半年近くを振り返ってみることにした。すると、たしかに不思議な点が幾つか思い当たる。相談を受けたことで視点が変わったからだ。私はそれを紙に書き出してみることにした。
まず教会の中が二分していることだ。比較的教会に在籍している年数が浅い人が牧師との関係が深く、年数が長い人ほど牧師とはつかず離れずなのだ。おそらくそれは、あの信徒が話していたことが事実であったことの証拠かもしれない。普通なら、関わる年数と関係の深さは比例するものだが、何かがあったからそれがこの教会はないのだろう。何かとはつまり、信徒の相談が正しければ、牧師が信徒を追い詰めて傷つけた歴史なのだろう。そして、次に牧師の言動だ、あまりにもフランクすぎるのだ。牧師として、というよりも中年の男性、妻子ある男性としての振る舞いではないと感じることがある、それは若い女性への接し方に現れており、馴れ馴れしい上に簡単にボディタッチをしばしばしていた。「そういう人なんだろう」と思わせる巧みな頻度だったので、私もまんまと術中にはまっていたが現代において若い女性に軽々しく触れることは、牧師とはいえども、セクハラだと言われてしまうリスクが大きい。もしセクハラを警戒していたのであれば、あの頻度は計算の上だったのだろうか。そう思うと寒いものを感じる。そして、牧師夫人はそのことに気が付いているのだろうか。邪推だが、夫婦関係にも何か問題があるのだろう。
ざっくりと考えつくところはこの2点だ。いろいろな考えが頭を回るが、時間は待ってくれない。明日は教会の祈祷会で牧師と顔を合わせるし、3日もすれば土曜日・日曜日が怒涛のようにやってくる。何ができるか分からないが、実態を知らねば何もできない。自分なりに持った疑問という視点で教会の中を見るチャンスでもあるが、リスクが高い。絶対に牧師に察知されてはいけない。そして誰が牧師の側についているのか、教会の中のネットワークがどうなっているのか把握しきっていないことは分が悪い。探ることはできない、今はあくまで受容的に情報を得るしかないだろう。どんな顔をすればいいだろうか、一寸の緊張も変化も見せられない。もし「こいつは教会の何かに対して疑問を持っている」と勘付かれでもして私がやられてしまうことがあれば、傷つくのは私に相談した信徒だ。これだけは避けなくてはならない。スパイとはこんなものなのだろうか。少なくとも、私の心の中にも今恐れがあることは確かだ。