その9 春季皇霊祭
永田町
3月20日。その日はこの年の春分の日であった。大日本帝國では春分の日は祭日であり、春季皇霊祭として皇室では宮中祭祀が執り行われる。
何時もなら厳粛な空気の中で実施される祭祀であるが、今日は騒がしかった。
「戦争反対!」
「アジアに平和を!」
永田町から霞ヶ関に至る日本政府の中枢部はデモ隊で溢れ返っていた。
「中華帝国主義に鉄槌を!」
「同盟国を守れ!」
開戦賛成派も反対派も久々に大々的なデモ隊を繰り出し、官庁街は一瞬触発の状態であった。両者の間に警視庁が派遣した警備隊(注1)が割り込んで、衝突を抑えている状況である。
そんな中で特高1課の野木史郎はアイヌ人の部下である栗原幸雄を連れて防弾装甲車である特型警備車の中に陣取っていた。危機的状況を目の前にしているにも関わらず野木は妙に楽しそうであった。
「どうだ。撮れてるか?」
野木は防弾ガラス越しに反戦デモ隊に望遠レンズ付カメラを向けている栗原に尋ねた。
「いやぁ。大量ですよ」
栗原はフィルム一本分を撮りおえると、すぐにフィルムの交換にかかった。
「お互い景気がいいね」
野木の隣に座る男が言った。彼も野木と同じようにカメラマンを連れてきていて、戦争賛成派デモの写真を撮らせていた。彼は右翼専門の特高2課の人間である。左右両派のデモ隊動員に特別高等警察は重要人物の写真採集のチャンスとばかりに多くの偵察員を派遣していた。
すると野木はデモ隊の中に見知った顔を見つけた。
「やっぱ参加してるんだ」
野木が呟くと、それを聞いた栗原が振り向いた。
「どうしました?」
「いや。こっちのことだ」
野木がそう答えると栗原は首をかしげながら写真撮影に戻した。野木は防弾ガラスの向こうに<戦争反対>のプラカードを持って経つ大槻雫の姿を見つめていた。
大韓帝国 新義州上空
日本帝國空軍独立第二九戦隊は偵察機部隊で、天雷戦闘機を偵察機に転用した機体が配備されている。そして今、天雷偵察機が1機、偵察に出撃した。しかし自らが危険地帯を飛ぶ事はない。代わりのものが翼の下に吊るされている。
「<彼方>10号、発射!」
天雷コクピットの後席に座る偵察員が増設されたコンソールを操作すると、主翼のパイロンに備え付けられた物体が切り離された。その形状はまるで小さな飛行機で、巡航ミサイルのようにも見えた。それこそが日本が誇る空中発射式無人偵察機<彼方>である。彼方は天雷から切り離されると小型ジェットエンジンを点火して北方へと飛んでいった。彼方は目標を偵察すると日韓連合軍勢力圏に落下して友軍に回収されることになっている。
ソウル 大日本帝國陸軍朝鮮軍司令部
中国軍の侵攻能力粉砕を目指す乱号作戦、韓国軍では白馬作戦と名づけられたこの作戦の主体となったのは日本軍と韓国軍である。しかし法的には両軍にまたがる指揮系統は存在しなかった。結局は戒厳令の解除で指揮権を失った連合軍司令部がそのまま実質的司令部として機能しつづけたのである。
連合国軍司令部での会合を兼ねた昼食を終えた朝鮮軍司令官の飯田大将と参謀たちは隣接する朝鮮軍司令部に戻ってきた。会議室に向かうと、佐々大佐が待っていた。
「戦況はどうだね?」
飯田が尋ねると佐々は机の上に広げられた写真を指し示した。彼方無人偵察機が撮影した前線の偵察写真である。
「特に変化はありません。ハマタン鎮は依然として膠着状態。中国軍は陣地に隠れ、姿を見せず」
それを聞くと飯田大将は顔を顰めた。
「やはり出てこないか」
十分に擬装された地上部隊を航空偵察で発見するのは不可能に近い。中国軍は正面からの激突を避けて奇襲戦法を使い、日韓連合軍を消耗させるのが狙いなのだ。
「決戦というのは期待できないでしょうな。暫くは。おそらく補給線を集中的に狙われるでしょう」
「そこで君が内地で考案したという戦法か」
佐々は飯田の言葉に対して顔を横に振った。
「私じゃありません。みんなで考えたんですよ」
「まぁ我々も独自であれこれ考えましたが、同じ結論に達しました。空地協同による対遊撃戦。面倒ですが、結局はそれが一番確実ですよ」
朝鮮軍付の参謀が言った。
首相官邸 特別対策室
特別対策室には閣僚たちが集まっていた。開戦後の最初の戦況報告を聞くためである。食堂を転用した特別対策室の一角にはプロジェクターが用意され、閣僚や官僚達はその周りに扇状に並んでいた。説明者は大本営総長となった吉野大将である。
「以上のように空軍は第1段作戦を見事に成功させました。中国軍の東北地方における空軍力はほぼ壊滅しました。空軍は第二段作戦を開始します」
「第二段作戦とは?」
説明を聞いていた宮川が尋ねた。
「敵の指揮系統に対する攻撃です。無線基地、電話中継局、部隊指揮所。そういった場所を重点的に叩きます」
閣僚達がうんうんと頷いている中、兵部大臣が意見を述べた。
「陸軍はどうしている?どれだけ飛行機を叩いたところで敵陸軍を叩かなければ意味がない」
「海軍陸戦隊は大連港を確保しました。集安、延吉方面では渡河後には順調に戦果を拡張しておりますが、丹東では中国軍が兵力を集中しているため膠着状態に陥っております」
それを聞いた大河内内相は呻き声をあげた。
「なんとかならんのかね?」
「なにぶん中国軍は十分に隠蔽された陣地と挺身作戦、遊撃作戦を駆使して我が軍の攻勢を遅滞させることが狙いのようで。このような攻撃に対しては時間をかけて虱潰しにするしか手がないのです。順調に進撃している集安、延吉方面においても同様の困難に時期に直面するでしょう」
吉野の説明に大河内はまだ納得しがたい様子であったが、隣に座る八雲兵部相がそれを宥めた。
「それで戦果や作戦についてはどこまで公表できるかな?」
今度は蛭田外相が尋ねた。
「開戦について我が国の正当性を主張するためにも、できる限りの情報公開を行なう必要があります」
兵部大臣が答えた。
「それについては本省の方でも十分に検討している。軍機に類する情報でない限りは基本的に公開するつもりだ」
「それじゃあ。次の報告を待つとしよう」
八戸 空軍基地
耐爆仕様の掩体壕の中に2機の戦闘機が待機していた。基地中にブザーの音が鳴り響き、隣接する待機室から2人のパイロットが飛び込んできた。パイロットはそれぞれに割り当てられた機体のもとへ分かれ、すぐにコクピットに落ち着いた。そのうち1人は八木桂一少佐であった。
整備員が最低限必要なチェックをするとコクピットのパイロットにGOサインを出した。整備員が退避すると、八木はジェットエンジンのスターターボタンを押した。F-90ターボファンエンジンが起動し、2機の鎮守戦闘機が動き始めた。
2機はエンジンパワーによって自力で地上を走行した。掩体壕から誘導路に、そして滑走路に出る。
「管制塔、こちらガーディアン1。離陸準備よし、許可を求める」
<ガーディアン1、こちら管制塔。離陸を許可する>
許可を得ると八木はスロットルを押して、エンジンをアフターバーナーなしでの最大出力―ドライ推力ないしミリタリー推力という―まで上げる。鎮守は一気に加速し、滑走路を半ばまでいったところで機体が浮き上がった。離陸すると一気に高度を上げる。八木の僚機も続く。上空で編隊を組むと、一帯を担当するレーダーサイトのGCI(地上邀撃管制)の指揮下に入る。
<ガーディアン・フライト、こちらマイホーム。アンノウンは…>
指示に従って機首を針路に向ける。やがて空中を単機で飛ぶ大型機を見つけた。
「マイホーム、こちらガーディアン1。アンノウンを発見した。これより対領空侵犯措置を開始する」
八木はGCIに向けてそう宣言すると、愛機を加速させて相手機に急接近した。厳密にはまだ領空外の防空識別圏上空であったが、このままでは数分で領空に侵入する。
2機の鎮守は大きく旋回して侵犯機の後方についた。八木の機体は侵犯機のすぐ後ろにつき、僚機はさらに後方で別の侵犯機に備えるとともに不足の事態に備えて待機した。
八木はカメラを手にして侵犯機に向けた。それはソ連海軍のツポレフ142ベアF哨戒機であった。何枚か写真を撮ると、無線を国際緊急周波数に合わせた。
「こちらは日本帝國空軍だ。そちらはまもなく日本領空を侵犯しようとしている。ただちに針路を変更せよ。繰り返す、ただちに針路を変更せよ」
日本語と英語、そしてロシア語で警告を送る。しかし何度繰り返しても、まるで聞こえていないようにピクリとも動かない。そうこうしているうちに領空に入ってしまった。
「日本の領空を侵犯している。ただちに退去せよ」
八木は警告をさらに続けたが、なんの反応も示さない。
「マイホーム、こちらガーディアン1。目標は警告を無視。これより威嚇射撃を行なう」
<ガーディアン、こちらマイホーム。了解した。ただちに実施せよ>
GCIからのゴーサインを得ると八木はベアFの前に出た。操縦桿に備えられた武器選択ボタンを操作し、20ミリバルカン砲をセレクトした。発射ボタンを押すと、コクピットの右脇に備えられた銃口から数発の曳光弾が飛んでいった。
警告射撃を見たベアFは針路を変えて日本領空から離れる針路をとった。
ソ連に面する空軍基地は大抵、毎日スクランブル発進をしているが、その頻度は1月9日の危機の始まり以来増えつづけ、日中開戦によって絶頂に達しようとしていた。
樺太 上敷香衛戍地
各地の日本軍施設では防衛準備基準三の発令以来、外出禁止が継続しており兵舎外に住居を構える者たちも衛戍地内に缶詰になっていた。長く続く警戒体制の中で兵士たちの士気は次第に下がりつつあった。
課業の合間に将兵たちはテレビで流される戦争報道に注目していた。丁度、画面では大本営報道部による記者会見の模様を伝えていた。
<大本営陸海空軍部発表。帝國空軍及び韓国空軍は中国空軍基地に重点的に攻撃を行ない、その敢闘により中国空軍機百機以上を地上で撃破>
報道官は淡々と中国空軍が連合軍に圧倒される状況を解説した。
<陸軍部隊は鴨緑川を各地で渡河し、各地で中国軍と交戦中である。以上>
空軍の華々しい戦果報告に比べて陸軍のそれは極めて簡潔にまとめられていた。海軍の作戦についてはまったく触れられていなかった。大連上陸作戦の実情を少しでも隠蔽するため、陸戦隊主力が揚陸を終えるまでは発表しない方針であった。
「苦戦しているのかなぁ」
中西少尉は大本営発表を見ながら呟いた。彼は空軍の戦果報告に比べて陸軍のそれが明らかに短いことに疑問を憶えていた。
そこへ小隊の先任下士官である神村曹長がやってきた。
「少尉、そういえば拳銃の方はどうします?」
それを指摘された中西はばつの悪い顔をした。大日本帝國は世界第二位の経済大国に登りつめたにも関わらず貧乏臭い事にいまだに将校の護身用拳銃は自腹で購入することになっている。そして中西は少尉任官後、まだ拳銃を購入していなかった。
「樺太暮らしのために出費が嵩んだんだ。次の俸給が出たら買うつもりだ」
その答えに神村は溜息をついた。
「分かりました。その時には、いい銃砲店を教えますよ」
注1―警備隊―
日本警察が保有する治安部隊。暴動の鎮圧や大規模な行事の警備、災害時の救難・治安維持などが任務である。元々、戦前に警視庁で組織された特別警備隊を始祖として戦時中に内地の治安維持のために全国に設置・拡充され現在に至る。特に警視庁警備隊をはじめとする重要府県警察では特殊部隊である警官突撃隊を保有する。
・大規模加筆修正計画は今回は【第3部その8】です。
・今さらですが乱号作戦の海軍部隊が船多すぎだなぁと後悔中。だって最大でも南浦―大連間の全長300キロ程度の海域に40隻の大艦隊ですからね。ちなみに加筆修正版【第3部その8】に登場するアメリカ機動部隊はあの規模で日本海のほぼ全域を手中に収められるとか…今さら手直ししても許されますかねぇ?