ゲームから現実へ
目が覚めた。
というよりは、意識の覚醒とともに見えていた天井が木目調のものから無機質なものになった。
それが現実に帰ってきたんだという合図で、いま私はゲームの世界ではなく現実にいるんだということをぼんやり考えていた。
「うん……私だ」
部屋にある鏡を覗けば、黒髪黒眼の少女の姿はそこに映らない。
毎日十何年と見続けていた私がそこにいた。
「…………ぅ」
瞬間部屋を飛び出し、トイレへと駆け込み――
「ぅぇ……ぇえええぇ……」
吐いた。
気持ち悪い。
気分が悪い。
嫌いじゃないが嫌なのだ。
あの髪も、あの眼も、いい思い出なんてほとんどない。
分別がついてきたからこそ最近は表沙汰にならないけれど、それでも常に人の視線を感じるのだ。
――しろいかみなんてへんなの
――あおいめなんておかしい
日本という国において、髪は黒く瞳は黒い。
それが普通。
幼いながらにそう刷り込まれてきた周囲の同年代にとって、日本人の血が四分の一しか入っていない私の見た目は格好の的ともいうべきものだった。
少数というものは大多数によって潰される。
特に無邪気な幼年期に周囲とそして自らと違う異分子が混じっていれば、それは争いの火種になるのは当然で。
「おぇ、げぇ……」
そして周囲と違うということが悪いとされていた私にとって自分の姿は嫌悪の対象になっていった。
一度は両親を、祖父母を恨んだこともあった。ただそれはただの逆恨みであるということはすぐにわかった。
やりきれない気持ちの発散は、その頃から始めていた射撃などで誤魔化して蓋をすることを覚えた。
自分というものから目を逸らすことを覚えて、心の安寧を保とうとした。
――どうしておとこのこなのにおんなのこのかっこうしてるの?
――せんせーおんなのこのといれにはいってるへんたいがいまーす!
無邪気は容赦なく他者を傷つける。
悪意なき善意こそが最も鋭い刃となる。
抉れた自己は歪んだ。
消えない傷がそこには残った。
髪と眼は大好きな両親から受け継いだものだ。加齢と共にこれが自分の見た目であると受け入れることはできた。
だけど……
自己を否定されるということだけは変わらず。
自己を肯定することは他者にとっての否定であった。
偽ることでしか許容はされず。
声高々に宣言はできず。
親にも否定されたとき何かが壊れてしまうという恐怖で今日に至った。
「はぁ……はぁ……んぐ……」
まだこみ上げてこようとするソレを全力で呑み込む。
焼ける。
それが物理的なものなのか。
はたまた私の心が擦り切れるものなのか。
どっちもか。
イガイガする口を濯ぎ、涙を押し流すように顔を洗った。
時刻は6時過ぎて半。普段からすればちょっと遅い起床ぐらいなものだ。
スッキリとまでは言わないけれど少しは楽になったのを自覚すれば空腹を覚えたので皆の分の朝食を作ったら胃に流し込んだ。
その後は運動しやすい服装に着替え、外に出る。
なんとなく、体を動かしたい気分だった。
モートルに乗ってやってきたのは下東京運動競技場と呼ばれる場所。天岩戸において唯一の運動場であり、あらゆる種目競技やマイナーなスポーツでも十全に行えることを目的とされており、場所を問わない運動を除けばあらゆる天岩戸中の人々が利用する施設だった。
ちなみに年中無休。職員はAIなので人的資源はほとんど割かれてない。怪我をしたかどうかはカメラで常時監視されてるのでね。
「さて……と」
軽く体を動かして暖気。消化に良いものを食べたとはいえ食事からまだ1時間と経っていない。激しい運動したいというよりは体を動かし続けていたという衝動のほうが強いので、息が上がらないぐらいの調子で走り続けた。
途中途中で休憩を挟みつつAIに促されるままに水分補給。注意勧告を無視すれば強制的に止められるので逆らわない。一回だけ麻酔弾で強制中断させられた人を見てからはその気も失せるというものだ。
しかしこうして体を動かしてみればわかる。この体では、あのゲームの中のような普通じゃない動きは不可能だ。なんとなくだけど、理解できる。補助も無しに自分の身長以上の跳躍なんて出来はしない。
「最初は初級からでいいか」
食休みも終わったところで初心者用アスレチックの入り口に立つ。まずはカンを取り戻すことにする。
基本中の基本である着地を重視したのが初級のアスレチックである。最初数十センチの高さから、そして段々と高度を上げていきラストが3メートル。これを無理なく行えるだけの着地技術を身につけることができれば初級は卒業になる。
膝を伸ばしての着地は厳禁。衝撃で膝を痛めるので。高いところから飛び降りるということはそれだけ強い衝撃になる、ここで大事なのはその衝撃を綺麗に吸収して逃がすということ。下手な姿勢でやれば腰や膝足首を痛める結果になる。最初は階段ぐらいの段差でもいいから感覚を掴むのが大事だ。
「ふっ……!」
爪先、踵、膝、腰、腕、手。衝撃を循環させて着地からすぐに走り出す。
さすがに体に染み付かせるほど反復練習した着地動作だ、錆びついてない。
最後の3メートルからの着地は通常の着地ではなくPKロール……いわゆる五点着地をしたことで私の中の錆落としは終わった。
「次は――」
「あれノアじゃん、オマエも来てたのか。久しぶりだな!」
中級のアスレチックでもしようかなと思っていたところで、背後から私の名が呼ばれた。
「ん? ああ、葱士郎。おはよう」
田上葱士郎。同じスポーツをしている仲間ということで知り合った青年がそこにはいた。
「おうおはようさん。それにしても珍しいな、こんな朝早くからアスレに来るなんて」
「なんとなく体を動かしたい気分だったから」
「そうか、一時期は毎日のように体動かしていたもんな。高等部に上がってからか、間隔は空いたけど、続いてくれてるみたいで嬉しいよ」
「あはは……」
ただの気晴らしにって気分だけど、わざわざ彼に伝える必要はない。
それにここで体を動かしてみて思ったことだけど、ゲームの中であんなに普通じゃない動きをしていたのに意識がそちらに引っ張られてないってこともわかった。どういうわけか、あっちで出来たという経験は現実での体にフィードバックされていないということ。これは日常生活に支障が出る可能性があったから、無くて良かったものだけど。ただその逆はどうなんだろう? 今日にでも試してみようか。
ちょっと逸れたけど、葱士郎は私と同い年だ。ただ通っている学部は違う。彼は農業セクターの出身なのでそのまま農業学部に所属している。部活は無所属らしく、きままに趣味に没頭したいからと暇さえあればこの運動場に来ている。……というのが私の把握している情報。
「そいやノア、【Saga Frontier】って知ってるか?」
おっと、まさかその名前が彼の口から発せられるとは。
まぁはぐらかす必要もないし普通に答えていいか。
「うん、知ってる。お父さんが誕生日プレゼントってことで貰ったけど」
「うぉマジか!? え、SNSでしか確認できてないんだけど、本当にゲームの世界にいるのか?」
「いる。触覚もあるし味覚嗅覚もしっかりと。自分の思ったように体は動くし。第2の現実と言い換えても過言じゃないと思うよ」
「ふぉおおお。すっげぇ、やってみてぇなぁ!」
「だったら買えば良いんじゃ?」
「あー、ノアは親父さんから貰ったから知らねぇのか。【Saga Frontier】は一言でいうと高い」
「え」
「具体的には――ごにょにょ」
「じゅ!? はぁ!? 確かに技術としては凄いものだけど、あれそんなにするの!? この天岩戸で!?」
「マジもマジ。くっっっそ程手が出ねぇんだよ、一介の高等部生には。相当な倹約家か成績優秀者ぐらいじゃないのか、気軽に手出せるの? だからノアは相当ラッキーだぜ」
うーん、まさかあのゲームがそんなに希少価値の高いものだったとは……天岩戸だからと軽く考えてたけど、私ら学生にとっての生命線であるポイントをそんなに支払う必要があっただなんて……
「とりあえずお父さんには改めてお礼を言おう」
「そうだな、そうするべきだと思う」
頷く葱士郎を横目に、自分が手に入れた代物の価値を思い知らされるのだった。
自分で考えて書いといて心の均衡を崩して現実逃避するんじゃないよ……
あと文中の技術的な云々ですがここだけのものを真に受けず、ちゃんと調べれば一杯出てきますので。そういう意味じゃ間違った情報だとしてもあしからず。




