オニキス伯爵家09 『修羅場』
「スチュワート様……?」
メイベルの腕を掴んでいたのは、かつての婚約者であるスチュワート・テクタイトであった。
今夜のスチュワートは、ちょうどエドワードと正反対の黒いタキシードを着ている。普段はユージーン殿下とレイチェル妃の護衛だなんだと夜会に客として参加しないので、久しぶりの盛装を見た気がした。ただ、胸元に飾るハンカチーフの色がレイチェル妃の着るブルーのドレスと同じ色のような気がするのは気のせいか。
「久しぶりだね。メイベル嬢」
「御無沙汰しております……」
エドワードとの婚約の話を公にした以上、前の婚約者であったスチュワートと付き添いも無しに対面しているとなれば、好奇の的となってしまう。一刻も早く離れたいのに、どうしてかスチュワートは握った腕を離さない。
「申し訳ありませんが、離してくださいませんか?」
「離したら君は逃げるだろう?」
そう言って、距離を詰めてくるスチュワート。周囲から視線を感じる。あらぬ噂を立てられる前に離れたいのに、スチュワートがそれを許さなかった。今更過ぎる。
「婚約解消の件はすまなかった」
「……いえ、はい」
プライベートな話を誰が聞いているとも分からないところで話すなんて、恥を知らないのだろうか。
「しかし、君がそんなにも早く結婚したかったなんて知らなかったよ」
「……どういう意味でしょうか?」
適齢期になったのだから結婚したいと思うのは当然だった。周囲が結婚していって子供を産んでいるというのに、学院を卒業してからメイベルは、婚約者がいるというのに公の場所でエスコートもされず、壁の花になるしかなかった。幸せになっていく友人達を見て、羨ましいと思わないはずがなかった。それを知らなかったなんて片づけて欲しくなかった。
「どういう意味も何も、私と婚約を解消した途端、別の男に乗り換えるなんて冷たいじゃないか」
「思いがけず、良縁に恵まれましたもので……」
メイベル・オニキスが見てきた、スチュワート・テクタイトという男は口数が少なく表情の乏しい人間だった。しかし、今目の前で饒舌に喋る、このいけ好かない男は誰だろうか。つまらない時間を終わらせる為に会話を盛り上げて欲しいと常々願ってはいたが、こんな風に口を開くだけで不快になるのなら、あの暇を持て余した逢瀬の時間は、ある意味で精神衛生的に悪いものではなかったのだろう。
「私の後に選んだのが、あのような子供とは……君はよほど結婚に焦っていたのだね」
「――そのようなことはッ!!」
なんて失礼なことを言うのだろうか。メイベルは憤った。けれども、同時に自分がスチュワートの言う通り、結婚したいばかりに爵位を振りかざしてエドワードに承諾させたと言えるのではないだろうか。エドワードがくれる、過分なほどの誉め言葉やプレゼントは彼に無理をさせていた証ではないだろうか。それほどのことをしてもらえるほどの魅力など自分には無いことは分かっていたのに、嬉しくて舞い上がっていたメイベルは忘れてしまっていたのだ。
「君が王都で何と呼ばれているのか知っているかい?婚約者を捨てて、若い男に走った節操無しだと心無い者達は言っているよ」
スチュワートは穏やかな表情のまま、親切そうに教え諭すように告げた。途端に周囲からは嘲るような笑い声が聞こえてくる。
「やっぱりね。いい年してなかなか結婚しないと思ってたら、男漁りが酷かったからって話でしょ?」
「あら。私もレイチェル妃のお茶会で聞きましたわ。スチュワート様がお困りになってると」
たった数ヶ月社交を休んでいる間に、根も葉もない噂が出回るようになっていたらしい。王都に残る友人や知人に留守の間を頼んでいたメイベルであったが、昨今の情勢から第一王子派に伝手が無くなっていた為、レイチェル妃主催の茶会まで手が回らなかった。
そう、いないのだ。第三王子派と明言はしていないが、サラ妃の生家であるラズライト伯爵家は、ここ数年の活躍によって近々昇爵されるのではないかと噂されている。第一王子派であったクララの家なども、ラズライト伯爵家の恩恵に与ったせいか、あっさりと第三王子派に鞍替えしていた。テクタイト侯爵家などもヘンリエッタの生家グランディディエライト子爵家がラズライト伯爵家と近いので、自ずと第三王子派に染まりつつある。
ギベオン公爵家が去り、コランダム公爵家が勢いを落とし、経済の力を持って頭角を現してきたラズライト伯爵家。王都の勢力図はすっかり塗り替えられているが、レイチェル妃の謎のカリスマ性は一部ではまだ影響を与えることができるのかもしれない。
そして同時に、この状況がおかしいことにメイベルは気づいていた。
「まぁ!とんでもないお話がレイチェル妃のお茶会では出回っておりますのね」
「何?」
「私が男漁りなんてとんでもない。スチュワート様と婚約を解消した後は家の仕事をしておりました。商談の際に殿方に御会いする機会もありましたが、父はもちろん付添人も連れていますし、問題はないかと思います。テクタイト侯爵にも変わらず可愛がっていただいて出入りを許されておりましたので、御家族は御存じかと思います」
万事問題なく次の縁談が上手くいくようにメイベルは自身の行動に気を付けていた。ほとんど常に父の仕事に同伴し、王宮にも足を運んでいた。テクタイト侯爵家にも訪問し、スチュワートと婚約が継続しているように見せつつ、ヘンリエッタを通じてグランディディエライト子爵家と連絡を取っていたのだ。
しかし、この件で本当に問題になるのは『メイベルの男漁り』の有無ではない。メイベルが『婚約解消』と『レイチェル』という単語を出せば、幾人かは窺うような顔でユージーン殿下を見たのが分かった。殿下が妃の周囲に置く男に対して非常に神経質になっていることを知っているからだ。そして今も遠くにいるはずのユージーン殿下がこちらを見ていることにも気づいた。
メイベルとエドワードの婚約は正式な書類は提出しているが、今日まで御披露目はしていない。この婚約について知る者は両家とテクタイト侯爵家と本当に親しい友人だけ。恐らくは侯爵家の方から話が漏れたのだろうが、それをスチュワートのみならずレイチェルも知っていたなら話は変わる。
スチュワートの婚約解消をレイチェルも知っていたというのなら、すっかり嫉妬深くなったユージーン殿下は二人の不貞を疑うのではないだろうか。この怪しい噂の出所を『レイチェル妃のお茶会』と話させてしまったこともミスの一つだ。早晩スチュワートは左遷されるに違いない。
しかし、そもそもだが、今更メイベルに恥をかかせて一体どういうつもりなのか。
二人の婚約解消は、表向き円満に解消されてはいるが、実際はテクタイト侯爵家側の重大な契約不履行が原因である。本来であれば学院の卒業と共に結婚し、伯爵領の経営に携わるはずだったのを、のらりくらりと四年近く引き伸ばしたのだ。いくら侯爵家の方が爵位が上であれど、婚家の総領娘を長年に渡って待たせるなど言語道断。裁判に持ち込まれたら、それなりの慰謝料と不名誉な噂で、彼の未来は暗いものになっていただろう。
けれども、新しい婚約者が次期侯爵夫人の実弟だったからこそ、オニキス伯爵家とテクタイト侯爵家は、これまで通りの付き合いを続けていくことができたのだ。それを反故するような言動をして何になるのだろうか。本人の為にも、家の為にもならないのに。