その1 コーカサスにて
ソ連邦 北オセチア共和国
黒海とカスピ海に挟まれたコーカサスの地は山脈により分断されている。南北を繋ぐ経路は限られ、侵入者を防ぐ砦として機能しているのだ。
ソ連は第二次大戦の結果、アゼルバイジャンとアルメニアを失った。連合国により“解放”された両国は、隣国イランのパフラヴィー2世に倣って新欧米近代化路線を突き進んだのであるが、1979年のイラン革命で状況が変わった。アゼルバイジャンとアルメニアでも新欧米派は力を失い、代ってイスラム過激派が台頭した。この状況に焦ったのはソ連である。ソ連には多くのムスリムが住んでいて、彼らがイスラム過激派の影響と支援により強力な反ソ勢力となる可能性があるからだ。そこでソ連はイスラム革命の波及を防ぐためにアフガニスタンへ侵攻し、イランの敵対国であるイラクを援助した。さらにコーカサスの防衛強化を始めたのである。コーカサス山脈によって隔てられた南北のオセチアは中東からソ連中央部を結ぶ重要な経路の1つであり、その防備にはソ連政府も力を注いでいた。
さて、ソ連において国内の防備を担当しているのは国防省率いるの軍隊だけでは無い。例えば内務省の国内軍―治安維持活動をする軍事組織、日本や伊仏の国家憲兵のような半警察組織では無く軍事活動のみを実施する軍隊である―やKGBの指揮下にある国境軍―国境警備を担当し、強力な武装が施されたフリゲートまで保有する―に各種スペツナズ部隊などがあり、このような様々な組織が協力してロシアの地を守っているのである。準軍事組織がこのように乱立している理由は、武力を各組織に分散させることで軍部の台頭を防ぐ意味がある。
そして“今回の作戦”も国内軍とKGB特別任務部隊アルファが協同して遂行することになっている。
“今回の作戦”の目的はコーカサスの山々を越えて活動するイスラム過激派テロリストを手引きする地元組織の殲滅である。ある朝が近い夜の終わり頃のことである。国内軍の兵士たちが森の中にある組織の拠点に繋がる道を封鎖すると、スペツナズ部隊が積もる雪を掻き分けて森へと進んでいった。
組織の拠点である小屋は木々が刈り取られ見晴らしが利く小さな丘の上にあり、何人かの見張りがカラシニコフ小銃を持って巡回をしている。丘を囲む森の中に身を隠すスペツナズ隊員は雪中迷彩を着てチタン製の独特のヘルメット被り待機をしている。多くの隊員が防弾バイザーを下ろしている中、何人かの隊員はバイザーを上げてVSS狙撃銃を構えていて、その銃口は小屋の周りの見張りに向けられている。
さてロシアの雪中迷彩は独特である。雪中迷彩といえば白一色と決まっていると思いがちであるが、なぜかロシアのそれは黒い斑点がつけられている。また銃には白いテープを巻いているが、完全に覆っているのではなく所々に黒い銃の表面が露出している。これでは白い雪中では目立ってしまうように思うかもしれない。しかしこの斑点が実は絶大な効果を発揮するのである。朝日が昇り始めた。さぁスペツナズ隊員たちが動き出した。
次の瞬間、無音のまま見張りたちが次々と倒れていった。兵士たちが糸鋸と呼ぶVSS狙撃銃は銃身と一体化しているサイレンサーと特殊な9ミリ弾によってほぼ無音の射撃を実現した特殊銃であった。射程は短いが、この無音銃のお陰で中にいる敵に築かれずに見張りを排除することに成功したのである。
それを見てAS Val小銃―VSS狙撃銃をアサルトライフル化したもの―を持った隊員たちは飛び出して拠点の小屋まで駆けた。その姿はしっかりと雪の中に溶けこんでいる。積もっている雪は真っ平らではなく凹凸がありデコボコである。故にどうしても光の当り具合で影ができる。迷彩に斑点をつけることで、その影に溶け込むことができるのだ。
ある集団はそれぞれ窓の傍に待機して突入に備えている。一方、数名の隊員は梯子をかけて二階に上がっていく。バルコニーからに二階に突入した隊員に組織の男たちは驚いた。何人かが反撃を試みたが、銃に手を伸ばした瞬間に射殺された。残りは降伏した。
2階を制圧したスペツナズ隊員たちは特殊手榴弾を何個か手にして、1階に投げ込んだ。手榴弾からはガスが噴出した。テロリストたちが会議を行なっていた1階はすぐにガスで充満してしまった。堪りかねたテロリストの何人かが外に飛び出したが、待機しているスペツナズ隊員にすぐさま押さえつけられてしまった。
やがてガスが弱まるとスペツナズ隊員たちが一斉に小屋の中に突入していく。テロリストたちのほとんどは催涙ガスにより目と喉をやられて動けなくなってしまっていたので簡単に捕縛された。しかし中には賢い者もいた。スペツナズ隊員が床にうずくまっている1人のテロリストに縄をかけようとしたが、次の瞬間にテロリストが飛び上がってスペツナズ隊員に襲い掛かったのである。突然のことに咄嗟に対応できなかったスペツナズ隊員はそのまま押し倒され、テロリストはその隙に近くの窓から外へ飛び出した。後には濡れたハンカチが残されていた。軍用のガスは二次被害を防ぐために水で弱毒化するようになっているのが普通である。
さて外へ飛び出したテロリストはスペツナズの包囲網を脱するべく必死に走った。しかしその努力は僅かに10メートルほど進んだところで終わってしまった。その場に倒れたテロリストの眉間には銃創が1つ残されていた。テロリストの拠点は制圧された。
「最後の奴を狙撃したのは誰だ?」
指揮官の言葉にVSS狙撃銃を手にした隊員が応えた。
「自分です」
それは特殊部隊の狙撃手としては若すぎるように見える顔であったし、身長も低い。おそらく規定ぎりぎりであろう。
「おぉ、お前か。妖精!良くやったぞ」
指揮官の言葉に妖精と呼ばれた隊員は苦い表情をした。童顔と低身長に由来する渾名だが本人は気に入っていなかった。
その頃、1機のヘリコプターが北オセチアの上空を飛んでいた。それはソ連の典型的な輸送ヘリであるミル8で、ある1人のVIPを運んでいた。
そのVIPとはソ連海軍黒海艦隊の総司令官である。そしてその人物は異例ずくめの人物であった。まず年齢が42歳。艦隊司令官としては異例の若さである。さらにその人物はソ連版海兵隊である海軍歩兵出身で、アフガニスタンで実戦経験があった。そしてなにより異例なのは、その人物は女性であった。
コーカサスの治安活動に参加する黒海艦隊所属の海軍歩兵部隊の活動を視察するために白と紺の縞模様の水兵シャツ、黒いベレー帽という海軍歩兵時代そのままの姿でマリア・パブローヴナ・スヴォロブナ海軍中将は北オセチアを訪れていた。
海軍歩兵の工兵部隊が造った架設ヘリポートに着陸したミル8から降りたスヴォロブナは待っていた四輪駆動車の後部座席に秘書官とともに乗り込んだ。
「いいぞ」
スヴォロブナの合図とともにソ連版のジープとも言えるUAZ-469が走り出した。
8人のムスリムゲリラが左右を森に挟まれた道を前に雪の中で待ち伏せをしていた。
ソ連は多民族国家であり社会にも多数のムスリムが溶け込んでいる。そしてその中に巧妙に張り巡らされている過激派の情報網はソ連海軍高官の訪問という情報を探り当てたのである。
ニンファは仲間たちとともにトラックに乗って帰路についていた。負傷者を出すことも無く作戦を無事に終えたので荷台の中は和気藹々としていた。隊員たちが雑談を楽しんでいると、前のほうから爆発音が聞こえてきた。トラックがすぐに止まった。
「敵襲だ!戦闘態勢をとれ!」
スペツナズ隊員たちは突然の出来事にも戸惑うことなく銃を手に執り荷台を飛び降りた。
スヴォロブナの乗るUAZ-469は爆発で横転して運転手は意識を失っていた。ゲリラたちは隠れていた森の中から出てきてカラシニコフAK-47を手にして取り囲んでいた。後は中からスヴォロブナを引き摺り出して連れ去るだけである。実に簡単な仕事であった。いや、なる筈であった。
既に割れかけているガラスを突き破って拳銃を持った手が現われた。スチェッキンAPS。フルオート射撃が可能な大型軍用拳銃である。9ミリ弾が斉射され、何人かのゲリラが倒れた。それでゲリラが怯んだ間に横転した車体から上半身を出したスヴォロブナはゲリラたちに次々と銃弾を浴びせたのである。そしてそのまま車を飛び出すと車を盾にして応戦を続けた。そこへニンファたちスペツナズも駆けつけた。
スペツナズ部隊とムスリムゲリラの遭遇はまったくの偶然であった。彼らはたまたま近くを通りかかりスヴォロブナのUAZ-469を横転させた爆弾の爆発を聞いて飛び出してきたのだから。だからムスリムゲリラたちの驚きは大きかった。突然現われたスペツナズの襲撃に彼らは逃げるしかなかったのである。
四方八方に散っていったムスリムゲリラたちを追いかけてスペツナズ隊員たちも森の中に消えてゆく。一方で何人かの隊員たちはニンファを先頭にスヴォロブナを保護すべく駆けつける。
横転した車にもたれて一息ついているスヴォロブナは自分のところへやってくるスペツナズ隊員を見つけると手を振って自分の無事をアピールした。だがスペツナズたちはそれだけで満足しなかったようで、ニンファが横転した車の上に飛び乗って警戒をする下で、スヴォロブナを取り囲んだ。
「大丈夫だ。ケガは一つも無い」
スヴォロブナはそう言ってスペツナズの囲いを抜け出した。すると今度は車の上に立っていたニンファが飛び降りてスヴォロブナの前に立ちはだかった。
「だから大丈夫だと…」
スヴォロブナがそう言いかけたところで銃声が森の中に轟いた。森の中から放たれた銃弾はニンファの肩に突き刺さったが、ニンファは倒れることなく敵の狙撃手の方に身体を向けてVSS狙撃銃を構えた。今度はニンファのVSSから2発の銃弾が発射された。それとともに森の中から何かが倒れたような鈍い音が聞こえてきた。それを聞くとニンファは倒れた。
「大丈夫か?」
スヴォロブナは後ろから倒れるニンファを抱いて受け止めた。
「敵を倒しました」
「よく敵の狙撃手の存在に気づいたな、同志。貴官の英雄的行為に艦隊司令官としてできる限り酬いたい」
「ありがとうございます」
弱弱しい声にニンファは自分が意識を手放しつつあることに気づいた。
「貴官の名を知りたい」
「自分はKGB第7局特別任務部隊アルファ所属、ミハイル・イワノビッチ・チェーホフ少尉であります」
それだけ言うとニンファ、ミハイル・チェーホフの意識は途絶えた。