その3 モスクワにて
ソビエト連邦 首都モスクワ
モスクワ郊外のアパートで“ニンファ”ことミハイル・チェーホフは目を覚ました。コーカサスで左肩を負傷して野戦病院に搬送された。緊急手術で弾が摘出され、傷が癒えるまで療養のため休暇をとるように命じられたのであった。
ベッド横の机の上に置いておいた腕時計を手にとって時間を確かめると午前5時。いつもどおりの時間に起きた。体内時計が正確であることに満足すると、そろそろ伸びきりかけているゼンマイを巻いてから机の上に戻した。それからベッドを降りて、窓の前に立ちカーテンを開けた。まだ日の出前で外は暗く雪が舞っていた。
パジャマから着替えたミハイルは朝食の黒パンを齧っていた。リビングはソ連では一般的な集中温水暖房システムにより常に快適な暖かさを保たれている。工場で水を沸かして地域一帯の温水供給と暖房を賄うというシステムは工場に問題が発生すると地域の暖房が全て停止するという欠点があるが、今日はちゃんと動いているようだ。
すると朝食の時間を狙っていたかのように充電器に載せられている携帯電話が鳴り出した。ソ連でも西側への対抗上から携帯電話サービスが始まっていて“国産の携帯電話”も発売されている。しかしそれは大変高価(注1)なものな上に“アクセサリーぐらいにしか使い道がない”代物なので、注文してから手元に届くまで十年以上の歳月がかかる自家用車と同様に上流階級のステータス以上の存在意義が無い代物であった。というわけでKGBのように実用的なものが必要な組織では主に中立国であるフィンランド製の携帯電話を輸入して使用している。ミハイルの携帯電話もそれであった。
<チェーホフ少尉。今日の正午にルビヤンカに出頭せよ>
電話はミハイルに一方的にそう命じると切れてしまった。
午前7時。ミハイルは外套を着てウシャンカ帽(注2)を被りアパートを出た。積もったばかりの雪を踏みしめる度にキュッと音がして心地よいものである。ルビヤンカのKGB本部に向かうには地下鉄を使うのが普通であるが、彼は地下鉄乗り場には向かわなかった。
彼が向かったのは小さな教会であった。
共産主義では神の存在を否定している。故にソ連も宗教を持たぬ無神国家である。しかし、人々の心に深く根付いた信仰心を一掃するのは簡単なことでは無かった。ロシアにおける宗教の最大派閥であるロシア正教会もソ連政府に協力的な姿勢を示したので、多くの制限を課せられながらもソ連における宗教はなんとか命脈を保っていたのである。
朝だが教会には多くの人々が集まっていた。近年の社会不安とニキーチン総書記のペレストロイカ政策のために信者は増加傾向にある。
ミハイルは壁に掛けられた聖画の前に立って手で十字を切った。その様子を1人の老人が眺めていた。
「ミーシャ。今日も来たか。君は本当に熱心だな」
「神父様?」
神父はミハイルの前にやって来た。
「君は政府で働いているんだろう?ここだって監視されているんだ。頻繁に来たらマークされるぞ」
神父は言う。ソ連の中枢で働くには“政治的信頼性”が求められる。そんなものをどうやって測るのか神父の知るところではないが。
するとミハイルは神父の前に跪いた。そして神父の右手を手にとって、その手の甲に口づけ(注3)をした。
「神父様。僕は常に神の下に居るのですよ」
神父は突然のミハイルの行動に驚きつつも彼の背中に手を回した。
「君は本当に素晴らしいよ」
「ありがとうございます。同志」
2人は互いの顔を見ながら微笑んだ。
ミハイルは祈祷を済ませて教会を出た。入れ替わりにミハイルと同年代らしい女性が教会に入っていった。
ミハイルは何故かその女性に興味を持ち、その女性が教会の中に消えるまで目で追っていた。背は小柄にミハイルと同じくらいで、美しい黒髪に蒼い目。美しい女性に惹かれてしまうのは男の性だが、KGBスペツナズとして訓練を積んだミハイルがただの興味本位で誰かに注意を向けるということは無い。しかし彼女に注目した理由をミハイル自身が分からなかった。
その頃、モスクワ中心部のKGB本部ルビヤンカでは定例の幹部会が開かれていた。地下の会議室。U字型のテーブルを中心に周りを幹部たちが取り囲んでいる。中心に居るのはKGB議長であった。
「で、同志グツァコフはGRUと接触した後に殺された。間違いないな」
ボチカリョフKGB議長は平静を保とうと努力していたが、それでも彼の心の奥底に隠された怒りの気配に出席者は気づいた。
「はい。間違いありません。現地の同志からの報告も受けています」
一方、この事態に最も大きな怒りを抱いているだろう人物、グツァコフの直接の上司であるKGB第1総局局長のアレクセイエフは何時もと変わった様子は無かった。
「なるほど。同志第3局長。GRUの様子はどうかな?」
第3局長チャパエフの方は目をギラギラさせていた。まるで状況を楽しんでいるかのようである。
「GRUに対する監視を強化しました。今月中にも潜入者の数も増やしたいと思いますが、むこうも警戒しているから、どこまで巧く行くかは未知数ですが。それで今のところ分かっているのは、GRUのベルリン支局長がモスクワへ召喚されたということです」
「それは怪しいな。GRU上層部まで絡んでいるということか?」
チャパエフは首を横に振った。
「そこまではまだ分かりません。しかし、もしそうなら…」
チャパエフは最後まで言うべきか一瞬躊躇った。
「もしそうなら、大粛清以来の大事件になりますぜ」
ボチカリョフはそれに頷いて答えるとチャパエフの隣に座る人物に視線を移した。
「同志第2総局長。第三勢力による介入の可能性は?」
第2総局は国外諜報任務を担当する第1総局とともにKGBの双璧を成す部署で、その担当は防諜、つまり国外からのスパイ活動を阻止することである。であるから第三勢力とは必然的に外国情報機関を指す。
「今のところ特異な動きは見られません。しかし、これは私見ですが、西側の諜報機関の活動では無いように思います」
「というと」
「あまりに大胆過ぎます。現場はキューバでもアフリカの小国でもありません。ベルリンです。アメリカや西側諸国ならもっとスマートにやるでしょうね」
第2総局局長の言葉にボチカリョフも納得したようである。
「確かにな。しかし可能性がゼロなわけではない。引き続き調査を続けたまえ」
するとボチカリョフはアレクセイエフが手を振っているのに気づいた。なにかを伝えようとしている。そしてボチカリョフは言い忘れたことがあるのを思い出した。
「それともう1つ。敵の暗殺行為に対抗する為にKGB幹部の身辺護衛を強化するべきであるという提案があったが、その件について第9局長と相談をしたんだ」
第9局は要人警護を担当するKGBの部局である。
「第9局からいくらか人員を出して警護を行なうが、十分な人数とは言えないそうだ。彼らの任務は政府の要人を守ることだから仕方がない。そこで第1総局長と第7局長とに相談をして、それぞれのスペツナズ部隊からも人員を出すことになった」
第7局はソ連国内の一般市民や外国人の監視を行なう部局である。モスクワ五輪の頃からはテロ対策も受け持つようになり、対テロ実働部隊としてミハイルが所属するアルファ部隊を運用している。またアレクセイエフの第1総局は国外における情報活動を行うためのスペツナズ部隊ヴィンベルを保有している。
「優秀なスペツナズ隊員だ。単に警護だけでは無く直属の猟犬としても使ってほしい」
そして最後にボチカリョフ自身が立ち上がり、揃った幹部たちを見渡した。
「これは同志グツァコフの死は我々KGBに対する重大な挑戦だ。必ず叩き潰せ」
それは幹部達の共通認識であった。
一方、軍の中枢である参謀本部にもコロリョフ国防次長を中心に何人かの人物が集まっていた。しかしそれはKGBのそれと違い定例でも何でもなかったし、国防省や参謀本部のメンバーの中でも一部の者しか出席していなかった。おまけに出席者以外にはその会議の存在さえ知らせていなかったのである。
コロリョフは不満げな表情であった。
「言っておくが、これはこの場で済む問題ではないのだからな」
その視線の先にはしどろもどろしているシャラポフGRUベルリン支局長の姿があった。
「すみません。奴が中央に報告する前に始末するべきであると考えまして」
「君は慎重になるべきであったな」
シャラポフの隣に座るカマロフGRU局長の方は呆れているようであった。
「問題はKGBだ」
「同志カマロフ。KGBはどこまで介入してくるだろうか?」
会議に出席している将官の1人が訪ねた。
「分からない。だがGRUは今や厳重に監視されているに違いない。もしかしたら君たちの通信網を利用することになるかもしれん」
カマロフは居並ぶ将官たちを見渡しながら言った。彼らはカマロフのような情報屋では無く野戦軍の指揮官なのである。
するとその中の1人が立ち上がった。
「中央の人々の力は借りられないだろうか?」
ソ連において中央とは共産党を意味する。コロリョフが素早く応じた。
「それはできない。我々の組織の全容を知られるわけにはいかないのだ。中央との接触は最小限にするべきだ」
コロリョフはそう言いながら腕時計を見た。
「そろそろ解散しよう。私には他に解決しなくてはならない問題がある」
昼のルビヤンカ。ミハイルは地下鉄でモスクワの中心地区にやって来て、ルビヤンカの建物に入った。案内されたのは彼が所属する第7局ではなく第1総局局長のオフィスであった。第1総局の施設はルビヤンカから遠く離れたモスクワの南に広がるヤセネヴォの森にあるが、KGB本部であるルビヤンカにも第1総局局長用のオフィスが用意されている。
そしてミハイルは局長オフィスの前に立つ2人の軍服姿の人物を見つけた。1人は黒髪でミハイルと同じ程度の背丈で、軍人としては若干細すぎるように見えるし顔も中性的である。他方は金髪でミハイルよりずっと背が高く、それほど筋肉質には見えないがミハイルやもう1人の黒髪に比べればよっぽど軍人らしい体型をしている。
「あんたが“ニンファ”かい?」
金髪の男が訪ねてきた。それに対してミハイルは顔を歪めて露骨に不快を表した。気に入っていない渾名を赤の他人にいきなり言われるのがおもしろい筈が無い。その様子を見て相手方も態度を改めた。
「失礼。皆が君をそう呼ぶと聞いたのでね」
「あなたは?」
「ヴィンベルのイヴァン・コンドラチェフ大尉だ。こちらは副官のバラノヴァ中尉だ」
そう言ってイヴァンは隣の黒髪を紹介した。ミハイルには引っかかる事があった。
「バラノヴァ?」
ロシアにおける名前のルールは独特である。姓が男女で変化するのも特徴の1つだ。もし目の前の人物が男性ならば、その姓はバラノフにならなくてはならない。
「女?」
ミハイルのその言葉は、彼が先ほど言われた“ニンファ”と同じような効果をもたらした。
「ヤナ・バラノヴァ中尉だ。よろしく頼む」
ヤナはそう言ってミハイルの右手を握った。握手にはあるまじき握力で。そして顔は険しくて目はミハイルを睨みつけている。
ようやく手放された右手を労わりながらミハイルは地雷を踏んでしまったらしい自分の発言を呪った。
「入って良いぞ」
ドアの向こうから声が聞こえてきた。早速、ヤナがドアノブを握りドアを開ける。それに続こうとしたミハイルの耳元でイヴァンは囁いた。
「気にするな。あの貧乳じゃ普通は気づかん」
オフィスは窓がカーテンで閉じられ灯りも消されているので真っ暗であった。そして直後に電灯が灯り部屋が明るくなった。
次の瞬間、3人は背後の気配に気がつき、一斉に振り返った。
「君たちは私の味方かね?」
そこには第1総局局長のアレクセイエフの姿があった。もし訓練を受けたスペツナズである彼らでなければ声をかけられるまで気づかなかったであろう。
アレクセイエフはカーテンを開けて3人を来賓用のソファーに座るように促すと、自らも専用の椅子に腰を下ろした。
「ベルリンの事は知っているな」
3人とも頷いた。
「それでKGB幹部の警護を強化することになったんだが、第9局だけでは人員が足りなくてね。君たちを動員することになった。だが、私は君たちをただのボディガードとして持て余すつもりはない」
アレクセイエフはさらにベルリン支局長暗殺事件のあらましについて詳しく述べた。その内容にさすがの3人も驚きを隠せなかった。
「我々は組織の全力をあげて事件の実態を解明するつもりだ。GRUの尻尾を必ず掴む。君たちには護衛としてだけでなく私の直属の調査員としても行動してもらう。そのつもりで」
アレクセイエフの説明を聞き終えると、イヴァンが真っ先に質問をした。
「なるほど。それは危険な任務なのですか?」
「敵は強大だ。危険な任務になるだろうな」
「なら、喜んでやらせていただきます」
イヴァンがにっこりと笑って言った。アレクセイエフは西側のプロフェッショナルのような顔をしていると思った。
ソ連国防省ではコロリョフがジンヤーギン国防大臣のもとを訪れていた。
ジンヤーギンはコロリョフが執務室に入った時の表情を見て驚いた。これほど思いつめたコロリョフの表情は見たことが無かったのである。
「同志コロリョフ。また例の件かね。君もしつこいなぁ」
ジンヤーギンは“例の件”のことがここまで彼を追い詰めているとは思ってもみなかった。
「同志国防大臣。戦力移転計画のことですが、考え直していただけませんか?対NATO作戦の事を考えますと、私は賛成できません」
戦力移転計画とは日米韓連合軍と中国との衝突に備えて、欧州から地上軍部隊の一部を極東方面に増援しようという計画である。
「君が第1親衛自動車化狙撃兵師団の派遣に反対なのは分かるよ。彼らはソ連地上軍の精鋭中の精鋭で、師団長もとびきり優秀。しかも君とは懇意の仲と言うではないか。なるほどNATOとの決戦に備えて信頼できる手駒を手近なところに置いておきたい。君の考えはよく分かる。極東で開戦すれば、NATOが支援のために第二戦線の構築を図る可能性が十分にあるからな」
ジンヤーギンは諭すような口調でコロリョフに言葉をかけた。まるで教師が生徒に模範解答を示すかのように。
「ドイツ軍からも同様の懸念が表明されたと報告を受けているよ。しかし考えてみたまえ。我がソ連軍に二正面作戦を行なう余裕は無いのだ。だからこそ私は軍備増強と中国との連帯を主張している」
ジンヤーギンはソ連上層部では強硬派に属している人物であるが、高級将校にありがちな“戦争中毒者”では無い。問題解決のための軍の投入をよく主張するが、それもあくまで威嚇による外交的効果を狙ったもので戦争をするためのものではなかった。彼はソ連軍と欧米軍との間の格差を痛感しているが故の強硬論者なのだ。
「であるから我々が採りうる方策は2つある。まず戦争そのものを抑止すること。第二に欧州が介入する前に極東での戦争を終わらせることだ。どちらにしても強力な戦力が必要なのだ。私は最終的には第11親衛軍をそのまま極東に送り込むつもりだ」
第11親衛軍は第1親衛自動車化狙撃兵師団の上級部隊である。すでに極東方面に移動している第26親衛自動車化狙撃兵師団も所属していて、第1狙撃兵師団の移転で戦力の半分を極東に移すことになる。
コロリョフは一見、納得したような表情を見せた。心中では断固反対の姿勢を貫いているが、その理由がこの場で主張できる類のものではないので諦めることにしていた。
その心中を知ってか知らずか、ジンヤーギンはさらに話を続けた。
「それにだ。君も第1師団長はさらに上の地位まで昇進するべきだと考えているだろう。彼は優秀だ。しかも君の友人だからね。しかしリトアニア人を昇進させるには、それなりの実績が必要だぞ」
コロリョフは自分の誤りを認め、ジンヤーギンが行なった彼の友人への配慮に感謝の言葉を述べた。しかし心の中では綻びが生じた計画をいかに修正するかで一杯になっていた。信頼できる手駒を手近なところに置いておくのは、対NATO戦のためではなく彼の計画のためなのである。
注1―大変高価な携帯電話―
技術的な問題もあるが、政府当局が意図的に価格を吊り上げている面もある。防諜上の理由から携帯電話が広く普及させないためにである。
その他、ソ連では携帯電話に対して多くの統制を課している。
注2―ウシャンカ帽―
ウォッカなどとともにロシアの象徴となっている防寒帽。毛皮を使い耳当て付で独特の円筒形をしている。ロシア帽とも。
注3―口づけ―
日本では一般的には男女間で行なうものであり、同性間のそれは同性愛を連想するかもしれないが、スラヴ民族は同性の親友間でも親愛の証として口づけをする風習がある。
・前回に引き続き7000文字超えしました。
(改訂 2012/3/21)
登場人物の名前を変更