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世紀末の帝國  作者: 独楽犬
第5部 国連の虚構
23/110

その1 厳戒態勢

バレンツ海

 北極海でありながらバレンツ海南部は着た北大西洋海流の暖かい海水が流れ込むので凍ることがない。そのため潜水艦<マールス>は水上を堂々と航行することができた。

 しかし海面は凍らないと言っても気温は氷点下、しかも空は雲に覆われて雪がちらつき視界不良。艦橋上で見張りについている者にしてみれば地獄以外のなにものでもなかった。

 艦長であるコースチン大佐は艦橋に登り、双眼鏡を持って海の様子に意識を集中していた。そこへ伝令が梯子を登ってやって来た。

「同志艦長。司令部より通信です」

「ありがとう」

 コースチンは双眼鏡を見張りの水兵に手渡すと、伝令兵とともに艦内に下りた。



 梯子の手すりに掴まって艦の中枢である発令所まですべり下りたコースチンは通信室に向かった。機密情報を扱う通信室は、艦内は数少ないドアのある部屋の1つである。中には副長のベールイ中佐と通信士官の大尉、それに政治将校が待っていた。早速、ベールイはテレタイプから打ち出された通信文をコースチンに手渡した。

「本国からだ。なにやら極東が碌でもないことになっているらしい」

 手渡された通信文を読んでコースチンは顔をしかめた。

「これは責任重大だな」

 それだけ言うとコースチンは通信室を出た。発令所に入るとコースチンは艦長席に立った。周りの乗組員たちは次の命令を黙って待っている。

「急速潜航。潜望鏡深度。」

 後から発令所に入ってきたベールイが復唱すると水兵たちが一斉に動き出した。



 潜水の手順は最新の原潜といえども通常動力艦と大きく変わるところは無い。艦橋から見張り員が艦内にすべり下りてくる。外部と艦内を隔てるハッチが閉められ水密を確認するといよいよ潜航である。通常動力艦であるなら、ここでエンジンを停止してバッテリーに動力を切り替えるが、原子力潜水艦の場合はそれが不要である。この点で手順が異なるわけだ。

「ベント開け!」

 一般的な潜水艦は二重構造になっており、乗組員が活動し原子炉などの重要な器材がある区画を覆う内殻と外殻の間の隙間にバラストタンクが配置されている。ここに海水を出し入れすることで潜水艦は浮沈を制御するのである。タンク上部の(ベント)が開くと、そこからタンク内の空気が抜けて下から海水が入ってくる。潜水艦はこの水の重みで潜航するのである。潜航の開始である。

「潜横舵、下げ舵。潜航角(トリムダウン)20度!」

 命令に応じて操舵手が舵を動かして艦を制御する。座席に座り操舵装置を押し引きして潜横舵を動かす様子は船の操舵というより飛行機の操縦を思わせる。だが操縦桿の反応は飛行機よりずっと鈍い。操舵手の指示が実際の動きとなって現われるまでにかなりのタイムラグが生じるのだ。だから操舵手は勘と経験を頼りにしてタイムラグを調整しなければならないのだ。どんなに技術が進歩しても最後は人間の能力がものをいうのである。操舵手はうまく調整をして、潜望鏡深度に達した時に艦が水平になった。

 コースチンはそれを見届けると顔を下に向けた腕時計を確認した。マールスはかなりの短時間で潜航をやってのけた。十分な錬度である。コースチンはそれに満足すると艦内放送のマイクを手に取った。

「全乗組員に達する。急速潜航、見事であった。これで本艦は十分な作戦能力を保持していることが確認された。

 同志諸君。我々がムルマンスクを出発してから僅か一日の間に世界情勢は急変した。共産主義友邦である中国がアメリカ帝国主義の傀儡である韓国と事実上の交戦状態に突入している。事態は急を要する。

 我が潜水艦<マールス>はこれより全速力で太平洋に向かう。期間短縮の為、予定している浮上、訓練などは全て省略する。

 祖国は同志諸君ら1人1人に献身を求めている。各自は課せられた義務と使命を十分に自覚して、友邦を救うために最大限の努力を行なうのだ。以上」

 コースチンはマイクのスイッチを切ると、後ろに振り返った。そこにはベールイ副長と政治将校の姿があった。

「いかがでしたかな?同志政治将校殿」

「完璧ですよ。同志艦長」

 政治将校は満足げな笑顔だった。コースチンは再び正面に向き直った。

「前進全速。針路そのまま!」




永田町 内閣情報調査局

 杉田情報総裁は自分のオフィスで自分の席に座って、ある人物を待っていた。

「総裁。ソ連課長がお見えです」

 秘書官がインターホンを通じて伝えた。

「よろしい。通しなさい」

 オフィスのドアが開き眼鏡の男が入ってきた。杉田は応接用のソファーに座るように促すと、自分も対面するソファーに腰を下ろした。

 内閣情報調査局は主に4つの部門―表向きには3つ―から成る。組織の人事・予算を取り扱う総務部、国内情勢の分析にあたる国内部、世界情勢の分析にあたる国際部、そして伝通院皐月などの属する秘密諜報部門である奉事寮(ほうじりょう)だ。奉事寮は非合法活動にも従事することから表向きには宮内省に所属して皇室に世界の出来事を報告する機関ということになっている。なぜ宮内省かと言えば、“宮中・府中の別”(注1)を理由に予算の使途や活動内容について議会の追及を逃れることができるからだ。

 眼鏡の男は国際部のソ連・東欧課の責任者で、局内でも有数の分析官として知られていた。

三輪(みわ)君。新しい情報かね?」

「モスクワの情報員が回収したものです。今朝、日本航空便に積まれた外交行嚢(こうのう)を通じて送られてきました。分析はまだですが、とりあえずお渡しした方が良いと思いまして」

 外交官には国際条約により様々な特権が与えられている。通信の不可侵もその1つで、外交文章を税関等ノーチェックで国外に持ち出すことができる。当然ながら機密文章の輸送にも使われるのだ。

「外交行嚢だって?」

「先方が指定してきたんです。うちの暗号通信は信用できないようで」

 先方とは、彼らに情報を提供しているソ連内部の情報提供者、いわゆる“作業玉”である。三輪は鞄から何枚かの書類を出して杉田に手渡した。

「しかし、よくこれほどの情報を収集できるものだな。コードネームは“マルタ”だったな。一体、何者な…」

 そこまで言かけたものの杉田の声はそこで途切れてしまった。

「失礼。秘密だったな」

「はい。実は私も知らないんです」

 “作業玉”の身元情報については最上級の秘密として扱われる。“作業玉”の安全を守るためである。そのため局内でも作戦に関わる少数の人間だけがその正体を知っているのだ。

 だが三輪は“マルタ”についてなにも知らないわけではない。送られてくる情報の内容から“マルタ”は複数の人間から成る情報網の統括者である、というところまで推測している。しかし三輪はそれ以上に詮索するつもりはなかった。彼にしてみれば知っていなければならないのは、その情報が信頼できるのか否かだけなのである。

「ところで韓国の問題は知っているよな?」

「はい。それに対するソ連の動向に関してのレポートはまだ出来ておりませんが」

「いや、そういう話じゃないんだ。首相直属の特別対策室の下に特別情報班を組織しようという案が出てね。内調(注2)だけじゃなく軍や各省庁からも人を集めるんだ。私が班長ということになるが、君に実質的な纏め役になってほしいと思う」

「私はソ連課の人間ですよ?戸町さんがいるでしょう」

 彼は一応異議を唱えたが、引き受けなければならないことは理解していた。中国の問題なのだから中国課の人間が纏め役をするべきなのであろうが、中国課課長である戸町木の実(とまちこのみはまだ経験が浅く複数の機関から人が集まる特別情報班を束ねるには不安が残る。杉田は情報局総裁として様々な職務があるので情報班に集中するのは難しい。彼らの直接の上司である国際部の責任者である担当参事官を纏め役に据えるという手もあるが、彼は優秀な官僚であるが優秀な情報員とは言いがたい。つまり三輪しかいないのである。

「中国課から恨まれるなぁ。それと戸町さんは軍事方面が苦手だから中国軍の専門家が必要ですね。誰か知っています?」

「その点は問題ない。丁度いい人物を知っているよ」




入間(いるま)空軍基地

 埼玉県の狭山(さやま)から入間(いるま)に跨る敷地に空軍入間基地が存在する。ここは教育飛行部隊を統括する教育航空軍司令部や修武台こと空軍士官学校が在る空軍教育のメッカとして有名である。そこへ1機の航空機が着陸した。軍ではL11J夕空、一般的にはYS-11型旅客機として知られる機体である。それはそれまで軍事に偏重していた日本の航空産業を民需の世界市場に通用するレベルに引き上げるべく日本の航空界がその総力を結集して製作した旅客機である。すでに製造開始から40年以上経つが頑丈な機体は今でも運用可能な状態を保っている。また空海軍でも輸送機として採用されているのだ。

 その夕空が降りてきたのは神楽美香であった。彼女は非常招集を受けてから私服のまま台北の空軍基地に駆け込み、入間行きの輸送機の定期便に乗り込んだのである。基地を出た彼女を待っていたのは陸軍や海軍陸戦隊が主に偵察・連絡、指揮官の移動などに使うトヨタ製の四輪駆動車である一一式小型自動貨車であった。兵士たちは専らランドクルーザーと呼ぶその車は、年式だけ見ると皇紀2611年―つまり西暦1951年―採用とえらく古い車輌のように感じるが、実際には基になっているトヨタ製の四輪駆動乗用車のモデルチェンジに併せて軍用車輌の方も新しいタイプに変わっているのである。ただし今、美香の目の前にある車輌は新しいタイプのものには見えない。

「もっとキレイなヤツで来なさいよ!」

 美香は車から出てきた陸軍の制服姿の男に向かって叫んだ。男は小野寺雄之助であった。

「しょうがないだろう。俺達は裏方なんだから」

 そう言うと小野寺は手で美香に車に乗るように促した。

「最新の情勢は?」

 車に乗り込むなり美香は尋ねた。声のトーンは下がっているが、はっきりとした口調で。美香は大砲オタクから情報官に戻っていた。

「戦闘は一応終息してはいるが、国境線では睨み合いが続いているよ。宮川さんはアメリカ大使と韓国大使に連合軍司令部が非常事態宣言を出すことを進言したんだけど、韓国の方は乗り気でないみたいだ。ともかく今日の夜に政府は国連にこれを提訴する」

「なるほどね。張徳平は強硬派だけで頭のいい奴よ。決して一線は越えない」

「だが、中国は精鋭機甲師団を韓国に侵攻させようとしたんだぞ?」

「たぶん張徳平はこう命じたんじゃない?国境を確保せよ。必要なら越境も認める。韓国への本格的な侵攻ってのは、現地軍がそれを拡大解釈した結果じゃないかしら?」

 それを聞いて雄之助の顔色が変わった。

「つまり中央が軍隊を統率し切れていない、ということ?それは根拠があってのことかい?」

「つまりそういうこと。根拠はない。女の勘ってヤツ。とにかく問題なのは中国の内政をどうやって捌くかってことじゃないかな?」

「なるほど。あと陸軍が2個師団を朝鮮に増援するらしい。先陣は第5師団」

 広島を拠点にしている第5師団は日本軍が海外に遠征する場合に真っ先に出動する緊急展開部隊である。かつての日清、日露、そして第二次世界大戦などの戦争には常に先陣として戦った。

「へぇ。第5師団。となると、トキ砲が初の実戦かな?ワクワクするねぇ」

 トキ砲は第5師団に試験的に配備された試製の新型砲である。美香は大砲マニアに戻っていた。

 2人を乗せた車は市ヶ谷を目指して疾走していた。




注釈

注1―宮中・府中の別―

 宮中―皇室と府中―行政府を区別して、行政府が宮中に干渉しないという原則。内閣制度の開始時に宮内省を内閣から外したことに始まる。また予算に関しても総額を増額するときのみ議会の協賛が必要で、その使途については承認を得る必要がない。その為、一部革新派議員からは「宮内省は帝國政治のブラックホールである」と批判されている。


注2―内調

 内閣情報調査局の略称。英略はCIRO(サイロ)/Cabinet Intelligence and Reserch Office

・ユニークアクセス総数が2万を突破。読者のみなさん、ありがとうございます。

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