その2 大戦以後
戦争は終わった。
第2次大戦前半期には戦争の主役だった欧州諸国は、戦争による甚大な経済的人員的損失により力を失い、変わって世界の覇権を握ったのはアメリカとソ連であった。ドイツ第三帝国は国土の半分(注1)を失い、連合国軍が占領した西側には1948年にドイツ連邦共和国が成立した。
1941年に大西洋上の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号で日英米により大西洋憲章が調印されて以来、連合国は戦後の世界秩序について模索していた。そして1946年に国際連盟に代わる新組織である国際連合が誕生した事で1つの回答を世界に示したのだ。
しかし世界が連合国と枢軸国に分断された状態で戦後世界が始まった事は国際連合を基盤とする新世界秩序を否定するものであった。その時点では国際連合は西側と呼ばれるようになる連合国諸国の代表機関に過ぎなかったのだ。
実際に世界の基幹部分となる新世界秩序を担ったのは覇権国家と化したアメリカとソ連であり、それは国連の理想とは程遠いもので、元イギリス首相が演説したような“鉄のカーテン”により東西に隔てられた分断世界であった。
その新世界秩序は当然ながら極東世界にも及ぶ。
極東戦線においても停戦が成立したことで満州はソ連軍が占領する北部と日米及び中華民国が占領する南部に分断され、共産党が北部で中華人民共和国の建国を宣言し、中華民国との戦争が始まった。ソ連軍は表向きには満州から撤退したものの、中共軍への莫大な物資の提供や義勇軍という名の援軍の派遣を継続していた。対する中華民国政府は政治腐敗が進んでいて既に大衆の支持を失っていたものの日米の経済的軍事的援助を背景に勢力を維持していたが、中共軍の粘り強い攻撃に中華民国軍は損耗を重ね、1960年代には完全に中共軍優勢になっていた。蒋介石が死去すると中華民国軍は総崩れとなり、1962年に中華民国は中華人民共和国に降伏し、日米軍は中国から撤退して大陸の邦人は朝鮮や関東州まで逃げた。これがプロローグの背景である。
この期間、日本では戦時体制が続き社会・経済は停滞した。世界恐慌直後から始まる中国への介入から撤退までの時代は“失われた30年”と呼ばれた(注2)。特に軍部は大きな打撃を受けた。30年も泥沼の戦いを大陸で続けた挙句に全ての失って撤退したというのだから、当然ながら国民は怒り軍部に批判が集中し、その権威は失墜したのである。
だがこの後に日本は明治維新以後では最大の繁栄期を迎えることとなる。これまで大陸に向けられた投資や軍需が内需に振り向けられ、後に“東洋の奇跡”と呼ばれた高度経済成長が始まったのだ。1964年に開通した東海道新幹線はその象徴となった。重化学工業が発展し、伸び悩む欧州諸国を尻目に世界第2位の経済大国へ踊り出たのである。
また政治的にも大きな進展のあった期間であった。
1960年代は“昭和デモクラシー”と呼ばれた。1940年代から溜まった国民の不満は、1954年に日本初の特撮怪獣映画が弾圧される事件(注3)でさらに高まり、そして1962年に大陸での敗北で爆発したのである。これに端を発して第3次自由民権運動が全国に広がり、デモクラシーが発展した。1970年には遂に昭和天皇が憲法改正の勅令を発し、基本的人権の拡大や内閣の権限強化などを盛り込んだ改正憲法や男女平等選挙を実現した改正普通選挙法などの諸法が成立したのである。
そして、こうした内地でのデモクラシー運動は日本の支配化であった外地にも広がっていった。
それが最も激しかったのは台湾であった。戦時中から反日運動が盛んになっていたが、これはあくまでも台湾を共産化して日本共産化の足掛かりにしようとしたソ連と台湾奪還を狙う中国による工作活動に過ぎなかった。しかし1950年代から60年代にかけて状況は一変した。日米英により発表された大西洋憲章から始まる戦後世界秩序の形成、そしてアジア・アフリカで広まる独立運動。さらには内地の第3次自由民権運動。それらが影響を及ぼしあい、やがて日本でもない中国でもない―これは台湾奪還を目指す中国政府にとっては最悪の事態であるが―台湾独自のアイデンティティが形成され始めたのである。反日運動が独立運動に転化した瞬間であった。
様々な独立運動団体が創設され、言論活動から過激な武力闘争まで様々な運動が盛んになった。テロは内地にまで及び憲兵隊や陸軍特殊部隊と独立運動団体の闘争が台湾各地で行なわれていたのである。こうして多くの屍を生み出す事になった台湾紛争であったが、当時の帝國首相と最大派閥である独立運動団体の指導者によるトップ会談により台湾総督府を廃して新たに台湾人の民選議会の信任に依る台湾自治政府の設置することが決まり、ようやく収まった。日本からの独立という最大の目的こそ果たせなかったが、台湾人は自らの政府を獲得したのである。独立運動は台湾議会を通じた合法路線が主流となっていく。
同時に南洋庁に代わって南洋自治政府が設置され、南洋群島でも自治が始まった。この2つの自治政府の誕生は内地の地方自治拡大運動にも影響を及ぼした。
その頃の内地では戦時中に壊滅的な打撃を受けた共産党が自由民権運動を背景に再建が進められた。彼らは共産主義運動の大衆化こそが革命に必要であると考え、穏健路線を標榜した。非合法政党であることには変わらなかったものの、一定の支持を獲得して勢力を伸ばし再建を達成したのである。
一方、共産党の穏健路線を嫌う運動家たちは共産党から離れて新左翼を形成した。第三次自由民権運動の広がりとともに各地で起こった学生運動の勢力とも合流して過激なテロ活動を行なうようになったのだ。
ある者は海外根拠地を求めて国外へ発ち現地でテロ活動を行ない、ある者は国内で爆弾テロを起こし警察や憲兵と過激な闘争を繰り広げる。しかしその有様は彼らの味方である筈の一般市民からも敬遠されるようになり、憲法改正により民権運動が一段落したこともあって次第に民心から離れていった。
結局、彼らの活動は70年代をピークに次第に下火になっており、多くの組織が警察の追及により壊滅した。しかしそれでも多くの組織が生き残り、20世紀最後の年まで活動を維持し続けたのである。
対外関係については1946年に第2次大戦の終結とともに国際連盟に代わって成立した国際連合の常任理事国となった。
また中国から撤退した事により、協同で国民党を支援することを定めたアメリカとの協力協定が失効した為、政府と陸軍を中心にアメリカとの正式な同盟条約締結を目指す動きが始まった。これはそれまで日英同盟を基調としていた霞ヶ関正統外交の大転換でありイギリスに代わってアメリカが日本の最重要国になることを意味する。しかしながら大転換には当然ながら抵抗が伴うものである。
1960年代のフランスでは米ソの二大大国の間で独自外交路線を進めていた。NATO軍事部門から脱退し独自に核武装を進めてアメリカにもソビエトにも屈しない第三極として振舞うその姿は、アメリカの属国化を嫌う国粋派や二大大国の世界支配に批判的な国際協調主義者にとってはまさに理想であった。アメリカとの同盟締結により大艦隊を建造・維持する大義名分―当時でさえ海軍の第一の仮想敵国はアメリカであった―を失う事を恐れた海軍の後援もあって日米同盟反対運動が拡大していったのである。しかし政府と陸軍は対ソ戦略上、アメリカとの同盟は不可欠と考えており、総理大臣の指導の下で同盟締結に突き進んだのだ。かくして1965年に日米相互防衛条約が締結され、日米の同盟関係は確固たるものとなったのである。
軍事面でも大きな変化が見られた。一番の変化はなんと言っても核保有国になったことであろう。戦時中から陸軍は理化学研究所の研究グループとともに二号計画を開始し、続いて海軍も京都帝大理学部と組んでF計画が始まった。その後、陸軍は中国内戦への介入による戦費の圧迫され、他方の海軍は欧州戦線の終結により予算に余裕が生じたので核兵器開発計画はF計画に一本化され、遂に1954年に日本領である南洋群島のビキニ環礁で原爆実験に成功した。しかしこの実験は近くで操業中の漁船を巻き込んで、漁師の1人が被爆により死ぬという悲劇まで起こした。それでも核開発は継続されて1964年に水爆実験に成功し、帝國は自らの核抑止力を手に入れたのである。
一方、軍組織にも様々な改変が及んだ。まず1954年に海軍航空隊の一部と陸軍航空隊が合併し、新たに帝國空軍が組織された(注4)。そして1963年に陸海空軍の各省を束ねる組織として兵部省が設置された。これにより、それまでバラバラであった陸海空各軍の軍備計画が一本化され、日米同盟締結への弾みにもなった。
一方で世界では激動が続いていた。
米英は独ソ連合に対抗するために西欧諸国とともに1949年に北大西洋条約を締結して、NATOを結成した。さらに1955年にはフランスやベネルクス3国の反対を抑えてドイツ連邦共和国の再軍備を許可した。独ソ連合もそれに反応して東ドイツ領のポーランド総督府にある古都ワルシャワでWTO(ワルシャワ条約機構)が結成された。これは大戦中に結ばれた独ソ協定が発展したものである。
その頃、アジア・アフリカは独立運動が盛んになった。かつての国力を失った欧州諸国はこの動きを押さえることができず、多くの植民地が独立した(注5)が、その混乱は共産主義勢力を伸張させることにもなった。
1962年のキューバ危機では米ソは直接戦争に発展する直前にまでなり、またフランスからの独立問題から発展して内戦状態となったベトナムに米軍が全面介入、ベトナム戦争となった。戦線は泥沼化。戦費と反戦運動に悩まされたアメリカの威信は大きく低下した。この戦争に日本は参戦しなかった(注6)が、1962年に日本の保護下から離れ正式に独立国となった韓国が参戦し、これによって得たアメリカの外貨をもとに日本に次ぐ経済成長を成し遂げた。
枢軸圏ではソ連と中国が対立していた。1953年に新たにソ連共産党書記長の地位に就いた新指導者が西側との関係改善を目指し前指導者の批判を行なったことである。国民党を滅ぼし日本を追い出した共産中国は前指導者を手本にして大躍進運動を推進し、全世界赤化革命に向けて突き進んでいた時期である。そんな時に共産主義圏の親分たるソ連が前指導者の思想を排撃し、西側に接近しようとしたのであるから両国の関係が急速に悪化した。両国の国境線が西側圏の韓国に接したこともあり、武力衝突にまで発展することは無かったが、その亀裂は埋めがたいものであった。
一方、正式に同盟関係になった東ドイツことドイツ第3帝国とソ連であるが、両者の関係も必ずしも良好ではなかった。元々はお互いを最大の敵と見ていた者同士である。戦時中は米英に対抗するために渋々手を結んでいたに過ぎないのだ。戦争が終われば、冷戦中とは言え、両者のお互いに対する感情が悪化するのは当然の摂理だった。特にドイツが将来の脅威となることを恐れたソ連はナチスの骨抜き工作を開始した。独ソ核協定の締結でドイツの核開発をソ連の影響下に閉じ込めた一方で、西側諸国が提案した核拡散防止条約に参加してドイツの核兵器開発を防いだ。さらにドイツの同盟国で次々と赤化革命を起こしていった。最終的には国家社会主義を採る国家は、東ドイツのほかにはハンガリーとクロアチアのみになった。
西側には頑固な同盟のように見えた独ソであったが、裏では壮絶な勢力争いを行なっていたのだ。しかし国土の半分を失い、軍事力をソ連に頼っているドイツ第3帝国にできることは少なかった。1970年代には国粋主義者であるアーベル大統領が就任してソ連の影響下からの離脱を図り、アルゼンチンやスペインなど各地の親独国と連携を深めた。さらに国連への参加も目指したが、ソ連の息がかかった軍人が1984年にクーデターを起こし失脚した。
1970年代に入るとアメリカは方針転換を始めた。ベトナム戦争の和平を進めるため、その背後にいると思われる共産党中国と和解を目指したのである。アメリカも中ソ間の争いを知っていたので、ソ連に対抗するための手駒にしようという考えもあった。こうして大統領が中国を訪問して共産党の指導者と会談をした。そして1973年にはアメリカはベトナムから撤退した。その一方でソ連との間に戦略兵器制限交渉は行なわれた。緊張緩和の時代に突入したのである。だが、それも東西関係の根本的解決に至らなかった。
1975年には北ベトナム軍が南ベトナムに全面攻撃を開始して、全土を占領した。南ベトナム陥落の報は日本や韓国、タイのようなアジアの資本主義国を緊張させ共産主義圏に対する警戒を高めた。特に日本はその翌年にはソ連戦闘機が日本の防空網を突破して亡命してくるという前代未聞の事件が発生しており、防衛政策の全面的な見直しが迫られた。さらに1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、両陣営の関係悪化は決定的なものになり、新冷戦と呼ばれる時代が到来した。
西側では新保守主義とも評される指導者達が登場し、東側との対決姿勢を強め軍備増強に走った。アメリカの戦略防衛構想SDIや600隻艦隊構想がその代表である。一時期には東側に傾いていた軍事バランスは再び逆転したのだ。アフガン派兵の戦費と西側の軍拡への対処でソ連の財政は絶望的状況に陥り、結果としてソ連指導部に改革派が台頭することになった。新たなデタントの始まりであった。
1985年にソ連では改革派の政治家が書記長に就任して、アフガニスタンからの撤退や情報公開をなどの諸改革を実行した。それらはペレストロイカと呼ばれ西側からも歓迎されたが、ソ連保守派の怒りを買うこととなった。1989年に保守派はクーデターを実行し、改革派書記長は失脚した。新書記長のニコライ・チェルピツキーは再び強硬姿勢を強め、西側との対立は強まった。
一方、中国では大躍進政策の失敗がいよいよ明らかになり混乱状態となった。精神的支柱であった毛沢東が逝去し、その後継となった保守派の指導者たちが失脚して、新たに改革派の指導者たちが就任した。彼らは西側との関係改善を進め資本主義的な経済政策、すなわち改革開放を行なって混乱を治めた。経済力は向上し、国民の生活水準も劇的に改善された。その裏で大躍進時代に停滞していた軍事力も拡張された。しかし国民が経済力を身につければ次に政治的な欲求を持つようになるのが必然である。だから民主化運動が各地で起こるのも当然のことであった。1989年に民主化を求める学生たちが天安門でデモを開始した。それに対して中国指導部は軍を投入して武力で弾圧した。その様子は世界に配信され、西側との関係を徹底的に悪化させる要因となった。改革派は失脚して代わって就任した指導者、張徳平はソ連に接近した。
1990年にイラクがクウェートを侵攻するとアメリカ、イギリス、日本などを中心に国連軍が組織され、翌年に湾岸戦争が勃発した。ソ連はイラクを支援して様々な軍事援助を行なったが最終的には多国籍軍の圧倒的勝利という形で幕を閉じた。この戦争は東西の軍事技術のあまりにも大きな格差を世界に示し、特にソ連に大きな衝撃を与えた。ソ連はアメリカに対抗すべくさらなる軍拡に突き進んだのである。
だが、その一方で東側勢力圏は徐々に綻び始めていた。それはドイツから始まった。かつて共産主義を最大の敵と見なしていた筈の第三帝国が今やソ連の傀儡になっているという矛盾が、停滞する経済の中で苦しい生活を強いられている国民に突き刺さったのである。そうした動きはソ連邦を構成する諸共和国、ウクライナやベラルーシの領内にある旧ポーランド地区やバルト3国、中央アジアの国々にも波及し、各地での反ソ運動に繋がったのである。強硬派に代わって改革派の指導者であるアレクセイ・ニキーチンが就任したが、爆弾はいつ爆発してもおかしくない状態だった。
こうして世界は一瞬触発の状態を維持したまま、20世紀最後の年、西暦2000年を迎えたのである。平成の御世を迎えて早12年目を迎えた帝国はまだ平和だった。
注1―国土の半分を失い―
終戦時のドイツ第3帝國の領域は、ハンブルグからユトランドに至る一帯を除くエルベ川以東にバイエルン州南部、チェコ、オーストリア、それに西ポーランド地域である
注2―失われた30年―
ただし全ての面で悪かったわけでは無い。第二次大戦を通じてアメリカの圧倒的な工業力を目の当たりにした日本は、共通規格の導入をはじめとする様々な工業改革を政府主導で行った。これは“軍需物資生産の合理化”を名目に行われ、戦時体制下でなくては実行不可能であった。これによる生産現場での混乱や対応できない中小企業の倒産の頻発が起きたが、結果的に後の経済成長の基盤となり、現在の“技術立国日本”の礎を築いた。
注3―日本初の特撮怪獣映画が弾圧される事件―
南洋における日本の核実験で漁船が被爆した事件を背景に反核思想を盛り込んだ日本初の怪獣映画である。その内容から政府による上映禁止令が出されたが、それに反発した文化人が反対運動を起こした。これが事件の概要である。禁止令は、運動が一般大衆にも広がり、しかも陸軍が反対した為に撤回された。陸軍が禁止令に反対した理由は
1.当時、大陸の戦争の泥沼化により各方面からの批判に晒されていた陸軍が、反核運動を盛り上げて核開発を主導していた海軍の権威を引き摺り下ろそうとした
2.泥沼化した戦争に陸軍自身も嫌気が差しており、反戦的な要素もあった映画に共感を覚えていた
と諸説あるが、どちらにしろ碌でもない話である。
なお、翌年公開された続編では、政府に対する配慮からか、反核思想が薄れ、話の内容も帝國空軍の決死の攻撃により怪獣を氷河に封じ込めるというものになっている。
注4―帝國空軍が組織された―
ただし大陸で活動中の航空部隊は、1962年の撤退まで陸軍の指揮下にあった。
注5―多くの植民地が独立した―
独立運動の裏には、自由貿易体制の拡大を目指すアメリカとアジア地域での勢力拡大を目論む日本の支援があったと言われている。
注6―日本は参戦しなかった―
正式には参戦していないが、非公式に部隊派遣を行っていたと言われている。有名なものは通称“越部隊”として知られる特殊コマンド部隊で、後の特戦旅団の母体となったと言われる。
自衛隊では60式自走無反動砲が、アメリカではF-117ステルス攻撃機が退役したそうです。どちらも1つの時代を支えた重要な兵器。それが姿を消すことに時の流れを感じます。
(改訂 2012/3/30)
実在の人物の名前をカット
(改訂 2012/5/3)
実在の映画の名前をカット