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世紀末の帝國  作者: 独楽犬
第1部 帝國の足跡
2/110

その1 大戦まで

第1部 帝國の足跡では、この「世紀末の帝國」の世界がどのような歴史を辿ったかを述べております。

 全て1905年に遡る。日本はその国家の存亡を賭け、北の大国ロシアと激戦を繰り広げていた。陸軍は無敵と言われた旅順要塞を陥落させ、さらに奉天でロシア満州軍主力を圧倒することに成功した。しかしすでに戦力は限界に達しこれ以上の戦争継続は不可能であった。対するロシアも多くの戦力を温存していたものの国内のゴタゴタで戦争を継続する力を失っていた。

 最終的に戦争の勝敗を決したのは海上での戦いだった。

 1905年5月27日、ロシア海軍第二太平洋(バルチック)艦隊と日本海軍連合艦隊は激突した。日本海海戦である。連合艦隊はこの戦いでバルチック艦隊を壊滅させる一方で、損害はわずかに水雷艇3隻という空前絶後の大勝利を得た。

 日露戦争はアメリカの仲介もあり、ポーツマス講和条約をもって終結した。日本は大国ロシアとの戦いに勝利して国際社会での影響力は飛躍的に上昇したが、その一方でアメリカやイギリスから借りた戦費の返済が国庫を圧迫するようになった。結局は償還に行き詰まり、ポーツマス条約で得た満州利権―主に南満州鉄道の経営権―の一部をアメリカに譲り渡すことになった。これ以降、日本はしばらく大陸への進出に消極的になり、国内のインフラ整備による国力増大に力を注ぐようになったのである。支配の優越権を得た朝鮮半島についても日本は保護国化以上のことは行なわなかった。国防上の理由から日韓併合を主張する声も大きかったが、近代化が立ち遅れている朝鮮半島に様々なインフラを整備するのに莫大な出費が必要という試算が出て立ち消えた。


 10年の時が経ち欧州では第一次世界大戦が始まった。それは日本にとって大陸進出の新たな機会であった。日本は中国のドイツ租借地である山東半島を占領し、中国へその利権の継承を求める対華二十一ヶ条要求を出した。さらに欧州戦線への大規模な派兵を行なおうという意見も出たが、まだまだ経済的には弱小国である日本には負担が重過ぎる話で、海軍が小規模な駆逐艦部隊を派遣して通商保護活動に従事させるのが精一杯であった。

 1918年11月、連合国とドイツの間に休戦が成立して第一次世界大戦が終結した。そして翌年、パリで講和会議が開かれ日本も戦勝国として参加した。しかし欧州戦線に僅かな貢献しかしていないにも関わらず露骨に利権を得ようとした日本の行為は欧米列国に警戒心を抱かせた。中国の訴えもあり対華二十一ヶ条要求は講和会議で拒絶され、日本は利権の一部を継承できたに過ぎなかった。


 さらにアメリカは日本を太平洋での大きな脅威であると見なし、1921年に時の大統領は列国の代表を招きワシントン会議を開いた。そして日本に第一次世界大戦で得た中国利権放棄と日英同盟の破棄を求めてきたのである。

 日英同盟はイギリスと同盟破棄による日本の脅威増大を苦慮するオーストラリア・ニュージーランドの反対による存続されたが、九カ国条約により日本が得た僅かばかり中国利権は中国に返還されたのである。というわけで日本の大陸進出は再び挫けるのである。


 このようにいくらかの問題を抱えたものの1920年代は国際協調が叫ばれ平和な時代が続いた。日本も世界平和を守る為に組織された国際機関、国際連盟の常任理事国となり表向きは平和を謳歌し、国内では政党政治が始まり男子普通選挙が実現するなど民主化が進展し、大正デモクラシーとも言われた。


 列強が平和を満喫している頃、アジア大陸では激動が続いていた。中華民国を事実上支配していた北洋軍閥は分裂して多くの軍閥が群雄割拠する内戦状態となっていたのである。その隙を突いて列強各国は権益の獲得に動き、中国の半植民地化が進んだ。日本も欧米の利害と衝突しない程度に利権を広げた。

 中国国民党は中国統一のために共産党と手を結ぶことを決心して1924年、国共合作が成立した。その後、国民党の新たな指導者は中国統一のために創設された中国の“国軍”たる国民革命軍の指揮官に就任して北伐を開始した。

 南京、北京を占領して領域を確実に広げる一方、上海クーデターで中国共産党勢力を掃討し権力を手中に収めた新指導者は1928年に念願の中国統一を果たし、南京国民政府が創設された。まだまだ完全に勢力を失ったわけではない軍閥に共産党、権益拡大を狙う列強諸国の存在もあって決して安定した状況ではないものの、中国は独立国家としての歩みを始めたのである。


 1929年、ニューヨークの株式の中心地であるウォール街で発生した株価大暴落は、瞬く間に資本主義諸国に広がり世界的大不況となった。世界恐慌である。

 広大な植民地を持つ英仏は植民地との間に排他的なブロック経済圏を築き、アメリカはニューディール政策でなんとか危機を脱した。

 日本も世界恐慌で大きな損失を出すことになった。時の政権は対処を誤り、事態の収束は次の内閣を待たなくてはならない。新政権は経験豊かな蔵相の手腕を駆使してデフレ対策のために積極財政を行い、巧みな経済政策で日本経済を救った。後に世に知らしられるケインズ経済理論を当の発案した経済学者が発表する4年も前に実践して見せたのである。欧米のブロック経済化により日本経済は失速するものの内需拡大政策によりなんとか持ち直した。かくして経済的には何とか持ち直したものの、恐慌による混乱は日本の政治に大きな異変をもたらした。1932年5月15日、海軍軍縮条約に批判的な海軍の青年将校が時の首相である首相を暗殺した政治テロ事件である5・15事件の発生した(注1)。このテロ事件は鎮圧されたものの、後を継いだのは政党政治家ではなく前韓国統監の海軍予備役大将であり、それは政党政治の終わりを告げるものであった。これ以降、首相には予備役軍人か官僚が選ばれるようになる。


 そして独伊などの“持たざる国”はいつまでも不況から抜け出す事が出来ずにいた。社会不安は右傾化に繋がりファシズム政権の出現を招いた。ドイツやイタリアなどのファシズム政権は協力して、対外膨張を進めた。1935年にイタリアがアフリカの数少ない独立国であったエチオピア帝国を第2次エチオピア戦争で占領して東アフリカ帝国を築いたり、ナチスドイツがオーストラリアを併合しチェコスロヴァキアの解体を強行したりしたのが具体例である。

 これらの行動に対する米英仏の動きは鈍かった。英仏はファシズム諸国の反共的性格に期待して宥和政策を採り、唯一恐慌の被害を受けず成長を続けていたソ連に対する防壁として活用しようと考えたのである。

 また日本も日に日に膨らむ共産主義の脅威に対抗して不穏な国際情勢の中で国防力を高めるために海軍軍縮条約から離脱し、中国の国共内戦に介入し、さらにナチスドイツとの防共協定の締結をした。一部の軍部や官僚は防共協定にイタリアも加えて最終的には同盟にまで発展させようと企む者も居たが、エチオピアへの侵略により良い印象を持たれていなかったことから協定締結は世論的に難しく、しかもイタリアが反英の筆頭であることから日英関係への配慮もあり企みは頓挫したのである。後に独伊は独自に防共協定を結び、後に同盟に発展している。


 さて、気を良くしたナチスドイツはさらにポーランドにも領土割譲を求めた。この頃には英仏も宥和政策の限界を認め、ポーランドへの安全保障とソ連との同盟構築に動いたのである。ポーランドはそれを受けドイツの要求を拒否したが、ソ連は英仏との同盟を拒否した。

 ソ連は英仏のナチスドイツに対する宥和政策に対して不信感を抱いていたのだ。なぜ下手にでるのかと。英仏はナチスドイツと手を結び、ソビエトを滅ぼそうとしているのではないかと。この同盟の申し出はソビエトを油断させる為の手ではないかと。ならばドイツが彼らと手を結ぶ前にこちらの陣営に引き込み、英仏に対する防壁とすべきではないか?ソ連がナチスドイツとの提携に転じた瞬間だった。

 1939年の独ソ不可侵条約の締結は世界を驚かせた。お互いを敵視しているもの同士が手を結んだのだ。欧米諸国は戦争の匂いを嗅ぎ取り、防共協定を結んでいた日本では時の内閣が総辞職して親独派はその権威を失い、最終的には防共協定は破棄された。

 そして独ソ両国が間に挟まるポーランドに牙を向けたのは締結の僅か1週間後だった。


 1939年9月1日、第2次世界大戦が始まった。それを告げたのはドイツの急降下爆撃機のサイレン音だった。英仏の援軍がすぐさま駆けつけることを想定して防衛ラインを展開したポーランド軍だったが、英仏の動きはチェコスロヴァキア解体時と同様に鈍かった。

 一方のドイツの動きは迅速だった。強力な装甲部隊を用いてポーランド軍部隊を次々と撃破し、防衛線は後退を重ねた。そして17日の“ポーランドのベラルーシ系及びウクライナ系住人の保護”を名目にしたソ連軍の侵入がポーランドに止めを刺した。ポーランド軍は中立国に脱出し、ポーランドという国家は消滅した。

 その間に英仏はドイツに対して宣戦したものの、何ら手を打つことはできなかった。


 この時点で日本は参戦していなかったが、参戦のための準備を進めていた。日本政府首脳の頭にあったのは第一次世界大戦時に欧州へ大規模な兵力の派遣を行なわなかったために、その後に外交で孤立してしまった苦い思い出であった。戦後世界を見据えた場合、日本が大国としての地位を守るためには欧州戦線への参戦が不可欠と考えたのである。

 しかも極東におけるソ連軍の勢力は日に日に増強されていた。欧州戦線で連合国軍がドイツ軍を圧倒すれば、ソ連軍も欧州方面に戦力を増強せざるをえなくなり極東方面での圧力が軽減されるという考えもあった。

 というわけで日本は参戦に向けて動き出したのだ。独ソ不可侵条約の締結を理由に防共協定が破棄され、陸軍の三単位化・近代化が進められる一方で、欧州戦争参戦による防衛力低下を補う為に保護国であった大韓帝國の軍備制限を解除した。


 1939年11月、西欧では半年ほど大規模な戦いが起こらず“まやかし戦争”とも呼ばれる平穏な日々が続いていた頃、次なる戦火は北欧にあがった。ソ連によるフィンランド侵略、冬戦争と呼ばれる戦争の始まりである。圧倒的な物量を誇るソ連軍を相手にフィンランド軍は善戦した。ソ連軍に大損害を与え、スオムッサルミ村での戦いではソ連軍2個師団を殲滅するという大戦果をあげた。しかし限界が近づきつつあった。

 その頃、世界各国ではソ連の横暴を批判する世論が大きくなり、多くの人々が義勇軍としてフィンランドに向かった。また各国政府も物資や資金の援助を行なうようになった。そんな中で英仏はドイツの北を押さえ、ドイツと同盟関係にあるソ連を牽制するため北欧に直接的な軍事介入を実行しようと計画した。そして英仏はノルウェーとデンマークに圧力をかけて、遂に1940年2月に両国領内の英仏軍通過を認めさせたのである。かくして英仏の軍事介入の用意が整ったわけだ。

 しかし、それはドイツに次なる侵略を決意させる結果となった。北欧諸国が連合国に屈し鉄鉱石などの資源を断たれることを怖れたヒトラーは国防軍に北欧侵攻を命じ、1940年2月にヴェーザー演習作戦が発動された。ドイツ軍はデンマークとノルウェーを電撃的に侵攻した。デンマークはただちに占領され、ノルウェーも天候とイギリス海軍の支援を背景にいくらか善戦したが、5月までには完全に占領されることとなった。

 これに益を得たのは意外にもフィンランドであった。英仏とドイツが北欧で衝突したことを受けてソ連はフィンランドとの休戦することを決断したからだ。ソ連は英仏がドイツ軍を突破してフィンランドに到着し、ただでさえ大きな被害を受けているのに戦線がさらに泥沼化するのを恐れたのである。ソ連は、スターリンは、ドイツをまったく信用していなかったのだ。

 かくして3月中頃に冬戦争は休戦した。以後、フィンランドはソ連とドイツに脅えながら中立国として第二次世界大戦を過ごすことになる。


 そして英仏の北欧介入に危機感を覚えたドイツは3月に西欧への進撃を開始した。ベルギー、オランダを瞬く間に占領し、フランス軍が自信を持って構築した長大な要塞“マジノ線”も突破したドイツ軍だったが、事前に作戦計画が漏れていたこともあり質量において優る連合国戦車部隊の前に思わぬ苦戦を強いられる事になった。

 そして日本もいよいよナチス・ドイツに対して宣戦布告を行なった。対ソ宣戦をしないと英仏に確約させてからの参戦であった。1940年3月30日のことであった。

 しかしドイツが再び勢力を盛り返し再攻勢を開始した。ドイツ軍の優れた新戦闘教義ドクトリン、戦術を前に連合国軍の防御ラインは次々と突破されてしまったのだ。イギリスは事態を打開すべくドイツの燃料供給源と目されていたソ連バクーの油田地帯に爆撃を敢行した。当然ながら日本当局にはなんの事前説明も無かった。

 爆撃は成功したが大した効果は無く、ソ連の連合国に対する宣戦布告を招いただけであった。ドイツの西欧侵攻でその弱体を晒した英仏はソ連にとって既に脅威では無くなっていたのだ。そしてイギリス軍の主力部隊は着の身着のままダンケルクからイギリス本国に脱出し、パリはまもなく陥落した。時に1940年4月中盤のことである。


 フランスを破ったドイツはイギリス本土上陸作戦の準備を開始した。しかし、前哨戦たるイギリス軍の航空戦力撲滅を目的としたイギリス本土爆撃は、イギリス空軍の必死の抵抗を前に思うように戦果を上げることができなかった。


 一方でフランス陥落直前に枢軸側に立って参戦したイタリアは、ローマ帝国の再建を目指しバルカンへ、そしてアフリカへと戦線を広げた。しかしバルカンでは思わぬ抵抗の前に戦線は停滞し、アフリカではイギリス領エジプトへ兵を進めたものの反撃に遭い、挙句の果てにイタリア領リビアへと押し返されてしまった。結局、イタリアはドイツに援軍を要請することとなった。

 

 1941年になるとドイツとソ連間に協定が結ばれて事実上の同盟国となった。そして両国は親独的な中立国イランやトルコに対日英宣戦を行なうように圧力をかけた。イラクに圧力をかけてイギリスを脅かそうというのだ。これを察知したイギリスはイラン占領に踏み切った。

 

 その頃、ドイツはイタリアの要請に応じ、援軍を派遣することとなった。エジプトを抑えることでイギリスと植民地(特にインド)との連絡を断つ事を狙ったものである。ドイツ・アフリカ軍団がアフリカの地に派遣され、3月に反攻作戦を開始した。


 一方のソ連はイギリスのイラン占領を理由にカフカス、トルクメンからイランへの侵攻を開始した。それはアフリカでのドイツの反攻を連動したものであった。さらに極東でも満州へと南下を開始して、イラン戦線と極東戦線が形成され、戦争は世界大戦になった。

 テヘランで初めてイギリス軍とソ連軍が激突し、イギリス軍は敗北した。特にソ連軍が投入したT-34戦車は連合国軍に―さらに観戦武官などを通じて同じ枢軸国であるドイツ、イタリアにも―大きな衝撃をもたらした。その後、ソ連軍は山脈地帯を避け南下し、5月にはイスファハーンを占領し、7月にはケルマーン地域一帯を制圧して遂にホルムズ海峡に達したのである。それを見てトルコも枢軸国側に立って参戦し、トルコ経由でドイツ軍はイランに展開した。ドイツ空軍も進出し、ペルシア湾や紅海で通商破壊を開始したのである。


 極東ではソ連軍は満州一帯を占領し、6月には朝鮮半島・大韓帝国へ侵入した。強力なT-34戦車を保有するソ連軍に対して劣勢を強いられた。しかし主要な戦場が山岳地帯、森林地帯であったこと。T-34を保有すると言っても極東でソ連軍が投入した戦車の一部だけで、主力は貧弱な日本軍の対戦車装備でも対抗できないこともなかったBTシリーズやT-26戦車のような軽戦車が主力であったことが幸いし、前々年のフィンランドばりの健闘をした日本軍と韓国軍はソ連軍の突破を阻止することに成功した。

 しかし11月にはソ連軍は第二攻勢を行い、平壌を占領して臨津(イムジン)川に達した。だが、その最中に朝鮮の在留米国人がソ連軍によって虐殺される(注2)という事件が発生し、それを理由に12月8日、アメリカも枢軸国に対して宣戦を布告して連合国軍側に立って参戦したが、戦時体制への転換が進まず状況を変えるには至らなかった。


 一方、ドイツ・アフリカ軍団も連合国軍をイタリア領リビアから追い出すと攻勢に転じた。5月にはイギリス軍の守る要衝トブルク要塞を占領し、さらに7月にはエル・アラメインで連合国軍と激突して勝利した。10月にはスエズを突破してエルサレム、次いでベイルートを占領し、1942年1月にはトルコとの合流を果たした。ドイツ・アフリカ軍団は既に補給が限界に達していたが、トルコとの連絡により改善された。しかし連合国側もレンドリースが続々と到着し始めて、戦力は大きく増強されようとしていた。


 1942年に入ると連合国軍の反撃が始まった。その始まりの地はイラン戦線であった。連合国はイラン、特に沿岸部では空軍力については優勢であり枢軸国軍の補給線を空中から叩きソ連軍は少しずつその戦力を削がれていた。そして、1942年4月に空軍力を背景にして連合国はケルマーン一帯に進軍してソ連軍を破った。


 ソ連軍はイラン奥地に撤退し、状況を打開する為にドイツと共同で連合国軍の策源地であるイラクを制圧することを決定した。それはソ連軍が山岳地帯を突破し東から、ドイツ軍及びイタリア軍がティグリス・ユーフラテス両河川沿いに北と西から進撃し、三方向からバグダットに迫るというものであった。1942年7月に作戦は発動した。

 後にメソポタミアの会戦と呼ばれることになるこの戦いは激戦を極めた。連合国は山岳地帯でソ連軍の進撃を阻止することに成功し、ドイツ軍やイタリア軍に対しても1ヶ月に渡る攻防戦を経て戦線は膠着状態になった。ドイツ・イタリア軍はアメリカからのレンドリースを得て戦力を増強した連合軍に対して劣勢に立たされる場面もあったが、戦史上では低く評価されがちなイタリア軍のふんばりもあり戦線を維持することに成功した。

 しかし、8月初めにスエズに連合国軍部隊が上陸するとドイツ軍は後退をせざるえなかった。連合国軍の勝利である。そこから連合国軍の反撃が始まり、10月中までにエル・アラメインまで戦線を推し戻した。さらに11月には連合国軍はトーチ作戦を発動してモロッコ、アルジェリアへの上陸を敢行し、成功して地中海一帯の制空権を押さえたのである。

 そこにかつてのドイツ・アフリカ軍団の面影は無かった。地中海の制空権を連合国軍に奪われたために補給は届かず、メソポタミアの会戦で損耗した軍団は戦力を立て直すことが出来なかったのだ。おまけにアメリカは90ミリ砲を搭載してソ連軍のT-34戦車を圧倒できるM26パーシング戦車を投入し始めたのも致命的であった。結局、1943年5月までにドイツ軍はアフリカから撤退した。


 一方、イラン戦線でも反撃が始まっていた。1942年10月に枢軸軍は再び攻勢に出るも、ソ連とトルコとの間にほとんど連携がなく、日米英を主力とする連合国軍に阻止された。連合国軍は北上を開始し、翌年7月にはテヘランを奪還した。枢軸国軍はイランからの撤退を開始し1944年4月にはソ連軍をカフカス山脈の向こうに追いこまれた。


 1943年7月に日米英を主力とする連合国軍はシチリア島上陸参戦を敢行し、8月には完全に占領するに至った。

 それ故にイタリア本国ではファシスト党が勢力を失い最高指導者は失脚し、9月に連合国軍がイタリア本土に上陸すると新政府はすぐさま連合国に降服したのである。しかしドイツはそれを許さず幽閉されていた最高指導者を救出すると、イタリア北部で親独的イタリア軍部隊とともに抵抗を行った。

 彼らは山地に頑固な陣地を築き連合国軍に大きな損害を与えた。しかし連合国軍は進撃を続けた。特に白兵戦における日本兵の活躍は特筆に価するものであり、他の連合国将兵の人種観に大きな影響を与えた。1945年の4月末には最高指導者をパルチザンが捕らえ処刑し、5月末に遂にイタリアのドイツ軍が降服した。


 連合国では戦死者が増えつづけていることで厭戦気分が高まっており、一刻も早い終戦が望まれた。特に兵站上の負担が大きい日本は顕著だった。おまけに2月にはソ連軍が朝鮮半島で第3次攻勢を開始したので、兵力をそこへ集中したかった。瞬く間にソウルを占領され、1944年5月の時点では朝鮮半島において連合国側の勢力圏は、釜山を中心とする半径100km弱程度の領域、俗に言う釜山円陣を残すのみとなっていたのである(注3)。


 連合国軍は早期に西欧を枢軸国軍から奪還すべく、かねてより準備が進められていた第2戦線の構築、すなわち北フランスへの上陸作戦を決行することとなった。上陸地点としてノルマンディー海岸が選定され、極東戦線における反撃作戦と同時に実行することとなった。

 1944年6月6日に実施されたノルマンディー上陸作戦は、ドイツ南部や旧オーストリアに主力を配備していたドイツ軍の隙を突くことになり成功に終わり、8月末にはパリを解放した。

 一方、極東戦線でも連合国はソウル近郊の仁川への上陸作戦を実行し、こちらも成功してソ連軍は朝鮮半島の最狭部である平壌から元山を結ぶラインまで一気に押し戻された。


 ドイツ軍が戦力を建て直し、1944年12月にベルギーで反攻に転じた。後にバルジの戦いとして知られるこの戦いにはドイツは出せる限りの総力を結集した。しかし連合国軍の進撃に遅れは発生したが、止まる事はなかった。制空権が連合国側に優勢である状況ではできる事に限りがあったのだ。連合国軍は5月にはライン川に達し、遂にドイツ本国へと侵入した。これによりソ連は西の防備を固めるために極東戦線から部隊を引き上げざるえなかった。極東戦線において連合国は1945年6月までに鴨緑(アムノク)江に達しったのである。こうして日本は極東におけるソ連の圧力を低減するという戦争目的を達成した。本末転倒もいいところであるが。


 ドイツ軍が頑固に抵抗するものの1945年11月には戦線は遂にエルベ川に到達したが、そこに極東から転出したソ連軍が加わり、戦線は膠着状態になった。

 連合国軍は枢軸国に圧力を加える為に未だに枢軸国支配下のギリシャやノルウェー、デンマークの奪還作戦を行った。これらの作戦は枢軸国軍の抵抗は軽微で簡単に成功し(注4)トルコが枢軸国から離脱するという結果をもたらしたが、主戦線は動かなかった。


 限界だった。もはや枢軸国は国力の限界に達していて、特に国土の半分を失っていたドイツにはこれ以上の戦争遂行は不可能だった。連合国側でも死者ばかりが悪戯に増える状況に厭戦気分が高まっていた。両者が停戦交渉を開始したのは当然の成り行きだった。

 一方、極東戦線は苦しい状況が続いていた。ソ連軍の兵力はだいぶ減ったが、それでも相当の戦力を残しており、中国共産党のゲリラ戦術も苛烈であった。


 1946年8月15日、休戦協定が結ばれ、戦争は終わった。だが、それは新たな戦いの始まりでもあった。大国同士が直接、戦火を交えることなく進む冷たい戦争、東西冷戦の始まりである。




注釈

注1―5.15事件―

 その参加者、首謀者は厳重に処罰され、事件は軍部の引き締めに利用された。


注2―在朝米国人虐殺事件―

 枢軸側、特にソ連は当時から現在に到るまで「事件は日米の陰謀である」と主張している。連合国側の資料には不審な点があるのも事実で、現在でも事件の真相を巡る論争が続いている


注3―釜山円陣―

 特に大邱(テグ)正面、多富洞(タブドン)陣地における某韓国陸軍少佐の活躍は有名である。戦前まで形式的な皇帝護衛部隊に過ぎず国防を日本に頼っていた韓国軍は1939年に日本の命令で軍備増強を開始したものの、不十分な状況でソ連軍を迎え撃たなくてはならず各地で苦戦をしたものの、国土防衛のために全力を尽くして壮絶な死闘を演じた。


注4―ギリシャ上陸作戦―

 連合国のギリシャ上陸後、ドイツはパルチザンと停戦し、ユーゴスラビアの中立化を条件に撤退した。これにより、ドイツは南部方面の防備を固めることに成功し、また連合国軍はユーゴスラビアを通過して、枢軸領域へ侵攻することはできなかった。

(改訂 2012/3/20)

 実在の人物の名前をカット

(改訂 2015/6/14)

 内容を一部変更

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