はじまり
「宗教は人類の神経症である」ジークムント・フロイト
平成も終わりが見えたころ、私は牧師になった。
おそらく日本でほとんど需要のない仕事。神父ではない。神父とはカトリックの聖職者だ。牧師は16世紀に起こった宗教改革でカトリックから分かれ出たプロテスタントの聖職者を指す。牧師と言えども、この国、日本では単なる民間資格でしかない。意外ではあるが名乗る気なら誰でも、罰則なしで牧師と名乗ることができる。しかし、牧師本人はそれが神からの召しであることに誇りと確信を持ち、どんな理不尽があろうとも耐える。私もそのひとりだ。たとえその理不尽がキリスト教内部のことであってもである。
牧師になったといっても、いきなり1つの教会を任されることは少ない。大抵はベテランの牧師のもと数年は見習いとして教会の仕事をする。私もそのような牧師人生のスタートを切った。新たな歩み出しに少しも胸が躍ることなく、私は派遣先の教会へと赴いた。住まいは教会のそばのアパート。家賃は折半、引っ越し費用は自分持ち。神学校を出たての私の財力と教会からもらう謝儀では生活するのがどうやらやっとだろうと想像が容易につく。それでもマシな方だ。少子高齢化しているのは日本の国だけではない、キリスト教会はもっと前から少子高齢化が進んでいる。牧師すらもまともに支えられない教会が増えている中、やっとであっても生活できるだけ幸せな方だ。
かくして私の牧師生活が始まった。牧師のメインは日曜日だと思われがちだ、もちろんそうだ、仕事量としては日曜日のウエイトが大きい。日曜日は礼拝があり多くの信徒が教会に訪れる。牧師は礼拝で聖書から説教をし、祈りをし、時には信徒とじっくり話をする。しかし平日でも祈り会があり、信徒からの要望があれば出向いたり迎え入れるし、近隣への伝道活動も行い、教会のメンテナンスなども行うために、意識的に取らなければ休みがない。仕事量や専門性は低いものの、とにかく拘束時間が不明瞭で牧師謝儀は時給にすれば最低賃金を軽く下回る。そして、信徒の中には牧師が貧乏で不幸であることを喜ぶ者もいる。牧師が休みを取ろうものなら大騒ぎする者さえいる。日本と言う国に居ながら「最低限度の文化的な生活」という権利が日本の牧師は保証されない。韓国などでは牧師が上から下までブランドで身を包み、高級外車をあてがわれると聞くと、それはそれで極端だが複雑な思いになる。これは愚痴ではなく現実だ。人間というものは、理由なく低く扱われることも、他人を低く扱うことも関係性において、常軌を逸していると思う。逆も然りだ。しかし、それが「信仰」の名のもとに良しとされるのだ。神経症の症状は常軌を逸した行動として現れる。私はこれから、この神経症の世界を嫌と言うほど見ることになるのだ。