<昨日の園>職員より
私の勤め先は、昔でいう<特別養護老人ホーム>です。今は、次の施設が出来たので、<終の棲家>ではなく、一つ手前の<希望の園>ってところでしょうか。
みなさん、お家や、認知症共同住宅から、ここに入所されます。特養はかつて、介護度3-5とかいっても、ほぼ自立の方も居たりして、介護する側も、どこに照準を合わせればいいのかと……一人一人のADLに合わせて、その残存能力を生かす介護とか謳っていても、結局のところ、介護する側の効率重視。すなわち、出来る能力が残っていたとしても、「時間がかかるから、見守っている暇がないから、面倒くさいから、片付けにイラつく」と、手伝うというか、取りあげてしまう。そして、過ぎていく時間に、意欲を失い、動作を忘れさせてしまう。使わなくなった手は拘縮し、掌を爪で傷つけ、腕は、胸を首を、自ら締め付ける。足首は浮腫み、瞳を閉じる……
それが、ここではもう、緩やかな着地まで、いかに穏やかに過ごしていただくか……ただそれだけです。
歩き回る方はもちろん、車椅子自走の方もいません。時々、立ち上がる方はいますが、大声で制止する必要はありません。座面にかかる圧が減れば、ランプが点滅し、見守りは、そっと寄り添い、介助します。
「いっぱい動いてね、いっぱい動いてお腹減ったら、しっかり口開けてよ」
と、願いつつ。
私達は、ただ単に、食事量を記録するのではなく、口開けの良かったメニューや、温度、とろみ具合などを記していきます。少しでも食べて頂けるものを提供出来るように、栄養のバランスなんて二の次、口開けの良いものを優先します。ここがこの方の<つぼ>という、声掛けや、姿勢の整え方、頭の上に冷たい手拭いとか、ルーチンなど、新人でもわかるようにデータ化し、毎月更新。
<口を開けて、食べてもらうこと>それだけが、この施設の使命なのです。
<食事介助に際して、声掛け、軽い刺激をしても開口しない方に対して、無理矢理スプーンを押し入れる行為を虐待とする>
この縛りが出来てから、自然な<死>を受け入れる土壌は出来ました。人間、食べれなくなったら終わり。それで、いい、と。私だって、わかっています。これは、認知症によって、「食べたいのに、食べ方を忘れてしまった」というのではなく、そもそも、身体が食べ物を要求していないのだということを。たとえ、人間としての欲望を失ったとしても、自分の身体を<生かす>為に、食べるだろうと。だとしたら、身体が、「もういらない」と言っているのだと。
けれど、考えてしまうのです。
「ミツ子さんは、甘いものが好きだったよな~この一匙を、無理にでも口に入れれば、きっと、次を欲しがるのではないかしら」
と。
「ほら、甘いよ、と~ても甘いよ」
と、唇に軽くスプーンをあてがい、つい、そんな思いにかられます。後二日、この状況が続けば、さよならしなくてはいけない、だから……
排泄と水分・食事量の関係性をグラフにして、そこにトピックスや面会などを記入していきます。そして、お口の開きが悪くなりだすと、なるべくご家族に食事介助をして頂く機会を設けます。「あ~もうそろそろ」という現実は、体験しなくては理解できません。
<一人で食事が出来なくなった>ということは、見ればわかります。しかし、<口を開けなくなってしまった>ということは、やってみないとわかりません。介護する側の問題では、すでにないのです。身体が、訴えていることを、家族として、しっかりと受け止めるべきです。
私達のこの施設に滞在する期間は、みなさん、あまり長くはありません。ちょっと一休みして、身体を整え、最後のステージへ昇る準備をする、そんな所でしょうか。それでも、マッサージや他動運動で、浮腫みを軽減し、曲がった膝関節を緩め、折らなくてもいいようにと整えていきます。
穏やかな時を提供することで、<死>を受け入れてもらう。それは、残された家族をはじめ、私達介護者にとって、救いとなります。いくらきれいごとを言っても、所詮目の前の方を<見殺し>にしている感は、ぬぐえません。生きていることが、全てにおいて優先されるとは、思っていません。でも、ミッちゃんが、シーちゃんが、このままでは、死んでしまう……
最近、こう思います。
「ほんとに、上手く出来ているな」
と。
一人で食事が出来て、きっと、コミュニケーションも取れていたであろう時の方と、ここに入所する状態の方を、分けていることに。だって、ずっと看ていたとしたらば、きっと、私達だって、<死>を受け入れられないと思うのです。そして、救いは、
苦しむことなく、天に召されることを
<知っていること>です。