その2 インテリジェンス
首相官邸
国家安全保障会議を終えて、吉野と美香は共に官邸を出ようとしていた。
「神楽中尉。随分と噛みついていたな」
「あくまで情報官として正確な情報をお伝えしただけです」
そう言って美香は微笑んだ。吉野もそれにつられて笑みを浮かべた。
「なるほどね。しかし、君は八雲兵部相の事を嫌っているようだが?」
「それは首相も同じでしょう」
美香が指摘した。
「宮川首相が軍事的な助言を求めるのはいつもあなたですよ?八雲さんは党内派閥のために任命されたに過ぎません。それにあの人は陸大76期。82期より前の人間に安全保障の輔弼は無理ですよ」
「おいおい。私は80期だぞ。まぁ言いたいことは分かるが」
「失礼」
陸軍の参謀や上級指揮官の養成学校である陸軍大学校82期。それは陸大の改革を受けた後に卒業した最初の卒業生たちである。それ以前の生徒は戦争のやり方を学んでいなかった。こう言うと不思議に思う人々もいるだろうが、実は紛れもない事実なのである。
結局のところ、以前の陸軍大学校は戦闘の方法を教える学校であり、戦場でいかに勝利をするかを学ぶ学校であったのである。その勝利をいかに政治的な戦争の勝利へ結びつけるかについては教えておらず国際政治や安全保障について大局的見地を得るには独学で学ぶしかなかったのだ。ちなみに海軍大学校にも同様の傾向があった。
戦場での勝利がそのまま戦争での勝利に結びつくのならそれでも良いのかもしれない。例えば日本海海戦や奉天会戦での勝利が日本を戦争での勝利に導いた日露戦争のように。しかし、国際社会というのは複雑なものである。第2次世界大戦が膠着していたとは言え連合国側優位に進んでいた―なにしろ連合国側はドイツの一部を占領しているのだ―にも関わらず、ほぼ対等な条件で休戦したわけだがら、当時の日本軍の高官たちは首を傾げただろう。かくして当時の陸大教育の限界を露呈したわけであり、陸大の教育プログラムの改革に乗り出したわけだ。その改革の成果を受けられたのが82期以降である。
「しかし、すまないね。休暇中に呼び出したりして」
それに対して美香は明らかに不満げな表情で返した。彼女は一昨日より少し遅れた正月休みが始まっている筈だった。
「そうですよ。中国情勢の専門家は他にもいくらでもいるでしょう」
「いや。確かにそうだはね。君の将来性を見込んで、いまのうちお偉いさんの前に立つ練習をしてもらおうと思ってね」
「大きなお世話ですよ。じゃ、私は予定通り、休暇に入らせていただきます」
ソビエト社会主義共和国連邦 KGB本部
モスクワのルビャンカ広場に面する黄色い煉瓦の建物は、「ルビャンカのビルはロシアで一番高いビルなんだ。なぜならロシアの隅々を見張ることができるからね」というアネクドートでおなじみのKGBことソ連国家保安委員会の本部である。
国外における諜報を担当する第1総局の施設はここから離れたヤセネヴォの森の中にあるのだが、第1総局局長であるウラジミール・ロジオノビッチ・アレクセイエフ将軍はこの建物を訪れていた。目の前に座る男を前にウラジミールは少々不満げだった。
「ユーラ。突然なんだい?呼び出したりして」
「いや。ちょっとした事だよ」
ソ連軍内における防諜を任務とする第3局の長、ユーリー・イワノビッチ・チャパエフは満面の笑みで応えた。
「娘が結婚するんだよ。相手は空軍司令官のご子息の次男でね。今は極東に居るよ」
「それはおめでとう。しかし君はあの男を好きでなかった筈だが。よく許したな?」
アレクセイエフは口では祝いの言葉を述べながらも、顔はすこしも笑っていなかった。
「娘がどうしてもと言うのでね。反対したら2人でミグ31に乗ってハコダテまで飛んでいってしまう」
「なるほどな。で、それだけ言いにきたのか?」
「いや。娘に祝いのプレゼントをしようと思ってね。選ぶのを手伝ってもらおうと」
「いいだろう」
それを聞くと、ユーリーは立ち上がった。
市ヶ谷 統合常設参謀部
最近建造されたばかりの近代的な建物の中に美香は居た。首相をはじめとする閣僚への報告を終え、まっすぐここに帰ってきた。地下の第二部の中枢には、彼女を待つ人間が居た。
陸軍軍曹小野寺雄之助は元斥候兵で、任務中に地雷を踏み片足を失ってからは経験を生かしアナリストの仕事をしている。
「よぉ美香ちゃん。どうだった。お偉がたへの報告会は」
私服を着て階級を無視した態度に好感を持つ軍人は少なく、美香はその少ない人々の1人だった。
「なんとか収まるところに収まったってところかな」
「そりゃ、良かった。資料は見たよ。まぁお互い意地になっているだけだからね。アクシデントが起きない限り、こっちも収まるところに収まると思うな」
美香は第二部のオフィスに常時用意されているコーヒーを自分のカップに注いでいた。
「それは同意。問題はそのアクシデント」
「国境線には合わせて30万近い兵力が展開している。何が起きても不思議じゃないよね。こんな時に休暇?」
「こんな時だから休暇なの。面倒事は背負いたくないからね」
そう言って美香はコーヒーを啜った。
「しかし中国は一応の核保有国で、指導者は“例え核攻撃で1億人が死んでも、まだ10億人が残っている”と発言するような国だ。何事かが起きれば、ヤバイのでは?それこそ面倒だのどーこー言ってられないくらい?」
それを聞くと美香は意地悪そうな微笑みを見せた。小野寺はそれが彼女の一番魅力的な表情だと考えていた。
「いいえ。今の中国は通常戦争で臨まざるえないの。20年前なら、たぶん中国は核戦争に耐えられる世界唯一の国だったでしょう。でも今は違う。
いい?もし中国と韓国が戦争状態になれば当然ながら日本も介入するわけだから、日本も相手をしなければならない。中国が核を撃てば、当然ながら日本も核を撃ちかえす」
「だけど中国は人口も多いし」
小野寺は反論を試みた。
「なるほど。確かに以前の中国は広い国土に大量の人口が分散していて、核攻撃の効果は薄かった。悪く言えば、中国は毛沢東時代のゲリラがそのまま巨大化したような国だったから、核攻撃に対する耐性があった」
美香の言葉に小野寺はウンウンと頷いている。
「だけどそれは、今は昔。劉少奇とトウ小平が改革開放路線を採って以降、中国の経済力は拡大の一途、街は都市化して、民と富が都市に集中する。だから今、中国の都市を核攻撃すれば、中国の富と労働者は一気に消滅する」
美香はオフィスの自分の席に座った。
「でも中国は“核攻撃で1億死んでも、まだ10億人”の国だよ?」
美香は会議で使った書類の整理を始めていた。
「共産党幹部はそう言うでしょう。でもね良くも悪くも今の中国は資本主義の中にある国なの。富と人を失えば中国は国として成り立たなくなる。もうそういう国になっちゃったのよ」
美香は書類を棚にしまって後始末を終えた。
「おめでとう。喜びなさい?中国とのMADが成立したのよ」
MAD、すなわち相互確証破壊は現在の核戦略の根本にある思想である。相手国を滅ぼすことが可能な核兵器を持てば、相手は報復で滅ぼされることを恐れ自国への攻撃を抑止できるという理論。それ故、米ソは地球文明を何度も滅ぼすことが可能な核戦力を備蓄しているのである。
美香は自分の鞄を手に持って席を立った。
「狂気の世界へようこそ」
最後にそう言って美香は部屋を出た。
「MADか。本当に言い得て妙だよね」
小野寺はもう出て行ってしまった美香に向かって言った。
モスクワ市内
ユーリーとアレクセイエフの2人は私服に着替えて、モスクワの一角に共産貴族向けの高級雑貨店を訪れていた。ここでは西側の製品を購入できる。しかも彼らはルビャンカから徒歩でやってきた。彼らの身分なら青色回転灯を屋根につけた政府専用車両を使うことができるが、ユーリーが運動不足解消のためと称して徒歩での移動を強行したのである。
そして日本製の電器製品を購入し、家への配送を頼むと店を出た。
「やっぱり徒歩は疲れるな。ウラジミール。地下鉄に乗らないか?」
モスクワは世界でも有数の地下鉄を有している。最初に開通したのは1935年と核兵器が生まれる遥か以前の時代にも関わらず、なにを想定したのか異様に深い地点を通っていて緊急時の核シェルターとしても機能する。駅構内は豪華絢爛な装飾が施されていた。
「で、本題は何だ?」
人々の喧騒の中でアレクセイエフは周りに聞こえない程度の小声で尋ねた。
「お前ならカミさんに買わせるだろう?」
その言葉を聞いて、今までずっとニヤニヤしていたユーリーの顔が真剣な表情となった。
「西部軍集団付の保安将校が気になる情報を持ってきたんだ」
西部軍集団は東ドイツことドイツ第3帝国に駐留してNATO軍と睨み合いをしている部隊である。
「ドイツ国防軍に不穏な動きが有る。クーデターの可能性ありだ」
アレクセイエフは顔をしかめた。
「それだけか?」
「軍の保安将校だぜ?ドイツでの情報収集はそっちの専門だ。なにか知っているのか?」
「それもそうだ。だがな。残念だが何も知らない」
ユーリーは信じられなかった。
「おいおい。そっちはソビエト諜報の根幹、KGB第1総局だぜ?どうせそっちの作戦か何かじゃないのか?ここなら誰も聞いていないぜ」
「知らないものは知らないんだ。今言えることはそれだけだ」
アレクセイエフはそう繰り返すが、ユーリーの疑念は深まる一方だった。
「頼むから教えてくれよ。向こうで問題が起きれば、こっちだっていろいろと大変なんだよ」
ユーリーはまだ食い下がるが、アレクセイエフの回答は同じだった。
「本当になにも知らないんだ。分かった。こちらでも調べてみるから、とにかく待ってくれ」
ユーリーは納得したわけでは無かったが、この場はそれで収めることにした。かくして2人は地下鉄の電車に乗り込んだ。
電車に乗っていた伝通院皐月は乗ってきた2人を見て驚いた。なにしろKGBの最重要人物なのであるから。彼女は表向きには駐ソ日本大使館の書記官ということになっていたが、実際には内閣情報局の秘密部署に属する諜報員なのである。彼女は外交官特権を持つ合法工作員(注1)であるから、例え正体が明らかになっても逮捕されることは無い。だが業界用語で<作業玉>と呼ばれる彼女に協力する内通者は違う。今回、情報の受け渡しをする相手は実際の情報提供者からの情報を伝達する仲介人に過ぎないが、彼女と情報提供者との間には仲介者を1人しか置いていないので、相手が逮捕されればすぐさま情報提供者の人生が終わることを意味している。
電車は次の駅に停まったが、KGBの2人が降りる様子は無い。そして仲介者が乗り込んできた。中止の合図をするべきか?いや、スパイの摘発にあのような上層部の人間を使うわけがない。逆説的に言えばKGBがここをマークしていない証拠である。
皐月は鞄から日本語の文語本を取り出した。受け渡し実行の合図だ。仲介者が皐月の横までやってきた。皐月は周りの人間に、特にKGBの2人に気づかれないように手を仲介者に伸ばした。彼はいつもズボンのポケットに情報を忍ばせている。皐月は手を突っ込むと小さな紙切れを捉えた。
電車が止まった。皐月とアレクセイエフとユーリーは電車を降りた。それぞれの用事を終えて。
注1―合法工作員―
外交官としての身分を有する情報工作員を指す。外交関係に関するジュネーブ条約により外交官の身分を持つ人間には治外法権が認められているため、情報活動を行っていても逮捕されないのである。ただし該当する人間を好ましからぬ人物として国外追放することは可能である。
(改訂 2012/3/20)
登場人物の名前を変更