煩累
後片付けを終えて、アパートに戻ってソファーで脱力していると早速、先ほどの牧師から連絡が入っていた。行動が早い。「秋山です。今日はお疲れ様でした。お茶出しありがとう。」少し考えたが、とりあえず返信する。「こちらこそありがとうございます。以後よろしくお願いいたします。」すると今度は電話がかかってきた、一瞬焦って電話に出た。「ああ、秋山です。今日はお疲れ様、言いそびれちゃったけど教会はどう?上手くやれてる?一応僕、理事メンバーなんだよね。」矢継ぎ早に話が展開する。「まあまあです。」「そうかあ、あの先生フランクだからやりやすいでしょう?教会も楽しそうだしね。」「え?ええ、まあ。」「でも、何かあったら私に相談してもいいよ。」「…あの、あの時に周りをうかがってたみたいですけど」「え?ああ、鋭いね。あんまり先生と会うこともないけど、他所の教団出身の新任が来たって聞いて興味あったんだけど、ちょっと君の所の先生に見つかったら面倒になりそうだからさあ。」「え?」「僕あんまりよく思われてないんだよね。でも、先生何か気づいてるでしょ。僕と話すときも周りを気にしてたよね?」この人だってかなり鋭い。そして前に何かあったんだ、その経験からあの牧師を避けているんだろう、牧師は仕事上秘密の保持は念押しすれば守ってくれるだろうから、かけてみようか少し迷ってから。「すみません…ちょっと折入った話してもいいですか?なんかスパイ工作みたいでちょっと気が引けるんですけど。これって守秘義務に入ると思うんですけど良いですか?」少しの間があってから「何かあったみたいだね。」秋山牧師の声のトーンが下がる。
いろいろと疑念を持っているが、いざ誰かに話すとなると整理が難しいものだ。結局はある信徒からハラスメントの相談をされたことと、その点に注意して牧師を見ていると確かにそうだと思うことがあること、過去に何か事件があったらしいこと、この2点を相談してみた。すると秋山牧師は「なるほど」と一言おいてから「君の言うことは良く分かった。よくわかるよ。でも、君はあの先生の下にいるから下手なことはしていけないし、これ以上探ってもいけない。ターゲットにされるなら君が一番危ないから。キリスト教会の世界では教会の牧師がクロと言ったらそれがいくらシロでもクロにされる。それを覆すには労力がいるし、おそらく多くの人が首を縦に振らないだろう。君は認められて独立するまで従順を装った方がいい。もちろん、それが神様の前で間違っていることは分かる。でもそれでしか身を守れないのがキリスト教会の悪の部分だ。しかし、キリスト教の世界は狭い、下手をしてこの先のキャリアを悪い牧師に潰されることは十分にありうる。そういう若手をたくさん見てきた。きっと君にあの先生のことを話してしまえば、きっと君はあの教会にいたくなくなるだろう。今はこの説明で十分だと思う。君は今日、いろいろ気を配って頭を使って、私たちに失礼にならないようにあの牧師のことを探っていたんだと思う。でも、こんなことをしたら怪しまれるからしない方がいい。ただターゲットにされないように、あの人は勝ち負けでモノを見てしまう人だから、できない人間を装っていた方がいい。友達もいない暗い人だと思われてるなら好都合じゃないか。僕は君のことを心配しているし、祈っているから、とりあえず数年が過ぎるのを待って早く独立したほうがいい。それからこの話は、他の人に話さない方が身のためだよ。」こんな感じのアドバイスをされた。つまりは、もう何もするな、何も話すな。ということか。
納得できるが納得できない。これでは世の中の普通の会社組織と同じだ。しかし、秋山牧師は私のこの先を案じてくれている。きっと苦い思いをしつつ今に至っているのだろう。私はまだあの牧師からいつも牽制を受けているが、攻撃らしい攻撃をされていない、つまりはまだ実害がないのだ。しかし、異常な過去があったであろう牧師をなぜ教団は野放しにするのだろうか。そこが理解できない。おそらくあの牧師は、重大な罪を犯しているであろうことは想像に難くない。牧師は罪に対して自他ともに判断を鈍らせてはいけない生き物ではないのだろうか。罪を罪と分かりつつ、見ないふりをしているのではないだろうか。牧師だというだけで許可される罪が果たしてあるのだろうか。間違いと間違いと分かりつつ指導をするのも、本意ではないだろうが、それが横行するキリスト教会は何なのだろうか。聖さや潔白さにおいてキリスト教は汚れているのではないだろうか、私たちプロテスタントは腐敗したカトリックから脱して聖書に忠実に生きようとしたのではないだろうか?宗教改革から500年近くが経った今や、この教団は悪を悪とせずに放置した結果、腐敗している。現実と理想の乖離だ、その行動は神経症そのものではないだろうか。