スワンは私を投影する
春の日差しを受けて桜の花びらが輝く。駐輪場に自転車をとめ、灰色で無機質な長方形の校舎へ向かう。この道を歩くのは今日を入れても五回目だ。左側に目を向けると桜の花びらが風にのってグラウンドへ流れている。真っ直ぐ延びるコンクリートの道の先にあるのは、なんだろう。まだ知らない。私は着なれない紺色のセーラー服に、赤いリボンをつけ、この辺りでは有名な高校の制服を身につけている。人並みに飲まれ昇降口を目指す。階段を上がり、桜のトンネルを抜ける。開けた場所に出ると、空の青さと、その光を反射して輝く銀色の二羽の白鳥の像が、昇降口の対面に現れた。他の生徒たちは白鳥に目もくれず昇降口へ行く。いつものように私は列から外れ、二羽の白鳥の前に立つ。高さ二メートル程の白鳥は、一羽は水面に浮いている。もう一羽は翼を広げている。羽を広げたこの白鳥は今にも飛び立とうとしているように見える。でも、私は知っていた。どんなに人が羨む学校に入学しても、ただ日々に埋もれ何も変わりはしないことを。ただ今までの生活が続いくだけだ。台座の中央に長方形のくぼみがある。以前はこの白鳥のタイトルが記されていたのだろう。そういえば、受験でこの高校を訪れた時、気合いを入れた坊主頭の男子が言っていた。「この白鳥は恋人に会いに来たところだよ。」再び目を向ける。確かに、坊主頭の男子が言ったようにも見える。あの時の男子は無事にこの学校に入学できたのだろうか。
「ちょっと、光。またここにいるの?この白鳥のどこが面白いのよ。もっと若者らしいものにときめきなさい。なんか縁側に座るおばぁちゃんみたいよ。」
彩花は高校生になっても目立つ子だ。少し、派手なお嬢さんに変わりつつある。押しの強さとわがままな性格も健在だ。彩花は敵も作りやすい人物だが、私はそんな彩花が好きだ。私にはないモノを持っている。彩花に「元気だねぇ」と返し、白鳥にまた目を向ける。退屈だ。全てが退屈だ。きっと私の心が動かない限り世界は変化しない。彩花はこれみのがしに大きなため息をつき、それと同時にウェーブのかかった長い髪が揺れる。性格が顔に現れているのか、ハッキリとした目鼻立ちは外国の血が半分流れているかと思うほどだ。人目を引く彩花に比べ私は凡庸な顔立ちだから、いつも彩花と男子の橋渡しを頼まれる役割だ。彩花とは同じクラスにもなったし、これからも仲良くするだろう。彩花は、私の顔を両手で挟み込み目を反らさないようにする。この行動をとる時の彩花は私に有無を言わさない。
「バスケ部に入るよ!」
「はぁ?」
彩花は、私の手を強引に引っぱり連れていく。こうして私は彩花と共にバスケ部になったのである。
一ヶ谷高等学校。通称一高は、文武両刀を掲げる名門校だ。有名大学への進学率は高く、部活動では男子バスケ部が毎年全国大会へ出場している。勉強しか取り柄のない私は先生の薦めもあり一高へ入学した。地味な私とは違い、彩花は中学生の時も勉学に恋にと青春を謳歌していた。彩花は中学生時代、バスケ部に入部していた。でも練習を疎かにしていた節がある。塾があるから、気分が乗らないからと言っては、何かと理由をつけて休んでいた。そのため周りからひんしゅくを買っていた。彩花曰く、「部活はストレスの発散とダイエットにちょうどいい」そうだ。聞き捨てならない発言は部員からの反感も出る。なのに、彩花は陰口を叩かれても意に介さず、堂々としていた。一高に合格してからは「部活はしない。大恋愛をする。」と豪語していたから、てっきりそうするのだろうと思っていたのに早くも裏切られる。さすが彩花。私の予想を軽々と越えていく。彩花らしい。
彩花は床にモップをかけながら、バスケ部への入部理由を語った。「大津先輩が好きだから。」恥じらいながら言う。彩花が笑顔を向けるだけで、男子の顔が紅潮する。「彩花だから」とミスもわがままも許されてきた。いつも自信満々の彩花が頬を赤らめ恥じらうのを初めて見る。
「それなら、男子バスケ部のマネージャーになればいいのに。なんで、女子バスケ部に?」彩花は体育館の窓に目を向けた。つられて私も目を向ける。
「あの子達を見てよ。…皆、大津先輩のファンよ。」
「えっ!」
二十人くらいいる女子たちがスマホを片手に集まっている。彩花はふてくされた。
「可愛い子ならいくらでもいるでしょ。今回は直球でいっても無理よ。だから、遠回りをすることにした。脇を固めていくわ。それに、先輩だけならともかく、好きでもない男の世話はできない。その点、女子バスケは弱小だからいいのよ。同じ体育館を使うから同じ空間にいれるし、近くで先輩を見ることができるし、バスケとゆう共通の部活があれば会話も弾むでしょ。」
「そんなまどろっこしいことしなくても、彩花ならその可愛らしさで仲良くなれるよ。」「バカね…。中学校の時のようにはいかないの!光は恋愛に関して無知なのよ。」
「確かにそうだけど、恋愛は一時的な感情。友情は永遠だよ。」
今まで好きになった男子はいない。彩花を見て学ぶ。彩花は今まで何人もの男子とつき合っては別れを繰り返している。恋愛より友情の方が大事だ。体育館の外にいる女子に向かって、彩花はゴミを払うかのようにモップを振る。
「つまらない生き方ね。どうせ生きるなら楽しまなきゃ。光は恋愛することなく、見合い結婚するタイプね。」
「そうかもね。」
恋愛に夢を見ることはない。それに男子をみても皆同じような顔に見える。恋愛を否定する私だから彩花に巻き込まれたのかもしれない。体育館の半面を見た。男子バスケが狭いコートの中をフットワークしている。彩花が私の肩を抱き指差した。
「ほら!あの足が速い人が大津先輩よ。」
コート内を駆け抜けていく男子の中に輝く人を発見する。体躯は細身ながら程よく筋肉がついていて長身だ。蒼白い肌に切れ長の目が引き立って整った顔に栄える。全身の血がたぎる。
「あの人が大津先輩…」
大津先輩は、清潔な美しさを身にまとっているような人だった。彩花が惹きつけられる理由がわかる。私自身そうだ。目をそらすことができない。
「かっこいいでしよう。」
彩花が腰に手をあて自慢するように言う。私はうなずく事しかできなかった。
「集合!」
相田部長の号令で我に返る。私たちは急いでコートの中央に集まった。バスケ部に入部したのは私と彩花を入れて六名。三年生が五名、二年生が五名、計十六名。マネージャーは一年生が兼務する。部員が少ないのは仕方ない。なぜなら、男子バスケ部は強いが女子バスケ部は一回戦敗退の常連校だからだ。認知度は果てしなく低かった。部長の指示で一年生は一列に並んでコートの中央に立つ。目の前には先輩達が、座りこちらへ注目する。自己紹介が始まった。新入生たちは無難に自己紹介を終えていく。ついに私の番になった。こんなに緊張したのは久しぶりだ。
「村崎光です。洲本中学出身です。バスケの経験は体育以外ありませんが…よろしくお願いします。」
無難に済ませ緊張の糸が解ける。そして、最後の一人へ移る。細面にややつり上がり気味の目。唇は薄く、背が高い。厳つい体つきに、長い髪を一つに束ねる彼女は私以上に緊張していた。うわずった声で
「か、か、河合絵麻です。小河原中学校出身です。バスケの経験はありません。よくドジな子だって言われます。ニックネームはヘマです。よろしくお願いします。」
勢いよく頭を下げたものだからバランスを崩して前のめりになった。外見と中身のギャプに、静寂した雰囲気が破壊され、笑いが起こる。河合絵麻という子は人を和やかにさせる。好印象を受けた。
バスケの練習が始まる。バスケ部初心者は絵麻と私の二人だけだから、私たち二人は同じように扱われ、同じように基礎から学ぶ。部活動としてのバスケは体育の時間で行っていた遊技バスケと違う。当然、勝つ事にこだわり抜く。そのためには、体力作りからシュート練習、ゾーンプレスなどの戦略の練習をする。今まで勝負の世界に無縁だった私が、勝負の世界に飛び込む。いくら彩花のお供だったとしても、バスケ部に入った以上、一員として勝つことにこだわらなくてはならない。精神的にも肉体的にも厳しいものだ。絵麻と私は、コートの端で先輩たちのプレーを見学した。コートでは二つのチームに別れ試合形式を行う。コートの外で見学していると、試合中、ボールがコートから出た。拾おうとすると同じくボール拾おうとした絵麻にぶつかってしまう。
「ごめん絵麻!」
「大丈夫だよ。」
私たちの間にほのぼのとした空気が流れる。その空気を裂くように相田部長の怒声が響いた。
「ちょっと。そこの二人!なに、ほのぼのしているの。あんたたちは練習中でも『ごめんごめん』って謝り合っているけど、試合中はぶつかるのは当前なのよ!勝負の世界なのよ!」
「すみません…」
こうゆう時、勝負の世界に嫌気がさす。勝ち負けだけしかない物差しで測らないで欲しい。もっと大切なものがあると思う。皆仲良くすればいいのにと思ってしまう。でも、その思いはこの世界には通じない。バスケは好きだけど競技のバスケは嫌いだ。ここに私の居場所はないと考えてしまう。
一年生は部活の準備と片付けも仕事だ。身体を見ると四肢に打ち身のあざの数が日々増えていく。慣れない練習で毎日へとへとだった。足に重りをつけたように足を引きずりながらモップをかけていると、彩花の華やいだ声が聞こえる。彩花は、部活に参加するものの、バスケはそっちのけで真剣に男子バスケ部の部員から大津先輩に関する情報収集をしていた。みかねた相田部長が彩花に注意する。彩花は大人しく作業に戻りモップをかけ始めた。相田部長の姿が見えなくなった途端、彩花は怒気を現した。
「準備と片付ける事が嫌いなのよね…一年だから仕方ないけど、なんで私がしないといけないのよ!」
苛立ちをあらわにして、モップを蹴った。
「まぁまぁ彩花。皆、通る道だよ。」
彩花をなだめながら蹴ったモップを拾う。
「渡瀬!今何した!」
怒鳴り声が館内に響く。体育館を後にしたはずの相田部長がそこにいた。相田部長は彩花めがけて足早に近づいてくる。そして、彩花を見下ろし、鋭い眼光を向けている。
「前々から思っていたけど、渡瀬はやる気あるの?」
息苦しいほど張りつめた空気が漂う。彩花も、折れればいいものの、負けずに部長を見据えた。このままだと彩花はバスケ部に居づらくなる。動機は不純だが彩花はバスケをちゃんと頑張っている。私は慌てて相田部長と彩花の間に立った。
「相田部長!彩花はちょっと最近苛々していて…私も苛ついた時、よくモップを蹴っていますよ。だから…叱るなら私も一緒に。」
相田部長に頭を下げた。
「村崎は黙っていて。」
「部長…お願いします。」
部長の怒りが収まるまで頭を下げ続ける。
「部長。武藤先生が呼んでいますよ。」絵麻がタイミングよく相田部長に声をかけてくれた。しばらく相田部長は彩花を睨みつけ、視線を外した。そして体育館を後にする。女子部員も男子部員もホッと息を吐く。
「部長は嫌い。」
「彩花はよくあの空気に耐えられるな。」「心臓に毛が生えている。」部員達のささやき声が聞こえる。私も緊張から解放された。彩花を諭す。
「部長から注意を受けたら『すみません』と謝ればいいよ。それだけで…その場は一応収まるから」
絵麻は曖昧な微笑みを浮かべている。絵麻は私の肩をポンッとタッチして、ボールを倉庫へ運んでいく。その際、倉庫の桟に足が引っ掛かり派手に転んだ。
「ヘマ~」
一年は皆盛大にため息をついたが、とうの本人は笑っている。絵麻の失敗には不思議と腹が立たない。彩花を促しモップ掛けを始めた。
バスケ部に入って一ヶ月が経つ。相変わらず基礎トレーニングとシュート練習が主だ。私は今まで何かに夢中になったことがない。だから、部活を始めて日々が充実しているように思う。でもハードな練習に体がついていけず、帰宅すると倒れ込むように寝ている。勉強はすればするほどわかるのに、スポーツは違う。毎日シュートの練習をしてもなかなか上手くいかない。日々の訓練はもちろんのこと、才能、体力、精神力が必要だ。
狙いを定め、ボールを放つ。ボールは綺麗な放物線を描き、ストンッとリングに落ちた。そうよ。これよ!最近はボールがリングに入るか入らないか、なんとなくわかるようになった。この感覚を忘れないうちに。ゴール下で跳ねるボールを取りに行く。
「ナイシュー。綺麗に決まったな。」
体育館の隅で休憩している男子バスケ部の降籏君が話しかけてきた。
「ありがとう。」
彩花のお陰で主に降籏君だけど、私も男子と話す機会がある。
「降籏!練習中の会話は控えろよ。暗黙のルールだろ。…お前たちは入試の時もそうだった。緊張感が全くない。」
「?」
入試の時…?私と降籏君は顔を見合わせた。
「わかったよ、竹馬。お前、また変なもの見えたの?」
降籏君が「竹馬は宮司の息子なんだ。」と素早く耳打ちする
「違う。なんだよ。覚えてないのか?入試の時、お前たちは会っているだろ。ほら、あの白鳥の前で。」
入試の時…白鳥の前…ああ!
「あの入試の時坊主頭にしていたのは降籏君だったの!」
「あの時、白鳥の前にいたのは村崎だったのか!」
現在の降籏君は髪も伸び当時とは別人みたいだ。あの時の男子にやっと会えた。こんなに身近にいたなんて思わなかった。降籏君をまじまじと見つめる。降籏君は絵にかいたような爽やかなスポーツ青年だ。髪をツンツンと立たせ、唇の両端が上がっているからいつも笑っているように見える。
「村崎…そんなに見るなよ…」
長く見つめすぎたのか、降籏君は照れたようにそっぽを向いた。その横顔が赤くなっている。竹馬君は降籏君を引きずるように連れていく。降籏君と竹馬君は同じ中学校出身で共にバスケを頑張ってきた仲間だと聞く。そして、二人とも私たちの隣のクラス三組だ。クラスは八つあるから、同じクラスになる可能性は低い。校内でもいつも一緒にいるのを見かける。竹馬君はメガネがよく似合い知的な印象を受ける。部長の号令が響く。試合形式が始まる時間だ。頭を振り気持ちを切り替える。
試合形式ではゾーンという戦略を用いて行う。ゾーンとは相手に得点される確率が高いゴール付近に、ポイントガードといわれる司令塔が一人。ボールを運び、シュートを決め得点をとるシューティングガードが一人。オールラウンドに動くスモールフォワードとパワーフォワードが一人ずつ。そして「チームの柱」であるセンターを一人配置して攻守することだ。二年の真山先輩が絵麻と私にそう説明してくれた。私と絵麻は試合形式を見学して学ぶ。パスを回しゴールを決める。それだけのことなのに様々な方法を使いチームで攻め込む。それをチームで阻む。単純なようで簡単じゃない。ボールが相手に渡れば攻守が逆転する。一瞬も気が抜けない。
「村崎はスモールフォワードになるかもね。」
真山先輩は試合形式から目を外さずそう言った。そして「ヘマは…」と言いかけ口を閉ざす。
「うちはどこですか?」
絵麻は瞳を輝かせた。
「…ヘマは…荷物持ち。」
「何ですかそれ!」
真山先輩と私は笑った。絵麻は頬を膨らませる。絵麻は早くもチームに溶け込み、馴染んでいる。私自身、絵麻がいればきつい練習も笑って乗り越えられる。
「嘘。冗談だよ。ヘマは身長が高いからセンターかな。」
私はスモールフォワードにむいているのか。嬉しいような悲しいような、なんとも言えない気持ちになる。私は自分のミスで周りに負担をかけたくないし、誰かに勝ちたいと強く思ったことがない。そもそも勝敗だけしかない世界は嫌だ。個人スポーツならともかくチームでするバスケは向いていない。このままバスケ部にいていいのだろうか。シュート練習は面白いのに、試合形式を見学する度に気が滅入る。
そんな悶々とした日々が続く中、気がつけば、体育祭が差し迫っていた。クラスを見渡すと、浮き足だっている。彩花の話題にも体育祭で大津先輩が出る種目や、全校生徒で踊るフォークダンスなど体育祭の話ばかりだ。
「ちょっと聞いているの!」
「えっと…なんだっけ?」
彩花は私の顔を両手で挟む。
「だ・か・ら、大津先輩とハチマキ交換したいの!」
彩花の話は表情と同じでころころ変わる。話題のスピードに追いつけない。彩花は頬を膨らませて、腕組みをした。体育祭恒例の…確か、体育祭が終わると告白して、オーケーならハチマキを交換するって話ね。部活を通して同じ空間にいて、あんなに大津先輩に黄色い声援を送っているのだから先輩に気があることは先輩本人も知っているはずだ。彩花は最近ますます綺麗になったと思う。廊下を歩いていると彩花を見ている男子が多い。クラスでも彩花の言動に注目が集まる。
「彩花なら交換してくれるよ。」
「ええ~そうかなぁ」
彩花は頬を両手で押さえ、まんざらでもない様子だ。
「そうだよ。彩花を断る理由が見つからない。」
思っていることをそのまま伝えた。
「光のそうゆうところが好きなの!」
彩花が抱きついてきた。私は笑って受け止める。彩花の恋が実ればいいと思う。
男子バスケ部とは体育館を半分ずつ使用しているため、どうしても顔を会わせる機会が多い。男子バスケ部の方が結果を残しているから部員も多く、弱小女子バスケ部は肩身が狭い。今度のインターハイで結果を残せなかったら女子の活動時間が減るかもと先輩たちが話していた。
私は絵麻と体育館にモップをかけ始める。
「体育祭が楽しみだね。」
絵麻はモップで床を撫でるようにかける。私も大雑把な方だけど絵麻には敵わない。
「よう!」
振り向くと男子バスケ部の黒岩君が小馬鹿にしたように笑っている。黒岩君は絵麻と同じ中学出身で、よく絵麻にちょっかいを出す。
「ヘマ。お前は大津先輩が好きなんだって。」
他の部員に聞こえるように言って茶化す。男子がこちらに目を向けどっと笑った。「身のほど知らず」と言う声も聞こえる。
「お前なんか相手にされるわけないだろ。」
黒岩君は嗤う。見下されているのに、当の本人はニコニコ笑っていた。でもそれがかえって悲しい。友達が馬鹿にされ、踏みにじられるのは我慢ならない。
「やめて!」
気がつくとそう叫んでいた。体育館にいる部員たちの動きが止まる。皆の視線が痛い。でも、私は止まらない。
「黒岩君、絵麻をバカにしないで!大津先輩を好きなのは絵麻じゃない!私なの!身の程知らずは私よ!」
私は黒岩君を挑発するように見据える。
「…ちょっと、光」
美加が入り口に視線をおくる。目を向けると大津先輩がいた。いつから先輩はそこにいたのだろう。…まぁいい。いつからだろうとかまわない。どうせ私は先輩に恋をしてないから、どう思われようとかまわない。
先輩は静まり返った体育館に入り淡々とストレッチを始める。黒岩君は舌打ちして作業に戻っていった。「…ありがとう。」絵麻は下を向いたまま私に礼を言う。そして、お礼なのか私のモップも倉庫にしまいに行った。
その後も絵麻は普段通りバスケの練習に励んでいる。絵麻がさっきの事に触れないかぎり私は触れないでおこうと思う。部活を終え、いつものように駐輪場へ向かう。日が長くなってきたとはいえ、グラウンドのナイターが点灯してなければ夜の学校はお化け屋敷だ。白鳥の像は後ろからナイターの光を受け青白く不気味に光る。白鳥の像の前に一足先に帰ったはずの絵麻が立っているのが見えた。私が声をかけるより先に「ちょっといい?」と絵麻が言う。今日の出来事でさすがの絵麻も元気がない。
「いいよ。絵麻はバスの時間は大丈夫?」
「うん」
絵麻と私は同じ方向に家がある。絵麻の方が一高に近いがバス通学だ。自転車を押し、絵麻は徒歩で高校の近くにあるファーストフードの店へ向かう。その間、会話らしい会話はない。ネオンがやけに目に沁みる。私は虚空を見上げた。
店内は一ヶ谷高校の生徒が半数を占めている。私たちは飲み物を片手に持ち、間をぬって窓際の二人掛けの席に腰かけた。絵麻は力なく微笑む。私はココアが入っているカップを両手で包み込み、絵麻が話を切り出すのを待った。「今日はありがとう。」
「別にいいよ。絵麻は大丈夫?…大丈夫じゃないか」
「笑えるよね。うちみたいな、なんの取り柄もない子が大津先輩に憧れるなんて。彩花はいいなぁ。」
絵麻は窓の外に目を向け自嘲した。
「そんなことないよ。絵麻は愛らしいよ。いつも場を和ませてくれる。絵麻がいるから私もバスケを頑張れている。もっと自分に自信を持って。」
絵麻は彩花に負けないくらい素敵だ。きっと絵麻は親しみやすいから、からかわれやすいのだろう。でも黒岩君は、ひどい。大切にしている人の心をからかうのは許せない。
「光は優しいね。」
絵麻の目にうっすらと涙の膜が張る。私は絵麻の手にそっと触れた。店内の喧騒はこんな時悲しみを紛らわせてくれる。絵麻は涙をこぼした。そして、訥々と話始める。
絵麻と大津先輩は同じ中学出身だった。中学一年の時から大津先輩に憧れていたそうだ。先輩を追いかけて必死で勉強し一ヶ谷高校に合格した。バスケ部に入部したのも先輩に近づきたかったからだ。
「告白しないの?」
「しない。今は知らないけど、大津先輩には当時つき合っている人がいたよ。先輩より二つ上の人だった。だけど、その人とは別れたと聞いた。けど真相はわからない。チャンスと思ったけど…どうせ、うちなんか先輩に相手されないよ。このままでいい。先輩を見ているだけで幸せだから。」
絵麻の目からまた涙が溢れ落ちる。私は、ハンカチを渡した。絵麻は受け取って涙を拭う。
「先輩に気持ちを伝えたら、自分を変えられるかな。先輩を想像するだけでも十分幸せだけど。」
絵麻は気づいているのか。先輩を「好き」とは言わない。「憧れている」という。絵麻にとって憧れているという言葉が好きとイコールなのか。恋愛の経験がない私にはよくわからなかった。そもそも、愛や恋だけが大切だとは思わない。それより大切なものがいっぱいあると思う。でも、それは言わないことにした。
「そっか。でもどうして男子バスケ部のマネージャーにならなかったの?」
絵麻はカッと目を見開き
「そうだよね。思いつかなかった!」
私は不覚にも笑ってしまった。絵麻らしい。絵麻のその気が抜ける人柄が先輩にも伝わればいいのにと思う。ひとしきり笑い合うと絵麻は背筋を伸ばして改まる。
「光のお陰で元気が出た。うちも光がいるから頑張れているよ。ありがとう。…でも部活は気まずいなぁ…」
「大丈夫。先輩を好きなのは私で、絵麻だと誰も思わないから。それを押し通すよ。今度また絵麻を茶化す人がいたら私が許さない。」
私は本気だ。友達を困らせる人を私は絶対に許さない。自信をもってそう答えると、絵麻ははにかんだ。そして、心配そうに「光は大丈夫?」と聞く。絵麻を安心させるため、大袈裟に笑って見せる。
「大丈夫!人の噂は七十五日だよ。」
絵麻とは店の前で別れた。お互いが見えなくなるまで手を振り合う。絵麻が完全に見えなくなると自転車を走らせる。絵麻が大津先輩を好きだと知り、絵麻と彩花のどちらを応援すればいいのだろうと思う。この恋はどちらかが傷つく。もしかしたらどちらもかもしれない。空を見上げる。やっぱり虚空だった。
部活の準備をするため、体育館の渡り廊下を小走りに渡っていると、場所取りのためか、数人の女子がもう体育館に来ている。「村崎さんってどの子?」話し声が聞こえたが、気づかぬ振りをして体育館に入った。女子の噂は早い。体育館では一年が準備をしている。まるで昨日の出来事はなかったかのように誰もその話題に触れない。一つは大津先輩が早く来て、いつも通りのポーカーフェイスで部活に参加していたからだ。黒岩君が絵麻にまたちょっかいを出さないように絵麻のそばを離れないつもりでいたが、黒岩君は隅にいて項垂れている。昨日の件を反省しているようだ。モップをしまうために倉庫に入ると、降籏君が後から来て
「昨日のことだけど、黒岩は大津先輩がきっちり注意しといたから。…心配しなくていいよ。」
と言った。どおりで、黒岩が大人しい訳だ。「わかった。ありがとう。」
私が出ていこうとすると降籏君が私の腕を掴んだ。強い力に、びっくりする。
「どうかしたの?」
いつも柔和な面持ちをしている降籏君には珍しく真剣な表情に息を飲む。
「確認だけど…大津先輩が好きというのは嘘だよね?」
「…好きだよ。」
「光、やめて!もういいの。降籏君には嘘をついたらダメ。」
私たちのやりとりを見ていたのか振り返ると絵麻がいて首を振っている。
「…絵麻」
絵麻の悲痛な声音にそれ以上何も言えなくなる。降籏君は私と絵麻の肩を軽く叩き出ていった。彩花はどこから話を聞いていたのかわからないが、「光はお人好しすぎるのよね」と呆れている。「ヘマが先輩を好きでも、ヘマに負ける気がしないのよね。」と強気な発言をし、「ほら行くよ」と準備運動を促した。
いざ練習が始まると、バスケに集中していく。シュートの練習中、外したボールを拾い行くと、男子のボールが女子のコートへ転がってくる。拾い上げると大津先輩がこちらに駆けてきた。よりにもよってなぜ先輩が!高鳴る鼓動を悟られないように、いつにも増して冷静な表情を作りボールをパスする。先輩の切れ長の目が私を見据える。一年同士の交流はあるが、それ以外の学年との交流はない。私と先輩が対面したのはこの時が初めてだ。いすくめられたように体が動けない。息を飲む。先輩が静かに口を開いた。
「昨日の話は…なんでもない。」
大津先輩は頭を振る。「ありがとう。」と言い走り去った。先輩が近くにいると思うと胸が高鳴ったが、やがて、後ろめたい気持ちが広がる。絵麻を守りたいがためとはいえ先輩に迷惑をかけてしまった。いつか謝ろう。雑念を振り払うように頭を振る。よし、頑張ろう。私は更に練習に打ち込んだ。
今日の部活はやけに疲れた。夜の道を自転車で走っていると、いつも寄るコンビニが見えてくる。お茶でも買おうかな。いっそのことお菓子でも買おうか。自転車を止めると、制服を着た二人の男子がしゃがみ込んで談笑している。コンビニの明かりに照らされて二人は髪を明るく染めているのがわかる。視線を感じる。ねっとりとした視線と下卑た笑いに嫌悪感が走る。足を踏み出した手前、きびすを返すのも変だ。足早に通りすぎる。
「ちょっと待って。」
声に反応して足が勝手に止まる。ああ、嫌だ。金髪の男がニヤニヤしながら私を下から上まで何度も舐めまわすように見た。ゾッとして声もでない。本能が発する危険信号と怖さで私は凍りついた。
「一高生か。可愛いな。」
見たくもないのに二人の顔を凝視してしまう。二人とも眉が細く、のっぺりした顔立ちは爬虫類を思わせる。一人は鼻にピアスをし、もう一人は口にピアスをしている。だるそうな足取りで近づいて来た。二人から離れコンビニの店員に助けを求めたい。そう思うのに足が言うことを聞かない。怖い。
「待った?」
私の肩にそっと手が置かれ、顔をのぞきこまれる。切れ長の目…綺麗な顔がそこにある。
「…大津先輩?」
なぜ先輩がここにいるの。気が動転して幻覚でも見たのか。先輩は相手に目を向ける。
「…なんだ、男がいたのかよ。」
長身の男性に恐れをなしたのか金髪の男の一人が唾を吐き捨て、バツが悪そうに去っていく。もう一人も私たちを睨み付け無言で後を追っていった。
「大丈夫?」
大津先輩が置いた手に力を込める。
「ありがとうございます。助かりました。」
安堵すると不覚にも涙が溢れた。その顔を見られないようにぎこちなく頭を下げる。
「…一緒に帰る?」
「…え?」
「…震えているよ。」
先輩の言う通り体が小刻みに震えていた。もし先輩が助けてくれなかったらと思うと怖くてたまらない。今日は一人で帰えりたくない。先輩の提案をありがたく受けとることにした。
街灯しかない並木道を自転車で並走する。川沿いの夜風は肌を刺すように冷たい。先輩が隣にいてくれると思うと絵麻と彩花に申し訳ないと思いつつも安心した。
「すみません。」
「別にいい。謝ることないよ。」
先輩は前を向いたままそう言った。先輩の優しさに触れて心が傷んだ。さっき先輩に助けてもらったのに、先輩を好きだという嘘をついている。罪悪感が胸に広がる。先輩は私に合わせ自転車を走らせている。こんなに優しい先輩に迷惑をかけるのはイヤだ。
「先輩は優しいですね。あのう…昨日は、すみませんでした。」
「俺を好きだと言うことは嘘だろ。」
「!」
先輩は吹き出した。
「嘘がバレていないと思っているのはきっと村崎だけだ。それに嘘じゃなきゃ、公衆の面前で恥ずかしげもなく告白なんてしないだろ。」
あの時は全く恥ずかしくなかったのに、今はなぜか恥ずかしい…穴があったら入りたい。
「…色々すみません。」
「もういいよ。友達を助けたかったから言ったんだろ。だから気にするな。」
「…」
夜空を見上げた。今日は小さい星が輝いている。幼い頃、星の光はずっと遠い場所から届いているとお父さんが教えてくれた。絵麻と彩花は、優しい人を好きになったと思う。絵麻の大切な気持ちはきちんと届いているよ。私たちはしばらく一緒に帰り、それぞれの家路に着く。
絵麻と私はようやく試合形式に参加できるようになった。美加はポイントガード。言わば司令塔でゲームメイクをする。例えばリズムが悪い時にはリズムを整え、仲間の動きや敵の動きをよく見て、的確にパスを回し、隙があればシュートを放って得点に繋げる。私と隣のクラスなので、合同体育でも手を抜かず真剣に取り込む熱い女子だ。彩花に言わせると、「美加はあつくるしい!」と言うが私は美加の熱っぽい言動を格好いいと思う。 「結は、スポーツのセンスがある」と武藤先生が言う。結はバスケだけではなくあらゆるスポーツに長けているそうだ。実家の剣道道場で幼い頃から剣道をして全国に行っていたが、何故か…部活はバスケを選んでいる。スポーツ万能と言うのは正しくて、どんな無理な体勢でもシュートが決まる。バランス感覚もよく、固定のポジションはない。オールマイティーにできる。背もうちの部で一番高く百七十三センチある。結は美加と同じ中学出身だ。一年の中でも美加と結はレギュラーとひけをとらない程のプレイヤーだ。彩花はフォワードのポジションをすることが多い。彩花と言えばドリブルで、敵陣に切り込んでいく姿は勇ましい。もう一人は、七海で、センターのポジションを主にしている。それぞれ、その子にあった役割を与えられ、それぞれの役割をし、チームとして機能している。
正直に言うと試合形式には参加にしたくない。勝負にこだわらず、シュートやドリブル、フットワークをしている方が気楽だ。チームは苦手だ。皆が自分達のゴールを目指してボールを運んでいくのに、その想いが詰まったボールを奪われでもしたら、ミスをしたらと思うと体が固まり動けなくなる。そう思うのは私だけだろうか。横に立つ絵麻を見る。なんだか楽しそうに先輩達のプレーを見学していた。絵麻がうらやましい。
ホイッスルの音でメンバーが入れ替わり、今度は私たち一年生と二年生で試合形式をする。沈んだ気持ちでコートへ行く。一年は美加、結、彩花、絵麻、私で、七海は膝関節の調子が悪く見学をする。相手は二年生だ。武藤先生のホイッスルの合図で試合が始まった。
ジャンプボールには結が出る。結が美加にタップした。美加にボールが渡ることを予想して二人の先輩が美加をマークして、行く手を阻む。それを予測していた美加はゴール下まで走る結にボールを投げた。先輩は結をマークしていたが足も速い結はボールを掴み、ドリブルでレイアップシュート。ゴールが決まる。すごい!私と絵麻は顔を見合わせた。
「守って!」
美加の鋭い声に我に返る。感心している場合じゃない。もう二年は速攻で反撃に出ていた。ボールはすでにゴールの近くまで運ばれている。真山先輩がドリブルで美加と彩花を交わし、私の方へ来る。私のディフェンスは難なく交わされ、真山先輩はそのままゴール。休む間もなく攻守が入れ替わる。彩花からのパスを受けた。ドリブルするかパスを出すか決めかねていると、美加が私のそばに走ってくる。私は美加にパスしたが先輩に奪われた。そして、先輩はそのままゴールする。実質ボールを運んでいるのは、美加、結、彩花だ。私はミスを犯したくなくてボールから逃げ回ってしまう。絵麻もそうで彩花のパスを避けてしまう始末だった。試合が終了し、スコアーを見ると十二対三十四のボロ負けだ。ゼィゼィと息が漏れる。結が励ますように私と絵麻の肩を抱いたが申し訳なさと不甲斐なさで顔を見ることはできない。こんな私がチームにいていいのだろうかと思ってしまう。あの時、バスケ部に入ることを断っていればよかった。流れに身を任せすぎた。中途半端な気持ちでこの場にいるのは迷惑だとわかっている。バスケは勝っても負けても頑張った過程に納得できればそれでいいと考えている私には理解できない世界だ。辞めよう。迷惑をかける前にバスケ部を辞めよう。もともとバスケに関心があった訳じゃない。流れで入部したのだから。私がいない方がバスケ部のためだ。私の気持ちが固まった。
春の朗らかな気候から新緑の季節へと変わり、青葉が生い茂る。緑の季節だ。いい季節になったと言うのに私の気持ちは晴れない。体育祭が終わったら、退部届けを部長に提出しようと思う。その前に、バスケ部の皆にラインで報告しよう。でも、バスケ部の皆との絆ができているから言いづらい。特に彩花と絵麻には連絡しづらかった。気持ちが浮かないまま、体育祭当日を迎える。ロッカーで着替えをすませるとさっそく彩花が私をグラウンドに連れ出した。土曜ということもあり観客も沢山いる。一組、二組は赤団。三組、四組は青団。五組、六組は白団。七組、八組は黄団の四つに別れる。私と彩花は四組だから青団になる。団の色のハチマキをする。彩花の憧れの大津先輩は赤団だ。彩花は興奮して昨夜眠れなかったそうだ。それもありアドレナリンが過剰に分泌されハイテンションだった。
「先輩は、リレーと、組体操と…」
バスケを辞める後ろめたさが募る。でも今は覚られたくない。
「ところで、先輩は彼女がいるの?フリーなの?」
根本的なことを聞いてないことに今更ながら気づく。彩花はあきれた様子だ。
「はぁ?今さら何を言っているの?いないってば!」
彩花の剣幕にたじろぐ。
「そ、そうだよね。ごめん。」
彩花は部活中、大津先輩に黄色い声援を堂々と送っているのに、本人を前にすると何も言えなくなる。今回は本気のようだ。今までとは違う。それがわかる。
「終わったら、告白をするんでしょ。頑張って。」
告白する場面を想像し緊張したのか彩花は「うん…」と短く答えた。
体育祭が始まる。競技で三位までになった団に点数が配当される。競技を見ず友達と話している生徒ばかりで団の優勝を願う生徒は少ないようだ。みんなの目的はただ体育祭後の告白タイムだろう。その話で持ちきりだ。優勝を狙うのは各団の応援団とその関係の生徒くらいだ。
「光!早く先輩を見に行こう!」
彩花が私の手を引っ張る。
「えっ!確か…次の次ぐらいじゃないの?」私はプログラムを見ようとするが、彩花はそれを制した。
「いいから早く!」
彩花は私を引きずるようにしてグラウンドに向かった。すでに女子がグラウンドに沿って並んでいる。
「もう、ファンが来ている!」
この女子たちは…大津先輩を…応援するために集まっているの?まさかね。彩花は空いている場所を見つけ私を隣に招く。確かに先輩はいい男だけど。なぜか少し気持ちが沈む。
プログラムが進行し種目が二年生男子による百メートル走になる。何人かグラウンドを離れた女子もいるが、さっきより女子の数は増えている気がする。大津先輩が走る番が来た。熱のこもった黄色い声援が飛び交う。熱狂で熱さが増した。こんなに先輩が人気だなんて知らなかった。周りがヒートアップしている中、私はその熱に同調できず気持ちが落ち込んでいくようだった。隣にいる彩花は熱に浮かされ、先輩の名前を連呼している。
ピストルの合図でスタートした。バスケで先輩が俊足だということを知っていたが、体育館のコートの短い距離だけしか見たことがない。先輩はスピードにのって加速していく。ゴール付近でもう一人抜き一位になった。あっという間だった。先輩が走り終わるとワラワラと女子たちは解散していく。彩花は興奮がさめやらず「先輩かっこよかったね!」と私に同意を求めた。大津先輩は確かにかっこいい。先輩に助けられて、中身もいい人だと知っている。でも、それだけだ。ただそれだけ。そう思わないと彩花に心が同調しそうで怖い。
体育祭の競技は順調に進み、終盤が近づいてくる。それに連れ、気持ちが重くなる。体育祭が終われば仲間に知らせる。せっかく、仲良くなれたのに。私が辞めると言えば、皆止めるだろう。うまく辞める方法が思いつかない。気持ちが沈んでいく中、体育祭の締め括りである全校生徒によるフォークダンスの曲が流れる。学年問わず自由に輪を作りリズムに合わせてステップを踏む。私も輪に加わった。放課後部活に費やしていた時間を今度から何に使おうか。部活を辞めた途端に何をしていいかわからなくなりそうだった。バスケを辞めたい理由がくだらないことは自分でもよくわかる。なんのために部活をしているのか。目標がない。相手が変わっても考えることに夢中で踊りは上の空だった。冷たい手が私の手を包む。
「バスケ、頑張っているな。」
ハッとして相手を見上げると涼しげな目元で見返される。大津先輩だ。先輩と手を繋いでいる。意識をすると触れ合う手が震える。その反応を先輩に知られたくない。隠すため、バスケの話をした。
「先輩。私は勝ち負けなんてどうでもいいです。そんなことより、バスケって…チームって、怖いです。ミスしたらと思うと申し訳なくて、周りに迷惑をかけたくないと考えてしまう。こんな気持ちのままバスケを続けられないって。」
しまった。余計なことを言ってしまったと後悔するがもう遅い。一度声に出してしまった言葉は取り消せない。
「村崎。あのな…」
先輩は何か言いかけたが、私たちの手は離れ次の相手の手をとる。先輩は何て言いたかったの。でも先輩のようにバスケが上手な人には私の気持ちはわからない。
体育祭が終了すると同時に彩花は大津先輩を探しに行った。グランドや部室前で男女がハチマキを交換しているのが見える。案外オープンに交換しているので驚いた。彩花が先輩と無事ハチマキを交換できるといいな。自分の荷物を持ち教室へ向かう。
「村崎」
その声音に全身が痺れる。頭で考えるより体が反応する。大津先輩は急いでいたのか、髪が少し乱れている。
「さっきの話な。一人のミスを皆でカバーするのがチームだ。だから、仲間がミスをしても誰も迷惑だなんて思わない。仲間を信じろよ。それに、お前は勝ち負けよりも仲間を大切に思う方が強い。そんな奴がチームに一番必要なんだよ。」
自分でもおかしいくらいに先輩の言葉が心に届き、響き渡る。きっと、私は誰かにそう言って欲しかったからだろう。
「ありがとうございます。先輩の言葉で、こんな私でもいていいのかなぁって思えました。」
先輩の言葉は、私が探し求めていたピースだった。今、ぴったりとはまった。チームは助け合い、温め合うもの。先輩、ありがとう。微笑む先輩に何度も頭を下げた。クールな先輩しか知らなかったが、微笑むと少年のようにかわいいと思ってしまう。駄目だ。ヤバイ。自分を戒めていると、彩花が先輩の名を呼び走ってきた。必死で探していたのだろう息を切らしている。私の時間は終わり。今度は彩花の時間だ。邪魔をしてはいけない。私は、彩花に頷き、先輩に会釈して立ち去った。
二人の今後が気になったが、気持ちを切り替えバスケのことを考えることにする。スポーツに向いていないが、答えをすぐに出すことはもう止めようと思う。こんな私でも仲間の役に立ちたい。大津先輩が言っていたように、バスケはチームで頑張るものだから。チームを高めるために私に出来ることをしたい。シュート練習や基礎トレーニングは好きだから、まずそこからレベルを上げていこう。まだ退部届けを出すのは早い。そう決めると今日先輩と話せたことは僥倖だった。足取りも軽くなる。靴箱から靴を出していると
「村崎!」
「キャー」
驚いて声を上げてしまった。
「ごめん。驚かせたね。」
短い髪は日の光りにあたり、余計に茶色に見える。二重瞼の大きい目に光が宿っている。
「ごめん。びっくりしちゃった。降籏君…どうしたの?」
降籏君は私の頭に目を向け、微笑んだ。
「ハチマキは交換してないよな。」
「してないよ。」
「ふーん。じゃ交換しよう。」
「えっ!降籏君って物好きなの?それともただのコレクター?」
降籏君は吹き出した。
「何でそうなるのかなぁ?」
「いや…私のハチマキを欲しいという人はいないだろうから…もしかして、降籏君は女子のハチマキを収集するのが趣味なのかと…」
「そんなわけないでしょ?村崎ってやっぱり面白いね。」
私が面白い?降籏君の発言に戸惑う。
「じゃあさ、ラインを教えて。」
私の気持ちがついていかないまま、話がサクサク進んでいく。降籏先輩に悪い印象はない私は言われるがまま自分のラインを教えた。
彩花の告白は成功したのだろうか…スマホを何度も確認するが連絡はない。彩花の性格上、上手くいったなら必ず連絡をくれるはずだ。ということは上手くいかなかった?いやいや、成功して先輩と一緒にいるから連絡できないのかも。気になるが、私から連絡はしないことにした。休日中、彩花からの連絡はなかった。
靴箱から上履きを取り出す。渡り廊下を歩き、売店を通り過ぎ、正面にある階段を上がる。灰色の壁には誰が興味をもつかわからないポスターが一面に張られている。彩花が階段の踊り場にいて壁を見つめていた。声をかけると彩花は抱きついてきた。彩花のただならぬ雰囲気に私は彩花の手を引いてもと来た道を戻る。売店の自販機で飲み物を買い、体育館の渡り廊下を渡り、左手にある部室と体育館の間を通り抜ける。部活で朝練をしている子達と顔を会わさぬよう下を向き足早に体育館裏に向かった。人の目を憚らず二人きりになれる場所はそこしかない。
体育館裏は、二十畳程の広さがあり芝生に覆われ、金網のフェンスには蔓草が巻きついている。彩花と改めて向き合う。彩花のまぶたは赤く腫れ、目も潤んでいる。私は何も言えず、彩花を見つめた。彩花の瞳から大粒の涙がこぼれる。唇を震わせ「フラれた」と言った。
「先輩は…断った。もしかしたらあたしを選んでくれるかもと思っていたけど、やっぱりダメだった。悔しいよ!」
彩花の目から涙が止めどなく流れ落ちる。「きっと先輩は彩花を振ったこと後悔するよ。」
彩花ほどの子が恋に敗れるなんて、相思相愛は難しい。大津先輩を射止めるのは難しい。
「絶対後悔するわよ。先輩はきっと罰があたるわ。」
彩花に紙パックのジュースを手渡すと、彩花は、泣きながらジュースを飲んだ。
失恋したらバスケ部を辞めるかもしれないと思っていたけど、彩花はバスケを続けている。女子バスケ部でもインターハイに向けて朝練が始まった。三年生にとっては最後の夏だから、一球一球にかける想いが伝わってくるようだ。絵麻と私は、どうにか練習についていけるようになった。試合形式では、絵麻は反射的にボールを避けなくなったし、私も失敗を恐れなくなった。チームでゴールを目指す。なぜあんなに失敗を恐れていたのか、今は笑えてしまう。以前真山先輩が話していた通り絵麻はセンター、私はフォワードのポジションを練習している。
朝練が終わり道具を片付けていると降籏君が「村崎は、最近バスケのレベルが上達したね」と誉めた。降籏君はいつもそうだ。私の変化にいち早く気づいてくれる。素直に「ありがとう。」と微笑むと、降籏君も微笑んだ。「光は運動神経がいいものね。」彩花も作業を止め話しに入ってきた。
「渡瀬は、ちゃんとバスケに集中しろよ。こっちばかり見ているじゃん。」
彩花は歯軋りする。
「降籏君を見ている訳じゃないから別にいいでしょ。光の上達に気づけるってことは、降籏君もバスケに集中してない証拠よ!」
「まぁまぁ二人とも授業が始まっちゃうよ。」
絵麻がいがみ合う二人の間に立ってなだめる。降籏君はさっきとはうって変わり、目を輝かせた。
「そうだ。今週の土曜日にバスケの練習試合があるから見に来いよ。」
その日は予定もない。全国大会常連校の男子バスケの試合を見てみたい。
「行くね。彩花と絵麻も行こうよ。」
「行く!」
絵麻は元気よく返事した。
「行かないわ」
彩花は速攻断った。降籏君は時間と場所を私に伝え作業に戻って行く。
「でも本当に光は上達したね。うちと同じ初心者だったのに、置いてきぼりだ。寂しいよ。」
絵麻は項垂れて見せる。私は絵麻の手を握った。
「一緒に頑張ろう!エイ、エイ、オー」
と掛け声をかけ拳を天に突き上げる。それを見て、面白がる美加と結、七海も加わり皆で円陣を組んだ。彩花は円陣に加わらず壁に体を預け、私たちを見ている。皆で掛け声をかけ、拳を突き上げる。部活は楽しい!皆で一緒に頑張っていきたいと強く思う。
男子バスケの練習試合は松本高校の体育館で行われる。私と絵麻は、松本高校の最寄り駅で待ち合わせをした。約束の時間より早く到着してしまった私は、喉が渇いたため自販機を探す。道路を挟んで反対側にあるコンビニに人だかりができているのが見えた。道路と縁石にくっきりとタイヤの痕が黒い線となって残っている。タイヤの痕を追うとシルバーの自動車がコンビニの入口に半分突っ込んでいた。パトカーと、救急車が路肩に停車し、警察官が交通整理と事故の検証をしているのがわかる。救急車にスーツを着た男性が運ばれ、白いシャツには生々しく鮮血がべったりついている。「また高齢者の運転操作ミスらしいよ。」すれ違う人がそう話しているのが聞こえた。震える体を抱きしめる。交通事故はイヤだ。父と母を思い出す。駅の待合室に腰を下ろし落ち着くのを待った。ようやく落ち着きを取り戻した頃、絵麻が走ってきた。いつもは束ねている髪を下ろし、ボーダーのトップスにブラックのショートパンツを合わせ、長い足がより際立つ。私に気を取られたのか、段差につまずいて転んだ。慌てて絵麻に駆け寄り助け起こす。
「大丈夫?怪我してない?スカートじゃなくて良かったね」
「ありがとう。大丈夫。これだから、スカートは履けないのよね。」
絵麻はショーパンの汚れを手で払った。松本高校の体育館に向かう。公立高校はどこも造りは似たり寄ったりで、体育館まで迷うことなく行ける。体育館の観客席に行くと練習試合なのにたくさんの観客がいることに驚く。
「結構、見に来ているね」
「あそこに三神先輩たちもいるよ。」
絵麻が指差す方を見ると、艶やかな髪をショートカットした美人がいる。男子バスケ部の練習を見に来ているのを何度も見かけたことがある。
「あの人、三神さんていうんだ美人だね。大津先輩を好きなの?」
「あの人が大津先輩の彼女になる一番の有力者と言われているけど…うちは違うと思う。」
絵麻は儚く笑った。なんだか気まずい空気に話題を変える。
「一高の男子バスケをちゃんと見学するのは初めて。というより、バスケの観戦に来るのが初めてかな。わくわくする。」
絵麻もコートで練習しているバスケ部に目を向けた。今、一高生はスリーポイントシュートの練習をしている。男子部員は四十人ほどいる。バスケは五人で行う競技だからレギュラーを勝ち取るのは難しい。厳しい世界だ。こんなに沢山いる部員の中にフォームが綺麗な人がいる。大津先輩だ。先輩が放つシュートは綺麗な放物線を描きスパンッと決まる。ゴールの成功率も高い。流れるような動作に見とれる。
「大津先輩はすごいね。」
絵麻が感嘆をもらす。
「そうだね。成功率がかなり高い。ここに至るまでどれほど練習をしたんだろう。」
絵麻も頷き返した。私がバスケ部に居られるのは、先輩の言葉があったからだ。
『勝ち負けよりも仲間を思う人がチームに必要。』
この言葉が今も私を照らしている。私は先輩を見る。絵麻も視線を先輩に向けたままだ。
「彩花は…先輩にフラれたんだね。」
「うん…」
「私も先輩に告白しようかなぁ。」
驚いて絵麻を見ると絵麻はまた微笑む。
「いいかげん。先輩を恋愛対象として好きなのか。それともただのファンなのか。決着をつけなくちゃね。うちも彩花を見習いたい。」
「それって決着をつけないといけないこと?」
絵麻は曖昧に微笑む。
「いつかはね。そうしないと先には進めないし、その場所にとどまり続けるのは辛いから。」
「そっか。」
こんな時、何て声をかけてあげればいいかわからない。私に恋愛経験があったなら助けてあげられたのにと思う。ふと、コートで練習している先輩を見る。降籏君が私たちを見つけて手をあげた。降籏君は目敏いなと感心する。私も手をあげる。大津先輩が降籏君と私を見て顔を背けた。
「光は、人を好きになったことある?」
「そんな経験はない。」
「やっぱりねぇ。光はお子ちゃまだから。」
絵麻は母親が子供に向けるような慈愛に満ちた優しい表情を向ける。
「ごめんね。お子ちゃまで。人を好きになるってどうゆうものなんだろう。本当に体に電撃が走るのかなあ。」
「そうだとわかりやすいのにね。」
絵麻は苦笑する。
「実はうち、先輩と話したことは一度しかない…。うちは…光も知っての通りどんくさいでしょ?前からよく転んだり、物を落っことしたりしていた。あの日も、そうだった。慌てていて…集めたノートを廊下にぶちまけてしまったの。行き交う生徒はその惨状を見ても手を貸してくれなかった。これが可愛い子なら違っていたはず。誰も手伝ってくれず、なんだか惨めな気持ちになったよ。そんな時、手を貸してくれたのが大津先輩だったの。それからかなぁ…先輩に目が行くようになったのは。先輩の存在がやる気を出させる。日々の糧になる。今もそう、私の生活に必要な人なの。」
「大津先輩は優しいよね。」
「光は結構可愛いから、自信持ちなよ。」
私が可愛い?唐突に絵麻は何を言っているのか。でも、そんなこと言われたことない。私が小首をかしげると、
「もう試合が始まるぞ。」
降籏君たちが観客席に上がってきた。降籏君たち男子バスケ部は私の隣で試合を応援する。ホイッスルが館内に響く。試合が始まるのだ。
一高は白のユニフォームで松高は青のユニフォームだ。各校から選手がコートへ出てきた。大津先輩は一クォーターから出るようだ。
中央のサークルに選手が集まり試合が開始される。審判が投げたボールを一高の選手がタップし仲間へボールが渡る。白の一高の選手はゴール下まで長いパスを出す。速攻だ。しかし青もその攻撃を防ぐためマンツーマンでディフェンスをする。白は一旦サイドへボールを出し、スリーポイントシュート。外れる。ゴール下は戦場だ。白のセンターで、キャプテンである堤内先輩が体を張ってリバウンドをとると、そのままゴール。すぐさま攻守は入れ替わる。アウトラインから青がボールをパスする。白はゾーンでコートを守る。青がドリブルで突破しようとするが、白が二人で行く手を阻む。青はガードにボールをパスし体制を建て直す。大津先輩が青のガードをマークする。「大津先輩だ!」絵麻の笑顔が弾ける。私もうなずいた。大津先輩は練習中ガードとフォワードのポジションの練習をしているが、この試合ではガードだ。青がダン、ダン、ダッダッダーンとドリブルを強く鋭くして、ディフェンスの先輩を抜こうとするが腰を落とし守りに徹している。苦し紛れに、青がフォワードへパス。フォワードがドリブルでディフェンスの手前で、ドリブルチェンジし白のディフェンスをかわす。そのままジャンプシュート。白も青もゴール下でリバウンドを取るためにせめぎ合う。ボールはゴールへ吸い込まれるように決まる。「すごい…」圧倒される。これがバスケットなんだと息を呑む。確かに、ちょっと体があたったくらいで謝っているようでは試合にならない。キュッ、キュッとバッシュの音と、ドリブルのボールの音が館内にこだます。大津先輩にパスが回ってきた。フェイントを織り混ぜながら、ゾーンの中へ切り込むが、切り込めないと瞬時に判断しスリーポイントシュートをする。激しい試合なのに、先輩のシュートフォームはそれを感じさせない。スパンッと綺麗に決まる。歓声があがる。絵麻と私は感嘆のため息をついた。すぐに青が攻めてくる。白はマンツーマンで相手をチェックする。青も負けていない。ドリブルとパスでゴール下までボールを運び、シュート!外れる。ゴール下では白と青が激しくボールを得ようと取り合いが始まった。リバウンドを制するものは…昔流行った漫画の台詞を思い出す。それほどリバウンドは試合の鍵を握る。私は手のひらに汗をかいていた。青がリバウンドを制し、パスを出す。待ち受けていた青の仲間がスリーポイントシュートをするが、大津先輩が手を上げて妨げる。先輩の手にボールが触れ、ボールはゴールまで届かない。そのボールを白が掴む、ドリブルでゴールまで向かうが青が立ちはだかった。一端ボールを大津先輩へパスし体制を立て直す。先輩は緩急をつけて、時にはフロントチェンジやロールターンを駆使し突破する。降籏君も大津先輩のファンなのか、先輩の一挙一動に反応している。先輩がゴールを決めると、身を乗り出して歓声をあげた。一進一退の攻防が続いたが徐々に白がボールをキープする時間が長くなっていった。その勢いが四クォーターまで続き、八十七対五十二で試合が終了する。大津先輩は疲労して四クォーターの途中で交代した。試合が終わっても、観客席は熱狂が覚めやまない。
「一高の男子はすごいね!あんな人たちと同じ体育館を使って練習できるなんて光栄だわ。」
私が言うと絵麻も同様に興奮している。
「そうだね。やっぱり大津先輩は格好よかった。」
絵麻の言う通り、大津先輩は状況判断もさることながらシュートの確率が極めて高い。女子バスケ部で言うと結のような人だ。中でもスリーポイントシュートは格別だ。先輩が放つシュートを頭の中に何度も思い描けるように記憶した。先輩は誰と戦っているのだろう。コートに立つ先輩は冷静で、まるで戦いのない、争いのない、静かで先輩だけしかいない世界にいるようだった。応援に来て良かった。大津先輩は、私がなりたいプレーヤーになった。
「この後、何か美味しいものでも食べていかねぇ?」
降籏君の言葉に現実に戻った。
「行く」
絵麻は元気よく答えた。
「ごめん。私は用事ができたから帰る。」
「ええー。光が行かないのなら、どうしようかなぁ。」
「行っておいでよ。」
絵麻は、困ったような顔をしたが、考えた末「わかった。行くわ。」と降籏君に返事した。降籏君は私に何か言いかけたが竹馬君にせかされて階段を降りて行く。私は絵麻と別れて体育館を後にした。
先輩に感化されて私はその足ですぐさま一高に向かうことにした。ダンッ、ダンッ、ダンッとドリブルの音が体育館に反響する。大津先輩のプレイを反芻し、同じように真似てシュートするが決まらない。あの領域に達するには一夜漬けでは無理だ。高校生活三年を捧げても足りない。何度も何度もシュートする。さっきから先輩のことばかり考えて苦笑する。先輩はコートの仲間から信頼され、必死で繋げたボールをゴールに納めてくれる。相手チームもそれがわかっているが、先輩はそれを物ともしない。結と同じようにスポーツセンスがある人だけど、この感情は結には感じたことのないものだ。先輩をずっと見ていたい。先輩に追いつきたい。同じものを見て同じように感じたい。それにバスケに対する思いの強さは一体どこからくるものなのか?勝ちたいという気持ちが他の人より強く、意思の差からくるものだろうか?知りたい。もっと先輩を知りたい。
「村崎…一人で自主練習しているのか?」
入り口の壁に片手を置き寄りかかる大津先輩がいる。松本高校から直接ここへ来たのか一高バスケ部の黒ジャージという出で立ちだ。
「大津先輩?びっくりした。」
いるはずのない先輩がいることに驚く。もしかして私の思いが天に通じたのかと思った。しばらく先輩を凝視していると、居心地が悪かったのか
「試合…見に来ていたね。」
それだけ言うと、荷物を無造作に床に置き私に近づいてきた。なおも凝視する私に先輩は苦笑する。
「どうかした?」
体が固まってしまう。先輩はそんな私のボールを奪いシュートした。こんな風に私もシュートできるようになりたい。決まったボールを取りにいく先輩に
「先輩…かっこよかったです。私も先輩のようになりたいです。試合中先輩は何を考えているんですか?先輩のことをもっと知りたいです。」
ストレートに感じたことを口にした。館内の静けさが恨めしい。先輩は目を見開き、そして口の端を上げ意地悪そうな顔つきをする。
「それは村崎流の告白?」
「違います!」
反射的にそう叫んでいた。…違うのか?
「…先輩を異性として好きなのかどうかは…よくわかりません。私もこんな感情初めてで。ただ、先輩のようになりたいです。先輩と同じようにものを見て、同じように感じたいです。」
先輩を見つめすぎたのか、今度は目を反らされる。
「…降籏とつきあっているの?」
なぜここに降籏君の名前が出てくるんだろう?
「つきあっていません。」
先輩は唸り、腕を組んで天を仰ぐ。
「バスケがうまくなりたいという気持ちはわかった。」
先輩はボールを拾い私にパスする。
「打ってみて」
私は、ゴールを狙ってシュートした。外れる。そのボールを先輩が拾い私のもとへ来た。先輩は私の手に手を添える。
鼓動が早くなる。先輩の手は大きくて冷たく、指が先へいくに従い細くなっている。女の手のように綺麗だ。かといって女子の手じゃない。その指が私の指とボールを掴む様に目を見張る。「村崎は腕に力が入っている。腕には力を入れない。全身を使って真上に飛ぶ。そしてシューとする。やってみて」
集中しよう。集中。集中!先輩のアドバイス通り体を動かした。シュートの寸前で先輩が制する。
「両膝を曲げて、全身を使うよう意識する。手は添えるだけ。やってみて」
両膝はもちろん体全体を使い上へ飛びシュートする。ボールは弧を描き、リングの縁に当たり外れた。難しい。
「まだお前は初心者だろ。そんなに早くマスターできないよ。お前はこれからの人だ。だから、慌てるな。」
先輩は倉庫からボールかごを持ってくる。
「ありがとうございます。あの…先輩はなぜここへ。体育館に忘れ物でもしたんですか?」
「今日の試合の復習に自習トレーニングしようと思って…」
「私の練習につき合わせてしまってすみません!どうぞ練習してください。」
「もういいよ。村崎に教えることでイメージトレーニングする」
そんなことが練習になるのかと思ったが、先輩からボールを受ける。アドバイス通り体を動かそうとするが、どうしても腕に力が入ってしまう。なかなかうまくいかない。何度もシュートするが外れる。落胆もするが意地でも決めたいという気持ちが沸き上がる。
「うまくいかなくて当たり前。体にフォームを覚えさせるんだ。何万回も練習すればフォームは身につくし、シュートの確率も上がってくる。」
体全体を使ってジャンプする。ボールが綺麗な弧を描き、ゴールに収まる。
「先輩!」
嬉しくて先輩を見ると、先輩は頷いた。
「何か一つでいいから得意なものがあると自信につながるし、武器になる。」
「先輩、ありがとうございました。」
抱きつきたい衝動に駆られるが踏みとどまる。さっきのように感情の垂れ流しは先輩も困るだろう。先輩は困ったように笑う。
「今度から一緒に自主練習する?」
「はい!よろしくお願いします。」
嬉しくて即答した。
村崎家は昔この辺りの庄屋だったと言うだけあって堂々たる門構えの家だ。引き戸を開けた。木造で瓦屋根はいかにも日本家屋である。靴を脱ぎ、廊下を歩く、部屋は襖で仕切られ、襖の上には、鷹や、鶴が彫られた木製の彫刻欄間が歳月によって磨きがかかり、なんとも言えない味わいがある。奥の台所の襖は開いている。そこから、いい匂いが漂ってくる。
「ただいま」
「おかえり。ちょうどよかった。ご飯にしよう。」
色白の丸い顔に、つぶらな瞳が愛らしい。ふくよかな体つきなのに足だけがやけに細い、おばあちゃんは、缶ビールを片手に揚げ物をしている。私もご飯の支度を手伝う。テーブルには、コールスロー、唐揚げ、茄子の煮浸し、味噌汁、フルーツポンチが並ぶ。ご飯をよそい、おばあちゃんの向かいに腰を下ろした。おばあちゃんは、またプルタブを開ける。この家には私とおばあちゃんの二人しかいない。
さっき先輩の誘いに、嬉しくて即答してしまった。なぜ彩花と絵麻のことを誘ってもいいのかと言わなかったのだろう。二人を裏切ったような気持ちになる。こんな気持ちになるのなら、二人を誘おう。そう思うのに、心がざわつく。こんな自分が嫌で食べる気がしない。
「光、具合でも悪いのかい?」
おばあちゃんは、缶を脇において、手を伸ばし私の額に手の平を当てた。
「大丈夫だよ。」
「光がご飯を食べない時は具合が悪いか悩みがあるかに決まっている。」
私を見つめるおばあちゃんの目は澄んでいて、そこに心配が見え隠れしている。おばあちゃんは私の母親であり、唯一の家族である。
「…自分がイヤになったの。今まで友達を一番に考えてきたはずなのに。自分の感情を優先してしまった。」
おばあちゃんに話すことで自分の気持ちがわかってきた。きっと先輩を独り占めしたかったのだ。
「好きな人ができたんだね。」
『好き』という言葉に、衝撃を受ける。全身が発火したように熱くなる。おばあちゃんはガハハと笑った。
「人を好きになるって事は、嫌でも自分の醜い部分と綺麗な部分を知ることになる。その気持ちを大切にするんだよ。逃げることはできないんだから。友達にも誠意を持ってその気持ちを伝えれば、わかってくれるさ。」
「…」
おばあちゃんの言葉を否定できない。そうか、私は先輩が好き…。確かに好意は持っているし、納得がいく。そう自覚すると恥ずかしくなる。おばあちゃんを盗み見る。おばあちゃんは、ちびりちびりとビールを飲みそれ以上何も言わなかった。
きしむ階段を上がる。二階には二つ部屋あり、一つは父の書斎だったが、今は開かずの間になっている。両親は私が小学生の時に他界した。自動車同士の衝突事故だった。だから今でも交通事故は怖い。父と母は大恋愛の末に結婚し、娘の私をそっちのけにして、いつもラブラブだったのを思い出す。私も父と母の血を引き継ぎ恋や愛に邁進するタイプなのかもしれない。
私の部屋の襖を開ける。机と押し入れ、本棚、ローテーブルしかない。令和の時代には似つかわしくない古風な部屋だ。おばあちゃんの言葉を思い出す。畳に座り込みバッグからスマホを取り出した。絵麻の言う通り、大津先輩は、外見もさることながら人柄も良い。人から好意を抱かれる人だ。恋愛に疎い私も先輩に恋してしまった。友達を差し置いて自分の気持ちに走ってしまった。あんなに恋愛より友情の方が大切だと思っていたのに。気がつくと先輩のことを考えてしまう。先輩がいなかった日々を思い出せないくらいだ。二人に謝ろう。でも、先輩に恋をしてすみませんと謝るのか。そうじゃない。結果として抜け駆けするのだから謝ろう。そして話そう。話すことで私の誠意を見せたい。そう気持ちが固まると、彩花と絵麻に連絡をした。
待ち合わせの時間より早く来てカフェで二人を待つ。注文したアイスティーの氷は溶け常温に近くなっている。絵麻が先に来た。デニムに薄い白い七分袖のカットソーを着て、やっぱり髪を下ろしている。約束の時間を十分過ぎたところで彩花がやって来る。彩花はワンピースを着ている。彩花はスカートを好みパンツは一本しか持っていないと言っていた。二人に会い緊張が頂点に達する。二人は私が話すまで待っていてくれた。誠意を持って、昨日の話をする。先輩と自主練習をしたい事。先輩を好きになった事。二人は私の話が終わるまで一言も発さず聞いてくれた。話し終わり二人を伺う。悪く思われても仕方ない。息を飲んで二人の反応を見る。彩花は頬にかかる髪を払い、テーブルに肘をつく。絵麻は指を組んだり崩したりしている。二人の答えを待った。
「光も大津先輩を好きになったわけね。」
「ごめん。そうみたい。自分でもどうしようもない。二人を裏切ることになるってわかっている。」
「別に裏切りでもないわ。先輩はそれだけ素敵なのよ。恋を知らない光も大人になったのね。」
彩花はしみじみ言う。彩花は怒るかもと思っていたけど冷静だった。
「そっか…光も先輩が好きになったのね。」
絵麻の反応も同じだった。二人になじられる覚悟をしていた私は拍子抜けする。
「これであたしは諦めがついた。あたしは抜けるよ。バスケ部を辞めるわ。」
「嘘!なんで!」
私と絵麻の発言が同時になる。彩花は笑った。
「ずっと考えていた事なのよ。あたしがバスケ部に入った理由は、大津先輩が目的だったけど、それがなくなったから。もともとバスケ自体には未練ないし。これから楽しい青春を謳歌するわ。だから、光はあたしに気を使うことないよ。先輩と自主練習を頑張りなよ。」
彩花は中学時代から一度決断すると行動が早かった。彩花がバスケを辞めるのは寂しい。
「じゃあ、うちも…バスケ部を辞めて、男子バスケ部のマネージャーになる。」
今度は、絵麻がとんでもないことを言い出した。彩花と私は「ええー!」とまた同時に言う。絵麻は小さく笑った。
「うちも彩花と同じ理由でバスケ部に入部したけど。バスケ部に、いや運動部に向いてないと思う。だから、マネージャーになって先輩を支えたい。光は、先輩との自主練を頑張れ。」
絵麻は本来いるべき場所に行くのだ。彩花が結論づける。
「決まりね。光は先輩と自主練習を頑張って、その気持ちを育てなさい。絵麻は先輩に告白するかどうかはわからないけど…先輩のサポートに回ること。そして、あたしは女子バスケ部を辞めて青春を謳歌する。それぞれの道に進むんだね。」
自分が招いたことなのに、悲しかった。三人一緒にバスケができなくなった。大津先輩を好きになるということは、彩花と絵麻との関係も変わるという事なのか。絵麻が私の肩にそっと触れる。
「そんなに悲しい顔しないで。進む道が違ったの。ただそれだけのこと。友達とゆう関係は壊れてないよ。だけど、うちと光はライバルになったのよ。」
私は絵麻とライバルになりたかった訳じゃない。でも、結果はそうなる。先輩を好きになった瞬間から、自分が選んだ代償だった。彩花がアイスティーのグラスを持ち掲げる。
「あたしたちの新しい門出に乾杯!」
絵麻はグラスを持ちあげる。私も、二人に倣った。
二人は即行動に移し女子バスケ部を辞めた。二人がいない空間にまだ慣れない。フットワークをする時いつも絵麻と彩花が、隣にいて競争したり励まし合ったりしていたのに。それが懐かしく思える日が来るのかな。彩花は教室で会える。絵麻は部活動で会える。でも共有する時間の長さや濃度が今までと違う。薄くなった。そうさせてしまったのは私だ。私の寂しさが伝わってくるのか、美加や結、七海が気を使って、頻繁に声をかけてくれる。ありがたい。絵麻は、マネージャーとして大わらわで頑張っている。絵麻の姿を見ては私も頑張ろうと思える。
「村崎、そんなにガッカリしないの。俺がいるじゃん。」
降籏君も私を気にかけてくれているのがわかる。
「そうだね。ありがとう。」
降籏君は私が持っているモップを奪って倉庫へ向かって行った。その様子を見ていた男子バスケ部の部長が降籏君に「準備も部活の一部なんだぞ!集中しろ!」と一喝する。降籏君が私を見た。「ごめんね」と小声で言うと口の動きを読んだのか、笑顔で頷く。人に心配されている場合じゃない。集中。私も準備運動を始めた。
先輩のアドバイス通りにシュート練習をする。二ヶ月後にインターハイが開催するから練習もヒートアップしている。私たち部員は一丸となっていく。
部室は二棟あり、一棟は男子が、もう一棟は女子が使っている。女子は体育館側だ。女子バスケ部は一番左端にある。絵麻たち男子バスケ部マネージャーの更衣室は同じ棟の左から三番目だ。私は帰る準備を整え、絵麻を待つ。絵麻が部室から出てきた。
「絵麻、お疲れ。一緒に帰ろうよ。」
女子バスケ部の時は時々、途中まで一緒に帰っていたのに、絵麻がマネージャーになってからは、帰る時間がずれていた。絵麻の方が遅く帰っている。お互いの近況と、他愛もない話をする。それがひどく懐かしい。プールを通りすぎ、左側に、中庭その奥に校舎がある。右側はグラウンドだ。野球部もサッカー部も帰り支度をしている。ナイターだけが煌々と誰もいないグラウンドを照らしていた。開けた場所に出ると、二羽の白鳥が出迎えてくれる。雲が星を隠し、もうすぐ梅雨入りだ。
「光はこの白鳥好きだよね。なんで?」
「うーん。この羽を広げた白鳥って何をしているんだろうって考える。」
「あはは。何それ。」
「絵麻はどう見える?」
「うちは…。」白鳥の前に立ち止まり、顔を近づけたり、遠くから見たりして考えている。彩花は、求愛のダンスをしているところと答えたな。
「うちには、威嚇しているように見える。」
絵麻にはそう見えるのか!私には思い浮かばなかった。絵麻は小首をかしげて言う。
「この白鳥はその人の思考や願望によって見え方が違うのかもね。」
思考か…。確かに、そうかもしれない。そんな風に考えたことなかった。感心していると、絵麻が先を促した。駐輪場の蛍光灯の下で女子生徒が男子生徒の背中をポンッポンッとたたき笑い合っている。「あっ!」絵麻か私のどちらが声を発したかわからない。その男女が大津先輩と三神さんだったから。二人はお似合いのカップルに見える。三神さんの愛らしい声は、私の心を逆撫でする。こんな場面見たくもなかった。大津先輩が自転車を押し、その隣を三神さんが歩く。そして、二人は正門を出て行った。
「男と女の友情は存在すると思う?」
絵麻は不思議なことを聞く。でも、私と降籏君たちは友達だ。
「存在すると思う。絵麻は?」
絵麻の乾いた笑い声は闇に溶ける。
「う~ん。どうだろう。わからない。でも光のような考え方の人ばかりだったらきっと幸せだろうね…」
「大津先輩と三神さんはつきあっているのかなぁ。」
「違うとうちは思う。」
「でも、お似合いの二人だったから、ショック。」
さっきの出来事で気力が萎えた。力なく駐輪場から自転車を出すと、自転車のかごにペットボトルや空き缶、紙くずが入っている事に気づいた。掃除時間に駐輪場の掃除をしていて、ゴミ箱と間違えたのかな。絵麻もそばへ来て、驚いている。二人で駐輪場に設置してある屑入れにゴミを入れた。
「光、この他にも何か嫌がらせを…受けている?」
首を横に振る。嫌がらせなのかな?
「なんか嫌な予感がする。光、気をつけて帰りなよ。今後もこんなことが続くようなら何でも言ってね。」
「わかった。でもただの間違いだったと思うよ。」
考えてみても、これといって思い当たる節はないからそう答えた。最近の変化といえば大津先輩を好きになったくらいだ。今日はいろんなことがありすぎてどっと疲れた。絵麻と別れ家路に着く。
大津先輩との自主練習の日は梅雨入りが発表された日だった。私と大津先輩は毎週金曜日の朝練習前の一時間を一緒に自主練習をする事にした。三神さんとの件が頭から離れずいじけてしまう。そんなことはお構いなしに時間だけはきっちり時を刻むのが憎らしい。体育館は蒸し暑く、じっとりと湿った空気が漂う。約束の時間より早く着いたのに、先輩の方が先に着きストレッチを始めていた。
「大津先輩、おはようございます。よろしくお願いします。」
辺りを見回すと先輩と私の他はいない。先輩は誰かを誘っていると思いきや誘っていなかったようだ。二人きりだった。そのことが嬉しくて、顔が緩む。先輩はシュート練習を始めた。慌てて私もストレッチを始める。先輩のドリブルが館内を轟かせる。ダンッ、ダンッ、ダッダッ。規則的だったり早くなったり、遅くなったり、ボールが床を弾く音が心地よい。ずっと聞いていたくなる。
「いつまで、にやけているんだ。」
先輩の一声に我に返る。そう、自主練習をするためにいるのだ。表情を引き締める、集中しよう。私も先輩に倣いシュート練習をする。ボールを床に弾き、手首のスナップを確認しシュートした。それを何度も繰り返す。時々、先輩がアドバイスをくれる。次第に先輩を意識することを忘れ、練習にのめり込んでいく。かごのボールがなくなったところで、ふと思ったことを口にした。
「先輩は、試合の中、何を考えているんですか?『勝ちたい!相手を倒してやる!』って思っているんですか?」
先輩は口許を緩めたが、手を止めずゴールを見てシュートを放つ。
「そんなこと考えていないな。勝ちたいという気持ちはもちろんある。けど、感情だけで試合に挑んでない。…結局自分との戦いなんだよ。」
「自分との戦い?バスケはチームでするものでしょ?先輩は前に仲間を信じろと教えてくれたじゃないですか。」
自分のボールと先輩のボールも拾う。
「チームで戦うスポーツだ。だけど、自分との戦いでもある。戦う相手は目に見える相手だけとはかぎらない。まぁ相手チームに勝ちたいと思う方が、目標があっていいけど。それに…見せたい奴がいる。」
見せたい奴?誰だろう。ひょっとしてあの三神さんのことだろうか。先輩を独り占めできたと思っていたのに、一気に現実に引き戻される。そうだよね。私と先輩を繋げるのはバスケットだけだ。
「村崎は案外スポーツに向いているかもな。」
驚いて、動きを止める。
「どうしてそう思ったんですか?」
私と反して先輩は淡々とシュートを放つ。
「スポーツは勝負の世界だ。そんな世界は今まで無縁だっただろ。そもそも争う心がない。村崎は穏やかな世界を持っている。村崎は村崎の世界観でスポーツすればいい。チームプレーに向いているよ。」
私の世界観でバスケをする?先輩に好意を持ったことで、好きになったことで、もう私は穏やかな世界にいられない。イヤだけど、先輩を独り占めするために戦わなくてはならなくなった。
「先輩、私は穏やかじゃなくなりました。醜くなったし、汚くなりました。勝負の世界って、きっと美しかったり、醜かったりするんですよね。でも、先輩は綺麗です。私でもいつか先輩みたいになれますか。」
先輩と目が合った。先輩の動きが止まる。
「…それ、本当に気づいてないの?」
「何が?」
先輩は私の方へ来て、私の持っているボールを奪った。
「俺を止められたら、何でも言うこと聞いてやる。」
私は反射的に手を広げ、腰を落とす。先輩に攻めこまれないようにディフェンスの体制をとった。
「受けて立ちます。」
先輩は唇の端をつり上げ、意地悪な表情をする。先輩はドリブルでなんなく私を交わしゴールを決める。こんなに簡単に抜かれるのか。悔しがる私に
「今度は、村崎の番。十本勝負して俺からゴールを一本でも奪えたら、お前の言うことを何でも聞く。その代わり俺が全てゴールできたら、お前が言うことを聞く。どうだ、穏やかな考えの持ち主でもさすがにやる気が出るだろ?」
先輩の余裕な態度に悔しがらせたい衝動に駆られる。
「いいですよ。私、強運なので。」
先輩はボールを私に渡した。すぐさまドリブルをするがピタリッと先輩からマークされ、苦し紛れのシュートを打つはめになる。先輩にまたもなんなくボールを奪われる。攻守が入れ替わる。それを繰り返し、あっけなく勝負が終わった。私は膝に手をあて肩で呼吸する。疲れた…
「もう先輩とは…自分に自信がつくまで勝負しません。」
「もうバテたの?」
先輩は私に手を差し出した。綺麗な手だ。先輩の顔も好きだが、青みがかった手が一番いい。私はその手を掴む。あんなに運動したのに冷たい手だった。
「何を聞いてもらおうかな。」
片方の唇の端を上げて笑っている。何を言われるか内心あせる。
「チュワース」
男子バスケ部の部員が体育祭に入ってきた。助かった…。私は先輩の手を離し、「ありがとうございました。」と礼を言って女子バスケの朝練習の準備に向かう。
自転車のかごにゴミが入れられている事はあれからも続いている。最近では、靴箱の靴や上履きが隠されることがあるから、持ち歩くようになった。なぜ、こんなことになったのかやっぱりわからない。上履きを靴箱に入れず、手に持ち部活へ急いだ。校舎を通りすぎ、部室へ向かう。体育館入り口には相変わらず先輩のファンがいる。その中から、一人の女子が私の方へ来た。
「あんた、村崎だよね?」
スカートの丈が規定より短く、目をアイシャドウで黒く縁取りパンダのような目元をしている。ネームプレートが白色だから二年生だ。
「そうですけど…。」
「ちょっと来て」パンダ先輩が私の手を強引に引っ張る。断る暇も与えられないまま、体育館裏へと連れていかれた。そこには、すでに三人の先客がいる。一人は三神さんだった。三神さんは薄ら笑いを浮かべて私を見る。パンダ先輩は私から手を離し、三神さんたちの後ろへ回った。身の危険を感じて体がすくむ。だけど、なぜか逃げたくなかった。三神さんの隣にいる髪の長い女子がニヤニヤ笑いながら上履きを指さす。
「わざわざゴミ入れて忠告してやっていたのに、全然懲りてない。あんたバカ?」
きっとあの嫌がらせのことだろう。まさか、この人たちだったなんて思わなかった。
「たいした美人でもないのに、あんたなんかが大津君の周りにいるの目障りなの。消えてよ!」
三神さんの怒鳴り声に体が萎縮した。女子の一人が私の上履きをひったくりフェンスに投げつける。もう一人が手を振り上げる。殴られる!
「そこまで!」
おずおずと見上げると、降籏君が振り上げた女子の手を掴んでいる。
「行けよ。」
降籏君は凄みを利かせて先輩たちを睨めつける。降籏君の静かな怒りに三神さんたちは、文句をいいながら去って行った。絵麻が私の顔を除き込む。
「大丈夫。怪我はない?」
首を縦に振ると絵麻が抱き締めてくれる。私も緊張の糸が切れたように絵麻を抱き締め返す。
「村崎、大丈夫か?」
降籏君も心配してくれた。
「うん。大丈夫。ありがとう。」
降籏君たちが来てくれなかったら、今頃どうなっていただろう。そう思うと足が震えた。竹馬君が上履きを拾ってくれた。
「村崎は沢山嫌がらせを受けてきたんだろ。もう少し、危機感をもって行動しろよ。」
「ごめん。まさか、三神さんたちだって知らなかったの。」
竹馬君から上履きを受け取り、絵麻に肩を抱かれて部室へ向かった。
部活が終わると絵麻が途中まで「護衛する」と言って一緒に帰ってくれる。今日は三神さんたちのこともあり一人で行動したくなかったから安堵した。
「降籏君たちがマネージャーの仕事を引き受けてくれたから、早く切り上げてきたのよ。感謝しなくちゃね。」
「そうだね。明日、お礼を言うわ。絵麻もありがとう。」
降籏君たちには、感謝をしている。私が困っているとすぐに手を貸してくれる。優しい。降籏君たちが困ったことがあれば今度は私が助けたい。
「本当は、恐くて動けなかったんだ。」
「うん。びっくりしたよ。うちが連れられていく光を見かけなかったらと思うと怖いよ。降籏君は、血相変えていたよ。」
「そうか。ありがとう」
三神さんたちのことを思い浮かべてゾッとする。
「光は…降籏君のことどう思う?」
どうってそんなこと考えたことない。降籏君は絵麻と出会えたことと同じで、浜辺で綺麗な貝殻を見つけたような感じだ。
「大切な友達だよ。」
絵麻はクスリッと笑う。
「前にさ、男と女の友情は存在するかって聞いたでしょ?うちはあれ、存在しないと思うよ。」
今ごろ何を言っているのか。絵麻を見つめても真意はわからなかった。白鳥はナイターに照らされて、オレンジ色に光る。その前に、スラリとした体躯に白いシャツ、紺色の制服が映える男子が立っているのが見える。
「先輩のこと諦めようと思うの。」
「えっ!」
突然、絵麻は何を言い出すのだろう。
「先輩は私の気持ちに気づいている。だから線を引いているのがわかる。私ではダメなんだ…。先輩を困らせたくないからもう諦める。」
「本当にそれでいいの?気持ちを伝えないままでいいの。」
絵麻は長い間先輩を想っていたのだから簡単に諦められるはずがない。絵麻は空を見上げる。
「…光、うちは長いこと先輩を見てきたからわかる。先輩の目にうちは入ってない。それより、先輩には違う人が映っているよ。ずっと前からわかっていたことだけど、マネージャーになって間もないけど、それが痛いほどわかる。気持ちは伝えない。うちはいいマネージャーでいたい。」
「そうか…。先輩が見ている人は三神さん?」
今日のことがなければ先輩が三神さんを選ぶことに納得できる。でも、今はイヤ。
「もう行って。ここからは先輩が光を送ってくれるよ。」
絵麻は私の体を押し出した。白鳥の前に立っていたのは大津先輩だった。
「雨が降りそうだよ。早く帰った方がいい。」
絵麻はそうゆうと大津先輩に会釈して帰っていった。
「大津先輩…。」
先輩は、「行こうか。」と私を促した。
隣を歩く先輩は私の歩幅に合わせて歩いてくれる。そして、急に立ち止まり、私に向き直った。
「話は聞いたよ。迷惑かけたようでごめん。ちゃんと三神たちに言っておくから。本当にすまなかった。」
先輩は頭を下げる。私は胸の前で両手を振った。
「絵麻から聞いたんですか。謝らないでください。先輩が悪いわけではないから。あのう…送ってくれなくても大丈夫ですよ。私もう恐くないですから。」
さっきは三神さんたちの呼び出しに体が萎縮したけど、落ち着きを取り戻しつつある。それに、大津先輩が三神さんに話をしてくれるなら、嫌がらせはなくなるだろう。
「いや、いい。送るよ。」
先輩は歩き出した。そんなことより、先輩と三神さんの関係が気になる。先輩は三神さんをどう思っているのだろう。こんなこと考えるのはよそうと思っているのになかなか切り替えられない。
「村崎はあの白鳥が好きなんだって。」
さっき先輩が待っていた白鳥の像の話をしているのだろう。
「絵麻から聞いたんですか。」
先輩は頷いた。
「あの羽を広げた白鳥の事を考えるのが好きなんです。先輩はあの白鳥は何をしている所だと思いますか?」
先輩は目を見開き、そして軽く笑った。目尻が下がった表情は柔らかく、目を見張る。
「村崎は不思議なことを考えるね。そうだなぁ…もといた場所に戻ってきた所かな。」
先輩にはそう見えるのか。先輩の事を一つ知る事ができた。ある意味、三神さんに感謝だ。
「急ごう。じき雨が降る。」
先輩と駐輪場から自転車を出し並走する。
しばらく走らせると先輩と絵麻が言った通り雨が顔に当たり始めた。まぁ…いいかと軽い気持ちでいるとだんだん激しく降り、やがて土砂降りになる。頑張ったところで濡れるのは避けられない。諦めると雨に濡れるのも悪くないと思う。
「たまには濡れるのもいいですね。」
「のんきなこと言って…。雨宿りしよう。うちに寄っていけ。」
先輩はスピードをあげる。思いがけない言葉にびっくりする。
「私、バカなので雨に濡れても大丈夫ですよ?」
「…透けている。」
先輩の指摘で、制服を見ると白いブラウスが肌に張り付いて下着の色まで見えそうだ。
「い、いいですよ。夜だから…見えないし。」
先輩はハンドルを持つ私の腕をひっぱる。
「そんな問題じゃないだろ!」
先輩に引きずられるように連れていかれた。
先輩の家はプレハブの戸建てだった。横に広いうちとは違い、横幅よりも縦に長い。白を基調として、ドアや屋根、窓枠などに紺色を使い、洒落て見える。先輩は隣にあるガレージに自転車を止めた。私もそれにならう。玄関にはセンサーライトがあり、足元を照らしてくれた。先輩に連れだって玄関に入る。スカートの裾から水滴が滴り落ち、玄関に小さな水溜まりを作る。まさかこんな展開になるとは思いもよらず…。シューズボックスの上にある家族写真に目が止まる。両親と先輩、先輩によく似た弟が湖を背景に笑顔で写っている写真だ。きっと仲の良い家族なのだろう。温かさが伝わってくるようだった。先に入った先輩は、頭にタオルをかけ、私にもタオルを渡してくれた。先輩はすぐに私から目を反らす。その反応で自分の身体に目を向けると皮膚の色や下着の色までわかる有り様だ。恥ずかしくて、急いでタオルで上半身を隠す。
「上がって。脱衣所に服を置いとくから。」
先輩は顔を背けたままだ。
「床が濡れるので、帰ります。タオルありがとうございました。」
「床は濡れたら拭けばいいだろ。」
先輩は私越しにドアノブを掴んで出られないようにした。先輩の髪から水滴がいくつも落ちている。自分のことを後回しにして私を気遣ってくれているのがわかる。
「…すみません。じゃあ、お借りします。」
先を歩く先輩の背中を眺めた。広くて大きい背中に抱きついたらどんな気分だろう。そう考える私ははしたない。
「ここで着替えて。なんならシャワー浴びて行くか。」
先輩は真面目に言っているようだ。先輩の親切に対して私の反応が不謹慎だ。それと自分ばかりドキドキして、なんだか悔しい。
「シャワーはいいです。のぞかないでくださいね。」
先輩は壁に手を着く。その行動に心臓が跳ね上がる。
「…なんだ、怖いという感覚はあるんだ。」
「怖いとは思いません…ドキッとはしました。」
先輩は何も言わずドアを閉めて出ていった。早く着替えを済まさなければ先輩はお風呂に入れないだろう。濡れた服を脱ぎ、洗濯機の上に置いてあった柑橘系の香りがするジャージの上下を着る。先輩のものだろう、だいぶ大きい。裾を曲げて脱衣所を出ると、床に落ちていた水滴は綺麗に拭き取られていた。見回しても先輩の姿はなく、奥の部屋のドアから光が漏れている。ドアを開けると、先輩は椅子に座り、タオルを肩にかけTシャツと黒のジャージに着替えを済ませていた。
「すみません。お先しました。床も…ありがとうございます。」
先輩は椅子から立ちあがる。
「何か飲む?コーヒーしかないけど。」
「いいえ。もう帰ります。ありがとうございました。」
さっきも思ったがこの家は生活感がない。必要最低限のものしか置いてない。テーブルにはコンビニで買った袋がおいてあるだけだ。寂しい場所だった。玄関に飾ってある笑顔の写真が異質で、より一層物悲しさを感じる。先輩は女子たちが放っておかないほどいい男なのに、実際はこんなに寂しいところにいる。先輩のことを知りもしないのに…孤独だと感じる。
「泣いているの」
気がつくとその通りだった。
「…先輩は、彼女がいるんですか?」
「いない。」
「誰でもいいから作った方がいいですよ。親しい友人でもなんでもいいから…」
先輩をこんな場所にいさせたくない。私がそばにいてあげたい。
「私、先輩が好きです。」
気がつくと告白していた。一度出た言葉はもう取り戻せない。先輩は驚いて、私を見つめる。
「いつも思うけど、村崎は唐突に言うな。」
「だって、そうなんです。今まで私は理性的で素直だと思っていたけど違った。先輩に関しては感情的で意地っ張りにもなるんです。」
「じゃあ、今の発言は一時的なもの。」
「違います。先輩を…独り占めしたい。」
時が来たら告白するつもりだった。でも、時ってなんだ。いつのことだ。この気持ちは変わらない。私は先輩を見つめ返した。雨の音だけが聞こえる室内に、先輩がフッと笑う。
「いいよ。連絡先を教えて。」
OKってこと?先輩はスマホを取り出し綺麗な指で操作している。その様子を眺める。本当にOKだったのか。まるで夢のようで信じられない。
「もう帰らないと家族が心配する?」
「あっ!はい!そうですね。帰ります。」
「送る」と言い張る先輩を制して玄関へ行く。
「うちから先輩の家は近いんでここでいいです。借りた服は返しますね。おやすみなさい。」
「やっぱり、送るよ。」
私たちは玄関を出て、自転車に乗り走り出した。雨は小降りになっている。先輩に告白したのだと思うと恥ずかしくなる。でも先輩は受け入れてくれたと思っていいのだろう。そのことが嬉しくて、心がふあふあする。変なテンションで踊り出したいくらいだ。黒いジャージは雨に濡れても透けない。先輩はきっとそれを考慮してくれたのだろう。私は弾む気持ちをかみしめる。
三神さんたちとは廊下ですれ違っても恐くない。時々嫌味を言われることはあるけれど、嫌がらせはなくなった。何もかもがいい感じに回っていると思う。こんな日がずっと続いていけばいい。
灰色の雲から光が射し、今日は久しぶりの梅雨晴れの日だ。先輩にどんな顔で会えばいいかわからない。頬をたたき、気を引き締める。自主練習には、私の方が早く着いた。先輩との自主練習ではシュート練習の他に動きを取り入れたシュートの練習もしている。私はまずウォームアップから始めた。バスケを始めてから体が引き締まったし、スポーツをする体になってきたと思う。そして、自分の生活にオンとオフが存在するようになった。一日にメリハリがある。自分自身と日常が変化した。今はオンの状態だ。ドリブルからレイアップシュートする。このシュートは基本中の基本のシュートでゴールの確率が高い。だが、試合形式になった途端、気持ちが焦りゴールを決められない。毎日練習をして体に覚え込ませているのに、焦りや自分の心のありようで、ゴールの確率が上がったり下がったりする。精神面も鍛えた方がいいかもしれない。最近そんなことを考える。今度はドリブルからスリーポイントシュートをする。外れる。一つ動作を加えただけでゴールが難しくなる。なんで?外れたボールを拾いに行くと先輩がボールを拾った。
「おはようございます!」
先輩はTシャツを着ながら「おはよう。」と返しボールを渡してくれる。バスケは体育館でするスポーツだから先輩の裸体は白い。だが、しっかりした筋肉がついて、無駄な肉はない。…しっかり見てしまった。サッと顔に血が昇る。早く、赤面なおって!そう願うと逆に赤面が止まらない!
「どうかした?」
先輩は私の顔が赤いことに気づいて不思議そうに尋ねる。
「いや…別に…」
悟られたくなくて、一、二、三…と床の木目を数えだす。
「ああ…照れているの?」
「違います!」
反射的に言い返すと、先輩はあの意地悪な微笑みで
「なんだ。実は男の体に興味あるんだ。」
私は「ない!ない!」と高速で手を降った。先輩のあの微笑みが止まらない。茶化してくる先輩の態度が悔しくて、黙らせたくなる。
「…お返しに私のも見せましようか。」
私は開き直り、Tシャツの裾をたくしあげようとする。先輩が慌てて制した。
「村崎は…意地っ張りだ。」
私は先輩の反応に満足した。
「さぁ、自主練習しましよう。」
先輩はウォームアップを開始した。その後二人でシュート練習とオフェンスとディフェンスを交互に行い、ワンオンワンをする。もうすぐ梅雨明けだ。体育館の窓を開け放していても蒸し暑さはかわりない。おまけに運動した後だからなおさらだ。体育館の壁に体をもたれて座り、タオルで汗を拭く。先輩も私の隣に同じように座り、Tシャツの裾をパタパタとさせ体に風を送っている。ペットボトルの水を飲むと、先輩が手を伸ばす。「?」私はペットボトルを先輩に差し出すと先輩は口をつけた。うわぁ!顔が赤くなるのが自分でもわかる。どうしていいかわからずまた床の木目を数える。
「賭けに勝ったら言うこときくっていう話だけど、それを使う。来週の土曜日うちに来て。」
「…はい。」
先輩の顔を直視することはできない。きっと笑っているだろう。先輩の動作一つ一つに一喜一憂していては身がもたない。私だけこんななのに先輩はズルイ。
「あのう…私は、先輩とつきあえているんですか?」
「…はぁ?」
「だって、『いいよ』とは言われたけど『好き』って言われてない。」
先輩は天を仰ぐ。そして、片方の唇をあげて笑う。
「じゃあ、好きって言わせてみろ。」
「勝負ですか。でも、言わせてみせます。」
「楽しみにしているよ。」
先輩は余裕の表情だ。それが憎らしい。具体的に考えてもどうすればいいかわからない。だけど、言わせてみせる。いつか、必ず言わせてみせる。そう胸に誓った。
梅雨が明けると容赦ない日光が肌をじりじり焦がす。暑い夏がやって来た。先輩を好きになって一日が充実している。以前、絵麻が言っていた通り先輩のことを考えると頑張れるというのがわかる。先輩との関係を彩花と絵麻にきちんと報告しようと思う。彩花は最近気になる人がいると言っていたから、先輩との関係を打ち明けても、大丈夫だと思う。絵麻は、先輩の事をあきらめるといっていたけどどうだろう。三年も想っていた人をそんなに簡単には諦められるだろうか?私なら諦められない…。絵麻のことを考えると言いづらく、気が重い。憂鬱なのは、生理中も関係しているからかもしれないが。でも、報告するなら早くした方がいい。二人にはちゃんと誠意を持って対応したい。
中庭の隅で彩花と二人でお弁当を広げて絵麻を待つ。絵麻は、急いで来たらしく「お弁当を忘れた」と言いもう一度教室へ戻った。絵麻が戻ると三人そろう。二人がバスケ部を辞めて以来だから本当に久しぶりだ。
「久しぶりだね。」
彩花と絵麻は、キャッキャッと抱き合って喜んでいる。
「彩花は充実しているみたいだね。」
うらやましいと絵麻は言う。
「充実しているよ。実は二人に報告することがあるの。あたしは二つ上の前田先輩とつきあうことになったの!」
彩花は体をくねらせる。絵麻は微笑む。
「彩花ならすぐ彼氏ができるって思っていたわ。でも、思ったより早かったね。おめでとう。」
絵麻は拍手して祝う。「ありがとう。」彩花は嬉しそうに前田先輩とのなれそめを語り始めた。話が一段落すると、「そう言えば、話って何?」彩花が私の方を見る。背筋が自然と伸びる。
「大津先輩といい感じになってきたよ。」
彩花は「ええっ!!」と大きな声を出した。絵麻は彩花とは対照的で、静かに頷いている。二人の反応が怖かったが、「おめでとう。」と祝ってくれた。彩花は「なんだか光に負けた気分。でもよく頑張った。」と拍手をくれる。「本当はね、知っていたんだ。大津先輩が光の事を見てること。でもね、悔しくて、その事を言えなかった。ごめんね。」
絵麻の瞳が潤む。絵麻は自分を責めていたのだろう。絵麻の背中に手を回して抱き締める。
「いいんだよ。ありがとう。いつも助けてくれて。」
絵麻も私の背中に手を回す。
「助けられているのはうちの方だよ。」
私たちは微笑み合った。
「光に嫌がらせをしていたのあたしだと二人とも思っていたんじゃない?」
彩花は冗談めかしに言う。私は笑った。
「まさか、それはないよ。彩花はそんなことする子じゃないって知っているよ。」
「でもさ、三神さんたちの嫌がらせが始まらないか心配だよね。その時はあたしたちに相談してよ。やっつけてやるから!」
彩花は、卵焼きを忌々しそうに箸で突き刺した。
「うちは、あの嫌がらせをしたのは彩花かもと思ったよ。」
絵麻がからかうと彩花がすねる。
「冗談だよ。それに、光には大津先輩がいるから大丈夫。ああ、うちを守ってくれる人が欲しい。」
「黒岩君がいるじゃん。」
絵麻は私のウィンナーを横から奪い反撃する。
「黒岩君は守ってくれる人じゃない。貧乏神だよ。」
三人で笑い合う。二人が祝福してくれたのが嬉しかった。打ち明けてよかった。おばあちゃんの言うとおり誠意を持って接すれば、わかってもられるのだ。こうゆう日が永遠に続けばいい。これから夏が来る。夏が楽しみだ。
土曜日の午前はバスケで潰れた。男子は午後から練習があるから先輩とは夕方に会うことになっている。大津家へ向かい、チャイムを鳴らす。しばらくすると髪を拭きながら先輩がドアを開けた。シャワーを浴びたのだろう柑橘類の香りが漂う。先輩のきめ細やかな肌を思いだし赤面する。
「入って」
「…おじゃまします。」
「俺の部屋に行こう」
先輩の発言に驚き戸惑うが、うなずく。先輩の後に続いて階段を上がる。先輩の広い背中を見てドキドキする。いいムードになったらどうしよう。頭を振る。一体私は何を考えているのか。妄想はやめよう。二階を上がると部屋が三つあり、先輩は真ん中の部屋のドアを開けた。先輩の部屋は青とグレーで統一されている。ベッドとクローゼット、テレビと机の家具があり私の部屋とは違いモダンだ。先輩はエアコンをつけた。一歩中に入ると先輩の神聖な場所に迎え入れられた気がする。机には理数系の参考書が並ぶ。その中の一冊に目が止まった。『医学部受験マニュアル』という本だ。先輩は医者になりたいのか…。男子の部屋を訪ねたのは初めてで、どこに座っていいかわからず、考えた末ベッドに腰かけた。この行動は正解なのか、わからない。先輩は私の隣に座った。
「先輩は…この部屋で過ごすことが多いんですか?」
「まぁ、そうかな」
私は思いきって聞いてみる。
「先輩のご家族は?」
「父は単身赴任中。…年の離れた弟は病気で今東京の病院に入院しているよ。母は、その付き添いだ。」
「病気って重いんですか?」
先輩は天井を見上げた。厳しい顔つきになる。
「冬夜は…弟は、心臓の病気だ。心臓移植しか助かる道はない。」
「そっか。…早く元気になってくれるといいですね。」
こんな事しか言えない。この世で私は不幸かもと思っていた時期があった。父と母が亡くなった時だ。今は両親がいない生活にも慣れ毎日おいしいご飯を食べ、友達や先輩と過ごせる。幸せだと思う。先輩の弟は命の危険にさらされている。先輩の弟にも、早く平安な日々が来ればいいと願う。先輩は息を吐き表情を和らげる。
「村崎は兄弟いる?」
「私は一人っ子。おばあちゃんと二人で暮らしている。」
「両親は?」
「父と母は、私が小学四年生の時に、交通事故で亡くなりました。」
思い出して時々寂しくなることはあるが、きっとあの世でも二人一緒なら幸せに暮らしているだろう。それにわかったことがある。
「先輩を好きになって、私は父と母に似ているって知りました。恋をしたら、脇目もふらず一直線に突き進むんです。」
私は立派に父と母の血を受け継いでいる。
先輩はためらいがちに私の手を握る。私もそっと握り返す。
「さっき、机の上の参考書が気になったんですけど、先輩はお医者さんになりたいんですか?」
先輩は繋いだ手に力を入れた。きっと肯定したのだろう。
「村崎はなんになりたい?」
考えたこともなかった。そのうち見つかるだろうとのんきに考えて、未だ見つからない。先輩が片方の唇をあげる。
「バスケット選手?」
「なれませんよ!まだなりたいものがわからなです。」
先輩は微笑む。目元が優しくて、温かい気持ちになる。
「教師になればいい。村崎みたいな教師に会ってみたい。」
教師。教師の自分の姿を想像できない。でも先輩にそう言われて悪い気はしない。
「先輩みたいな悪い子を教育しないとね。でも、最初に先輩の家に来た時、私、先輩は寂しいのかもと勘違いしていた。寂しかったのはむしろ私の方です。」
「寂しいのか?…だったらいつでも来い。」
先輩の優しさに触れて、思わず抱きついてしまった。先輩は私の行動に驚いた反応をしたが、静かに私の背中に腕を回す。先輩の体は思っていた以上に硬く広い。そんなことばかり考える私は変態かもしれない。照れ隠しに先輩を押し倒して馬乗りになり、先輩の頭を挟むように両手をついた。先輩は目を見開く。
「だ・か・ら、浮気はしないでね。」
三神さんや先輩を取り囲む女子は魅力的な子ばかりだ。私はその子達に戦いを挑んだけど、勝ったとは思えない。先輩を見下ろすと、今度は先輩が私を押し倒した。驚いて先輩を見る。
「なんなのお前は。恋愛初心者みないな言動なのに、やることは大胆で、…もしかして誘っている?」
「誘っている!」
そんな風に見えたのか。私が戸惑っていると、先輩が例の意地な笑い方をする。
「しばらくは手を出さないつもりだったけど止めた。そっちが悪いんだからな。」
先輩は私の頭の横に片手をつき、指で私の唇に触れる。抵抗しない私に、先輩はキスした。初めてのキスは、柔らかくて、甘い。自分でも不思議なくらい興奮する。唇を離した先輩に、ねだるように首に両手を回した。先輩は小さく笑う。
「お前は以外にエロい。」
私がエロい?…そうかもしれない。恋愛なんて興味なかったのに。私は父と母に似ていないと思っていたのに。実際はどうだ。先輩を好きになった途端、先輩しか見えない。先輩はまたキスをする。今度は、舌を使って私に侵入した。
「んん…」
甘い声が漏れる。自分の声に反応して体が高ぶる。キスしながら先輩は片手で私のブラウスのボタンを外していった。私の唇から首へ唇を這わせていく。そして更に下へ。
「先輩…待って…」
「待てない。」
私は先輩の体を押す。
「…私、今、生理なの…」
「誘っておいて。」
先輩は私から体を離した。
「ごめんね」
「許さない。」
先輩にキスする。
「今度…エッチしよ」
先輩は顔をしかめ
「あのね…キスは逆効果だよ!」
先輩はベッドに腰かけた。私は服装を整え先輩の隣に座り直す。
「先輩、もう一度キスして」
「お前はもう…」
先輩はあきれながら、キスしてくれた。
「私のこと好き?」
「す…やっぱ言わない。」
先輩が私の背中に手を回す。幸せな時間は永遠には続かない。いつか終わりが来るのだ…これが先輩を見た最後の日になるなんて、その時の私は思わなかった。
一学期の期末試験が始まる。期末試験期間中は部活が休みだ。インターハイの開催も一ヵ月を切る。午前中試験を受け、家に帰える。そして、机に向かう。小休止をとりスマホの画面を見ると絵麻から着信が三回とラインが入っている。スマホをサイレントにしていたので着信があったことに気づかなかった。急用でもあったのだろうかと小首をかしげながら、ラインを開く。
大津先輩が事故に遭った。
床にスマホを落としてしまう。
センパイガジコニアッタ
震える手でスマホを拾い、先輩に電話をかける。
『お客様のお掛けになった電話番号は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません。』
機械音が響く。震える体を抱きしめる。なんで?ウソでしょ?お父さんとお母さんを私から奪ったように、また事故で先輩を奪われるの?苦しい…呼吸がしづらい…呼吸ってどうするんだった?冷静にならなければ。私は混乱する気持ちを沈めるために、深呼吸をする。スマホをお守りのように握りしめ、震える指先で絵麻に電話した。数回のコールで絵麻が出た。
「先輩が事故に遭ったって…容態は?」
「うちも二年生のマネージャーに聞いたから、詳しいことはわからない。話がわかり次第連絡するから、落ち着いて。」
「先輩のことがわかったら、いつでもいいから電話して。」
もしかしたら先輩から連絡があるかもしれないと思い早々に電話を切る。こんな時、スマホがないと私は、先輩と連絡がとれない。頼りになるのはスマホだけという不確かな繋がりにもどかしさと悲しさを感じる。先輩がいなくなったら、どうしよう。そう思うと不安が募る。どうしたらいいかわからない。
「どうしたの?昼ご飯にも下りてこないで」顔をあげるとおばあちゃんが立っていた。
「おばあちゃん…」
感情がセーブできず、私はおばあちゃんにしがみついた。お父さんとお母さんが死んだ時も、幼かったとは言え、こんなに気が動転したことはない。
「…また大切な人を失うかもしれない…」
おばあちゃんは私の背中を優しく撫でる。
「…よく事情はわからないけど、お前は幼い頃とは違う。最悪なことを考えて嘆いてばかりいても仕方がないよ。もう自分で自分の道を切り開く年になったんだから後悔しないように、今できることをしなさい。」
おばあちゃんは私の頭を撫でる。おばあちゃんの言う通りかもしれない。事故に遭ったのは確かだが、怪我はたいしたことないかもしれない。詳しい情報もないのに最悪なことを考えて嘆いてばかりいてもダメだ。まず、詳しい情報を得なければ。
「ありがとう。私ちょっと出かけてくるね。」
おばあちゃんから離れると、制服に着替え玄関に向う。絵麻からの連絡を待つより自分から行動しよう。私は自転車に飛び乗った。
先輩の家のインターホンを押してもやっぱり先輩は出てこなかった。仕方なく学校へ向かう。学校の駐輪場に自転車を止め、職員室に走る。職員室は教室とは別棟にあり、渡り廊下を渡り、売店を右に折れ、階段を上がると、職員室だ。職員室の引き戸を開け中に入る。「試験中だぞ!」と非難の声があがる。
「村崎!どうした?」
武藤先生が目を丸くして椅子から立ち上がり、入口まで来た。膝に手を置き、肩で息をする。「お前らしくもない…どうした?」
私は息も絶え絶え聞く。
「先生…大津夏生先輩は、どうなったんですか。」
武藤先生が息を飲む。嫌な予感がした。武藤先生の腕を掴む。教えてくれるまで離すもんか。躊躇していた武藤先生も私のただならぬ様子に
「大津はな、…病院に向かっている途中で…自動車にはねられた。…意識がないそうだ。」
イシキガナイ
その言葉が頭の中をこだます。先輩…先輩!先輩!先輩の笑顔や二人で過ごした時間、あの幸せな時が次々と思い浮かぶ。冷静にならなければ!と思うのに冷静になれない。
「村崎。大丈夫か?…村崎!…村崎…!」
私の意識はそこで途切れた。
等間隔で設置された電灯に羽虫が集まる。夜の海は一面真っ黒で小波が揺れる。波はまるで海が呼吸しているようにひいては満ちを繰り返す。海に近づき、対岸を見ると背の高い人がいるのがわかる。切れ長の目が印象的な大津先輩!先輩の口が動くが何を言っているかわからない。「先輩!」そう叫んでも先輩は私が見えないようだ。そして、先輩の体は闇と同化して消えた。
「先輩!」
上半身を起こすと、辺りは薄暗い。ここは私の部屋だ。ほっとする。今までイヤな夢を見ていた。私の布団の横には、布団が敷かれおばあちゃんが寝ている。なぜ、おばあちゃんが隣で寝ているの?思い出そうとするとそれを阻止するように頭痛がする。私はまた横になった。どのくらい経っただろう…頭痛がおさまりスマホを探す。おばあちゃんを起こさないように、スマホを探すが見つからない。
「起きたの…。」
おばあちゃんが私を抱きしめる。
「…光、辛いだろうが…」
おばあちゃんの言葉が続かない。その様子で、目の前が暗くなる。じわじわと心が闇に支配されていく。おばあちゃんが抱きしめる腕に力を込めた。
「光は昨日…職員室で倒れたんだよ。」
「先輩は…先輩はどうなったの?」
「…」
「…詳しいことはよくわからない。頼むから、今は体を休めて。」
おばあちゃんは、「お願いします」と私に頭を下げた。おばあちゃんにそんなことをしてほしくない。
「…スマホは?」
先輩のことがわからないから不安が増大する。「落ち着くまで渡せないよ。」
「おばあちゃん!お願い!おばあちゃんは私の味方でしょ?」
おばあちゃんは考えた末ため息を着いた。
「わかった、昼には必ず渡すから。それまで体を休めて。」
本当は待てない。でも…おばあちゃんには恩がある。それに私のたった一人の家族だ。これ以上迷惑はかけたくない。
「わかった。」
私はそう答えるしかなかった。
おばあちゃんの頼みで今日は学校を休んだ。本当は学校に行きたかったが試験など受けていられないほど気持ちが落ち着かない。先輩は無事なのだろうか。先輩に、もしものことがあったらどうしよう。悪い考えが現実になりそうで怖いから、必死にいいことを考えようとするが長くは続かなかった。先輩の家の前で待つことも考えたが、ただやみくもに行動しても仕方がない。まずはスマホを返してもらい行動に移す方がいいだろう。今は大人しくおばあちゃんの言うことに従おう。まずはスマホを取り返してからだ。心と体が休まらないまま午前中を過ごした。
約束の正午になる。すぐさまおばあちゃんにスマホを要求した。おばあちゃんは戸惑っていたが仕方なく、私の差し出す掌にスマホを置く。
「無理はしないで。」
心配そうに私を見つめている。
「ありがとう。でも、後悔したくないから、ごめん。」
おばあちゃんは、私の背中をポンッとたたいた。私は頷きスマホの画面を見る。ラインが二件入っている。絵麻と彩花からだ。開くと、『大丈夫?』の一言だった。彩花も同じような内容だ。先輩の事を知っていそうな絵麻に電話を掛けた。数回のコールで絵麻が出た。「絵麻、電話してごめん。先輩のこと何かわかった?」
沈黙が落ちる。嫌な予感がした…。最悪を考えてめまいがする。やっぱり聞きたくない。
「・・・光、先輩は・・・・・・」
やっぱりいい!聞きたくない!
「・・・亡くなったの・・・・・・」
・・・・ナクナッタ・・・・
言葉の意味がわからない。理解できない。膝から崩れ落ちた。おばあちゃんが私の手を引き立たせる。そして、私を支えてキッチンまで連れて行った。キッチンにある椅子に腰掛ける。心臓をえぐられたような痛みに呼吸ができない。痛い。痛い。えぐられた心臓を押さても痛みはひくことはない。おばあちゃんが私の背中を擦ってくれる。先輩にもう二度と会えない。先輩の意地悪な笑い方、ゴールを狙う時の真剣な顔、白鳥の像の前に佇む姿、その全てが失われてしまった。悲しくて、恋しくて、悔しくて。先輩のない世界に私は生きたくない。涙が止めどなく流れ落ちる。もう会えない。もう二度と会えない。
校庭には、あの頃に見た桜と同じように可愛らしい蕾が咲く時を待っている。春の温かな光が桜の枝の隙間から射している。時折吹く強い風に体を持っていかれそうになりながら、一ヶ谷高校の校庭を通る。大人になったとクスリと笑った。あの苦い思い出から六年が経つ。先輩と会わなければ、好きならなければよかったと何度も思った。先輩に会わなければ、私は恋愛を知らず、平穏に暮らせた。自分の嫌な部分もみなくてすんだし、自分を知らなくてすんだのにとも。当時の私は先輩を失って生きる気力を失った。でも、友達の支えで今日まで生きて来れた。これからも先輩のいない未来を一人で歩かないと行けない。悲しいけどそれが現実だ。よりよく生きるには先輩を忘れる事だし、時間が解決してくれるとわかっている。でも、雨の日は先輩を思い出してしまう。…今日が晴れで良かった。
四月から一ヶ谷高校の教師として赴任することになった。私が教師になったきっかけは先輩が教師になればといったからだ。結局私は先輩との思い出に縛られている。
赴任前に挨拶も兼ねて一ヶ谷高校に来た。校庭の裏手にある教員専用の玄関から入り、黒いパンプスを脱ぎ揃えて隅に置く。スリッパを出し履いた。事務室の向かいにある階段を上ると、すぐ目の前に職員室だ。左側は校長室になっている。壁はガラス張りの戸棚になっていて男子バスケのトロフィーが無数に飾られているが、艶やかな光沢のある金色のトロフィーはみあたらない。最近のものはないようだ。まず校長先生に挨拶をした後、隣にある職員室へ向かう。学年によってそれぞれ職員室があるが、校長室の隣にあるこの職員室は二年生を担当する職員室だ。「失礼します。」と引き戸を開ける。狭い空間に机がひしめき合っている。机にも個性が現れるのか、整理整頓されている机もあれば、乱雑に物が散乱している机もあり、高層ビルのようにうず高く本やフリントを積み上げている机もある。生徒が学ぶ教室の方が整理されているかもしれない。私は床を這うコードに気を付けながら、入り口の近くにある席に座ってパソコンを打っている女性の先生に話をかけた。
「お仕事中にすみません。私はこの学校の卒業生で、四月からこちらに赴任します村崎と言います。武藤先生に用があってきました。」
女性は立ち上がり、「よろしく」と言った。私もお辞儀をする。女性が「武藤先生!教え子が来ましたよ。」と呼び掛ける。視線を向けると、武藤先生がパソコンから目をはずしてこちらを向いた。私は足元に気を付けながら武藤先生のところへ行く。武藤先生はじっと私を見つめ、見覚えがあるのに、瞬時に名前が出てこないようで、「知っている。わかるけど…ごめん。誰だったかな?」と言った。先生の目尻と口の横のシワが深くなっていることで、四年という、短いようで長い歳月を感じる。
「ご無沙汰しております。私は四年前にこの学校を卒業した村崎です。先生にはお世話になりました。」
「おおっ!村崎か!元気していたか?お前は卒業して以来、薄情にも全く顔出さないからな。まぁ座れ。」
武藤先生は自分の隣にある椅子を引き寄せた。勧められるままに腰かける。
「先生。私、四月からこの学校で現代文を教えることになりました。今日は挨拶を兼ねて先生にご挨拶をしに来ました。」
武藤先生はよほど驚いたのか飛び上がった。
「まさか、教え子と同じ教壇に立つとはな。もう、偉そうにできないじゃないか。」
先生は嬉しそうに笑った。私もその笑顔を見て嬉しくなる。
「はい。先生には当時からご迷惑をかけていましたから。これからもたくさん迷惑をかけると思いますが、教え子ですから許してください。」
それを皮切りに当時の話に花が咲いた。ひとしきり武藤先生と笑い合った後、先生の顔は、微笑みに変わった。
「…よかったよ。村崎が自分を取り戻してくれて。お前は…苦しんだもんな…。」
先生は、あの事をいっているのだろう。
「そうですね…。」
「今なら…大丈夫だろう。」
真剣な顔つきになった武藤先生に、居ずまいをただす。
「…大津の弟がこの学校にいるよ。今年、二年になる。」
息を飲む。私は自分と先輩の弟を重ねたことがある。そうして、悲しさに耐えた。
「バスケ部に入っているよ。兄と一緒で練習熱心でね。自主練習も積極的に取り入れているよ。」
先生は湯飲みに手を伸ばし一口飲んだ。
「当時は言えなかったが、村崎もここの先生になる訳だし知っておいていいだろう。」
武藤先生は、そう呟き、覚悟を決めたように私を見る。
「村崎。大津はな、事故で脳にダメージがあったのは知っているな。でも、脳以外の損傷はなくて。それで…弟に大津の心臓を移植した。大津は形が変わってしまったが今も弟の中で生きている。」
センパイハイキテイル
「村崎。村崎!大丈夫か!?」
気づくと、武藤先生が私の両肩に手を置き、揺さぶっている。生きている。先輩は弟の中で生きている!嬉しい動揺の波が私を襲う。先輩の死は無駄ではなかった。先輩は生きている。弟に会いたい。会ってみたい。もう一度先輩の一部でもいいから会いたかった。
武藤先生に挨拶をして職員用玄関を出た。校舎側に回ると白鳥の像が見える。白鳥は春の光を受けて、つるりとした表面を輝かせている。変わりなくここにあることに安堵した。
私はまたこの場所に戻ってきた。そう思うとこの羽を広げた白鳥が当時は飛び立とうとしているように見えたのに今は帰ってきた所のように思う。そう思うと愛しくて白鳥に触れようと手を伸ばした。強い風が吹く。アッ!体がよろめき倒れそうになるのを手で支えられる。振り向くと、背の高い男子生徒がいた。切れ長の黒々と光る目は綺麗で、先輩の目にそっくりだ。まるで先輩が甦ってきたみたいだ。
「…先輩…」
「…」
男子生徒は不思議そうに小首をかしげた。
「…ありがとう」
「いいえ。あの、この白鳥に興味があるんですか。」
男子生徒が指差す白鳥の台座には、真新しい金色のプレートがはめ込まれている。『邂逅』と記されていた。気がつくと涙が頬を伝っている。改めて白鳥に目を向けた。私たちの周りを温かい風が包み込む。
―邂逅―
確かに名が一番相応しいと思う。