その2 動き出す世界
アメリカ合衆国ワシントンDC ホワイトハウス
アメリカ東部はまだ18日の真っ昼間であり、大統領はホワイトハウスで執務中であった。
大統領官邸として知られるホワイトハウスは、ワシントンのペンシルベニア通り1600番地にあり4つの棟から構成されている。最も有名なのはレジデンスと呼ばれるメインハウスであり、その左右に渡り廊下で繋がったイーストウイングとウエストウイング、そしてウエストウイングのさらに西側には副大統領府などが置かれるアイゼンハウアー行政府ビルが建つ。
ホワイトハウスと聞くとどうしてもレジデンスの姿を思い浮かべがちであるが、それはおもに大統領一家の公邸として、または条約調印や晩餐会などの重要な行事の会場として使われ、大統領が実際に執務を行なう大統領執務室はウエストウイングの建物の中にある。
「大統領閣下。緊急事態です」
オーバルオフィスの自分の革張りの椅子に座り書類に目を通していた合衆国第43代大統領トーマス・ライアンは、初老の国家安全保障担当補佐官イアン・マクガイヤーのこの一言で職務を中断された。
「一体何事だ。イラクがなにかやらかしたか?」
湾岸戦争でイラクには大きな損害を与えたが、今でも地域の情勢を動かせる程度の軍事力を保持していて、その動向はアメリカも注視していた。
「いえ、極東です。中国・韓国国境線で偶発的戦闘が発生した事を確認しました」
イアンは、冷静に答えた。
「事実か?」
「はい。日本からも同様の情報が入っています」
ライアンは、机の上に置いておいた愛用のメガネをかけ、イアンを見つめた。
「ソ連軍の動きは?」
「はっ。現在はまだ詳しい情報は入っていませんが、極東で何らかの動きに出てくるのは確実かと思われます」
報告を聞いたライアンは少し考えた後、第二次世界大戦以来、歴代の大統領が何らかの軍事的緊張と遭遇した際には必ず言っていたであろう台詞を口にした。
「空母はどこにいる?」
ソビエト社会主義共和国連邦モスクワ クレムリン
ソビエトの象徴とも言えるクレムリンは帝政ロシア時代に建造され、現在は共産党の中枢が置かれている。ロシア語で城塞を意味する名前を持つこの施設は、いくつかの宮殿と聖堂、20の塔から成り、ソビエトの指導者はカザコフ館とも呼ばれるかつての元老院にその執務室を置いている。
現在のその部屋の主はアレクセイ・ニコラエビッチ・ニキーチンであり、その肩書きはソ連共産党中央委員会書記長である。書類上のソビエトの国家元首は立法から行政まで広範な権限を有する最高会議の議長である幹部会議長ということになっているが、実際としては共産党書記長の方が格上であった。
モスクワの時刻は18日の夜の8時を過ぎたころであった。執務室で自らの職務を処理していたニキーチンのところへ、1人の部下が駆けて来た。
「同志ニキーチン。極東で非常事態です」
「何があった?」
「中国と韓国が軍事的衝突をしています。詳細は不明です。規模は小規模ですが、これから拡大する可能性が高いようです」
ニキーチンはそれを聞くと溜息をついた。ソ連の指導者は表向きには共産主義の同志である中国との友好を訴えているが、真の友好関係を築けることができると考える者は1人もいなかった。かつての中ソ対立の影響は今も残っているし、ロシア人の多くは“タタールのくびき”(注1)は中国人によってもたらされたと勘違いしている。
しかし、それでも中国の友好関係は重視されなくてはならない。経済が停滞し、西側との格差が広がる一方のソ連にとって、一応は資本主義経済を取り入れることに成功し、経済成長を続ける中国を無視することなど到底できないのである。
「よろしい。帰った政治局の連中を呼び戻せ。会議だ。それと日本大使館と連絡をとってくれ」
「日本大使とですか?」
「そうだ。この問題の解決には、日本との連携が必要だ」
実は日本とロシア、ソ連との関係は必ずしも悪いわけではない。日露戦争後には日露協商を結び事実上の同盟国となったし、ロシア革命後でもいくらか友好な関係を築いていた。実際のところ、ソ連の首脳部は中国より日本の方を信頼していたのである。
中華人民共和国 首都北京 中南海
北京は9日の午前1時を過ぎた頃であった。
歴代中華帝国の皇帝の宮殿として使われ、現在は博物館となっている紫禁城の西側には中南海とよばれる区域がある。厳密には中南海は中海と南海という2つの湖を指すのだが、その周りに歴代皇帝の離宮が建てられ政治的な意味が加わるようになった。現在は中国共産党の本部や行政機関の国務院が置かれ、政府要人の居住施設もある中華人民共和国の中枢となっている。
そんな中南海に3人の将官が中国の元首たる国家主席兼共産党書記長の張徳平から呼び出しを受けていた。3人とも人民解放軍の指揮権を握る共産党中央軍事委員会のメンバーで、軍の首脳と呼べる人物であった。ちなみに張が中央軍事委員会の主席も務める。
張徳平は反自由主義の強硬派である。彼が中国の最高指導者の地位に就いた背景には改革派政権が天安門事件の始末に失敗したことがある。国内の問題はなんとか収拾した。しかし鎮圧の為に正規軍を投入し、なおかつその光景を中国に進出していた西側メディアによって世界中に報道されたのが問題であった。欧米諸国は中国に対する態度を硬化させ、武器輸出禁止措置や最恵国待遇廃止など経済制裁を実行した。それは必ずしも重い措置ではないものの中国政府の面子を傷つける事になり、中国は同時期に改革派政権の下で中ソ対立の終焉を望んでいたソ連に接近した。
中国とソ連の連結を嫌う日本は天皇陛下の訪中により中国が西側世界から孤立することを阻止しようとしたが国内の右派からの反発で実現ならず、中国と急接近していたソ連でもペレストロイカ体制が崩壊したこともあって中国はふたたび1960年代に後戻りしたのだった。そんな中で権力を握ったのが張徳平というわけだ。
ただ張は反欧米一辺倒というわけではない。政治的にはソ連に接近する一方、経済的には改革・開放政策を継続して西側資本を呼び込んでいる。例えどんな事件が起ころうとも、10億人を超える安価な労働力と巨大な市場―この2つは実は矛盾している―の魅力に西側企業は背を向けられなかったのだ。中国は再びソ連圏に入り込んだというより、西側陣営と東陣営の間にうまく入り込んだという方が正しいのかもしれない。
張のオフィスの扉が開き、3人の将官が入室した。先頭は中央軍事委員会の副主席で国防部部長-国防部と言っても、人民解放軍は実は党の軍隊であるため、国の機関である国防部には大した実権は無い-を兼ねる陸軍大将、夏永貴。それに続くのが委員の1人で陸軍参謀総長である陸軍大将、梁高麗。そして最後に入室したのが、やはり委員の1人で海軍司令官である海軍大将、鄭光華である。
待ち構えていた張は革張りの椅子から立ち上がり、3人を迎えた。
「主席閣下。真夜中に起こしてしまって申し訳ございません」
「かまわないさ。国家の危機に迅速に対応するのが元首の役目だ。現状を聞かせて欲しい」
張は寝起きとは思えない力強い声で言った。
「はい。陸軍の同志たちが韓国軍の更なる攻撃を防ぐために展開しております。明け方には国境線に7個師団が集結します。また海軍も艦隊を出動させ、韓国軍が黄海で我が国に敵対行動をとることを阻止しています」
夏が3人を代表して説明した。彼は張の忠実な部下のように見えるが、実は張ら強硬派の反対に位置している国際協調派の1人であった。国際協調派は現在では冷遇されている徐雲山率いる派閥で、欧米と親密な関係を保ち経済改革を進めていこうという立場で、ソ連との友好を深め軍備増強を目指す張の一派と対立している。そんな夏が軍事の中枢にいるのは、国際協調派を抑える目的もあるが、それだけ彼の手腕が評価されているからである。実際、彼は張に尽くし人民解放軍の近代化を推進してきたのである。
「で、どちらが先に撃ったのだ?」
張が拘ったのはその点であった。
「報告では、韓国側が発砲を行なったと」
答えたのは、梁大将であった。
「間違いないのだな?」
「はい。そのようです」
「よろしい。では、国境線の防衛を継続してくれ。必要なら越境してもかまわない。今後の方針は中央委員会で決定する。委員を召集次第開始するから君達は待機していてくれ」
張は“国境線の防衛”という部分を強く強調した。
大韓帝国 帝都ソウル
大韓帝国の行政の最高責任者である国務総理は、皇帝の宮殿である景福宮の一角に建てられた青い屋根の官邸、青瓦台で執務を行なっている。かつて韓国統監府総督の住居であったこの建物は、韓国の主権回復の折りに韓国政府に譲渡され今に至っている。
そんな青瓦台は真夜中であるにも関わらず、慌しくなっていた。
執務室にようやく全閣僚が集結した。真夜中に叩き起こされたためか、眠そうな者がほとんどであった。
「諸君、すでに聞いていると思うが。国境線で我が軍と中国軍の衝突が発生した。死傷者も多数発生しているようだ」
大韓帝国国務総理、李憲永は立ち上がって円卓に並ぶ閣僚たちを見渡した。
「すでに日本やアメリカも動き出している。大事に発展しない間になんとか解決したい」
「国境線の状況はどうなっているのですか?」
そう尋ねたのは外交通商部長であった。それには国防部部長が立ち上がって答えた。
「軍からの報告によれば、国境警備の部隊は後退したものの、中国軍部隊は越境しておらず、散発的な砲撃が繰り返されているだけで、情勢は楽観できるということだ」
大韓民国慈江道 国境線から内陸へ2kmの地点
国防部長は楽観論を述べたが、前線の兵士たちは正反対の考えをしていた。
チャンソクらは中国の南侵に備えて予め掘られていた塹壕の中に身を隠して、中国軍の砲撃を凌いでいた。中国軍は122ミリ砲だけでなくより強力な152ミリ榴弾砲も使い出したらしく、砲撃はますます激しくなった。“散発的”という国防部長にもたらされた報告は大きな間違いである。
「曹長殿!どうして奴らはこんなに砲撃をしてくるのでしょうか?」
部下の兵士が半ば泣きながら尋ねてきた。
「分からん。もしかしたら越境するつもりなのかもしれん」
そんな会話をしている内に、味方の側からも大砲の発射音が聞こえてきた。どうやら韓国側も砲兵部隊を投入したらしい。
中国軍 第16集団軍司令部
午前2時の時点で第16集団軍隷下の第46自動車化歩兵師団が第一陣として国境線に到着していた。その師団は国境警備の部隊の代わりに最前線に立っていた。その師団の司令官である中将は長春市の集団軍司令部に出頭したのは国境線への到着の三十分後であった。
司令部の置かれているテントの中に入ると、司令官が幕僚とともに机の周り立って作戦を練っていた。机の上には地図が置かれている。司令官は師団長に気づくと、部隊の状況を尋ねた。師団長が簡潔に答えると、司令官は満足そうに頷いた。
「それで我が軍は砲撃によって、対岸の韓国軍の攻撃を阻止しているのですが、敵も砲撃で応戦してきました。このままでは国境線の維持が難しくなります。越境して敵の砲兵部隊を一掃する許可を頂きたい」
師団長の言葉を聞いた司令官は、集団軍司令部付政治将校に向き直った。
「党は越境も認める、と言っていたな?」
「はい。国境の防衛に必要なら」
「よろしい。越境を許可する」
国境線
越境の第一陣は第46自動車化歩兵師団の装甲連隊であった。装甲連隊は3個戦車大隊に自走砲大隊、機械化歩兵大隊を加えた諸兵科連合部隊で90輌以上の戦車と18輌の122ミリ自走榴弾砲が配備されている。
主力となるのは中国国産の79式戦車である。79式はソ連の戦車T-54の中国版である59式戦車を独自に改良した69式戦車に、さらに西側から得た技術を投入して開発された戦車である。例えば主砲は105ミリライフル砲で、戦車砲としてベストセラーになった英国のロイヤル・オードナンスL7を中国でライセンス生産したものだ。このように様々な改良を施されているが、結局のところ戦後第2世代戦車の域を超えるものではなかった。
装甲連隊は師団砲兵の援護射撃の下、国境線に架かる橋の1つを渡った。韓国砲兵は中国砲兵の制圧に力を注いでおり、国境を越える部隊には気づきさえしなかった。
国境を越えた中国軍が最初に遭遇したのは、前線監視をしていた韓国軍の偵察部隊であった。非力な歩兵の集団に過ぎない偵察部隊は、中国軍越境の報と砲撃の要請を行なうと、すぐさま後退して主力部隊に戻っていった。
かくして、中国軍は韓国への侵攻の橋頭堡を築いた。
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