その1 国境線にて
1月9日
大韓帝国・中華人民共和国国境線鴨緑江 大韓民国慈江道
時刻が午前0時を過ぎ、1月9日を迎えたばかりの中韓国境。川が沿っていて、川の両側には川原、その外側には土手が築かれ、その上の道には常時、警備の兵士達が巡回をしている。
韓国陸軍曹長オ・チャンソクは、何時ももどおりに1個分隊を引き連れて国境線の警備を行なっていた。何の灯りも無い夜道を顔に装着した暗視装置を頼りに進んでいたのである。
道の先に監視所が見えた。チャンソクは手元の時計を見ると、警備行動を開始して既に4時間たっている。陸軍の規定では、1時間ごとに5分間の小休止を、そして3度の小休止の後に1時間の大休止をとることになっている。
「よし。監視所で1時間の休息だ」
それを聞いた兵士達の顔から緊張感が一気に引いた。笑みを浮かべる者も居る。あと監視所まで数十メートル。あと少しで兵士達は体を休める事ができる…筈でだった。しかし、それは一人に兵士の言葉により、崩壊した。
「隊長。国境線に人影が!!」
その声を聞いてチャンソクは慌てて国境線である川を見た。そこに、二つ人影を確認できた。着ているのは軍服ではない。どうやら民間人のようだ。
「商魂たくましいことだ」
おそらく地元の商人だろう。彼らは遥か昔から国境を越えて交易をしているのだ。無論、違法行為であるのだが両国ともある程度は黙認しているのが現状である。
「隊長。後方より中国軍の兵士が・・」
チャンソクがわずかに顔を上に向け、商人の奥に照準を向けた。確かにそこには、中共軍の軍服を着た銃を持った兵士が商人を追いかけている。先導しているのは若い士官のようだ。
「おい。国境線を越えるまで手を出すなよ」
口とハンドサインで部下にそう伝えると、チャンソクは商人と兵士に意識を集中した。商人に手を出すのは珍しい。賄賂の交渉で拗れたのか、それとも新任の士官で実情を知らずに行動をしているのか。どちらにしても厄介な話である。
すると中国軍の兵士がこっちに視線を向けた。一瞬、目が合ったような気がした。
「助けて…敵に…」
隣の部下の悲鳴が聞こえた。チャンソクは暗視装置を外して、その部下に目を向けると、小銃を構えて中国兵に向けている。
「まて!撃つな!」
しかし、すでに遅かった。引き金にあてられた指は力強く引かれ、国産小銃の銃身から5.56ミリの弾丸が空中に放たれてしまった。
チャンソクはその部下の頬を思いっきり殴った。
「貴様!何故撃った。」
「中国軍が…俺を…俺を…狙ってる…殺される・・・」
「バカ!ただこっちを見ただけ・・・」
言い終わる前に中国軍からの応戦がきた。中国軍の小銃から放たれる弾丸は、監視所の窓ガラスを破壊した。チャンソクや部下、監視所に常駐していた兵が一斉に伏せて、弾丸から逃れようとする。
一瞬、弾幕が止んだ。チャンソクは慌てて暗視装置を付け直し、草むらから中国兵を見た。1人の中国兵が筒状のものを肩に抱え、その先端をこっちに向けている。
「RPG!」
その瞬間、チャンソクの視界が光に包まれた。
ソウル龍山地区 軍事施設群
龍山は韓国の軍事の中枢と言っても過言では無いだろう。この施設群には韓国陸軍本部、日本陸軍朝鮮軍司令部、米陸軍第八軍司令部、日米韓連合軍司令部など様々な司令部機能が集中しているからだ。特に連合軍司令部は朝鮮半島に存在する3ヶ国の軍隊を全て指揮する権限を有し、戦時の韓国における軍事最高司令部として機能しているわけだが、その司令と副官は日本とアメリカからそれぞれ1人ずつ選ばれる制度になっていて主権者たる大韓帝国は蚊帳の外であった。近年になってようやく平時の指揮権限を連合軍司令部から奪還したものの、戦時の指揮権は依然として連合軍司令部にあり、韓国と日米間の政治的文化的な対立の要因の一つになっていた。西暦2000年、皇紀2660年現在の連合軍司令官は第八軍司令官であるマイケル・チャールストン大将で副官は朝鮮軍司令官の飯田正巳大将となっている。
そんな施設群の一角、大型のアンテナ類が目立つ建物に陸軍参謀本部直属の通信情報収集機関である中央特種情報部の分遣隊が配置されていた。当直将校は女性の中尉で薄暗いコンピューター画面に囲まれたオペレーションルームにて数人のオペレーターたちとともに今夜もつまらない夜を過ごすはずであった。
通信の状況を監視しているオペレーターの1人がそれに気づいた。
「当直。無線電波の発信が格段に増えています」
中尉は自分の席から立ち上がると、そのオペレーターの所へ駆け寄った。
「発信源は?」
「慈江道を中心に国境線全域です」
それを聞いた中尉の顔を見る見る青ざめていった。彼女は狭い室内を走って自分の席に戻り、机上の電話の受話器を取り、分遣隊の指揮官である少佐に電話をかけた。
「非常事態が発生しました」
15分後、就寝中に叩き起こされた少佐が、彼のカウンターパートであるアメリカ国家安全保障局NSAの将校とともに龍山に現われた。
「チャールストン大将は?」
「国防総省の会合に出席する為、2時間前にワシントンへ発ちました。ですから現在の先任はイイダ将軍です」
「すぐにここにお連れしなければ。今、自宅にはいないらしい」
「我々も独自で情報を収集します。また後で」
そう言うと、NSAの将校は自分達の建物へ去っていった。少佐はそのまま中央特情部のセクションに進み、衛兵に身分証を見せて建物の中に入り、次いで機密区域への入り口のドアの前に立った。ドアに電子ロックが掛けられていて、専用のIDカードが無ければ、奥へ進むことができない。少佐は情報部の人間なのだから当然に持っている。
ドアが開くと少佐はまっすぐオペレーションルームに向かった。
オペレーションルームに入ると、オペレーターたちが狭い部屋の中を動き回り仕事をしていた。
「現状は?」
少佐は当直の中尉に尋ねた。
「どうやら国境線で中国と韓国の警備隊が戦闘を行なっているようです。両軍の通信が活発になっていまして、これは中国軍の通信を翻訳したものです」
そう言うと彼女は一枚の紙を少佐に手渡した。
<至急、至急。韓国軍の攻撃を受けた。増援を求む>
「平文か?」
「はい。暗号化はされていませんでした」
相当慌てているようだ。
「三宅坂には報告したか?すぐに人員を集めろ!これはただ事じゃない!」
ソウル 南山
ソウル龍山区の北側には南山という丘がある。頂上には総合電波塔としてソウル都市圏のテレビ及びラジオの送信を行なうソウルタワーが建ち、併せて南山はソウル市民の憩いの場となっている。日本陸軍朝鮮軍司令官である飯田大将もこの丘に魅せられた者の一人だった。
雪がちらつく中で飯田は1人、古い一眼レフカメラを持って幻想的ですらある街の風景を写真に収めていた。南山からはソウル市内を一望でき、決して眠らない街の夜景を楽しむことができた。
「飯田将軍閣下!」
自分を呼ぶ声を聞き、飯田は振り向くと、そこに野戦服姿の下士官が2人、自分のところへ走ってきた。
「緊急事態です」
東京三宅坂 陸軍参謀本部
この夜、参謀本部にいた最先任の高級将校はソ連情報の専門家である第五課長の吉沢綱吉大佐であった。
「現状は?」
そう尋ねながら、腕時計で時間を確かめると午前1時を少し過ぎたくらいだった。
「韓国軍が国境線沿いの4個師団を北上させています。中国軍も国境線付近の部隊を南下させています。このままでは衝突は時間の問題かと」
「まいったなぁ。海軍と空軍は?」
「特情部が傍受した青海の北海艦隊司令部が発した暗号文がこれです」
そう言って吉沢に一枚の紙を差し出した。
<司令部より全艦へ。全艦は可及的速やかに出動せよ。繰り返す、可及的速やかに出動せよ>
「最悪だな。現地の状況は?」
「朝鮮軍司令部に飯田大将閣下がすでに出頭しておりまして、司令部は安定しているようです」
それを聞いて吉沢は辺りの見回した。彼より位の大きい軍人はいない。
「こっちの将官はどこにいる?大臣はどこだ?」
首相官邸
時間は午前2時を過ぎていた。ベッドの上で眠っていた宮川は、寝室の扉を誰かが叩く音で目を覚ました。宮川は上半身を起こした。
「入れ。いったい何事だ?」
ドアを開けて入ってきたのは宮川の秘書であった。
「総理。緊急です」
「なんだって?朝鮮か?」
昨日の会議のこともあり、宮川はすぐにそれを思い浮かべた。
「はい。中国と韓国との間で衝突が発生したそうです」
それを聞くと宮川はベッドから降りて立ち上がった。
「よろしい。ただちに兵部大臣と外務大臣、内務大臣、それと内閣書記官長を呼びなさい。あと各省の関係する部署からも人を呼ぶんだ」
「手配します」
そう言うと秘書官は部屋を出て行こうと、宮川に背を向けた。
「待った。あと警視庁に中国と韓国、それにソ連の大使館の警備を厳重にするように言うんだ」
龍山 朝鮮軍司令部会議室
同時刻、司令部には朝鮮軍の主要な部隊の指揮官がすでに集結していた。軍司令官の飯田大将に、第20師団長の姶良彰彦陸軍中将を筆頭とする朝鮮軍直轄部隊の指揮官達である。彼らは会議室の自分の座り、前で説明する情報士官の言葉を聞いていた。
「午前一時半現在、把握している情報をまとめますと、韓国軍の第2、第7、第15、第20師団が国境線沿いに展開しています。中共軍も6個師団も前進させています。状況は悪化するばかりです」
「内地からの指示は?」
飯田は彼の参謀の1人に尋ねた。
「まだなにも言ってきません」
それを聞き、姶良が立ち上がった。
「中央の指示など待ってられません。情報収集のために捜索第20連隊を国境まで前進させる許可を頂きたい。すでに平壌まで前進させております」
「よろしい。捜索第20連隊に対して国境線での情報収集を命じる」
こうして帝国軍も動き出した。
線鴨緑江
それぞれの国境警備隊に増援部隊も加わり、戦闘はどんどん拡大していた。チャンソクとその部下達は土手の裏に隠れて、中共軍の銃撃を防いでいた。RPGの攻撃で多くの兵士達が負傷したが、増援を得て何とか盛り返していた。
中共軍の銃撃が一瞬、弱まった。
「今だ!応戦しろ!」
増援として駆けつけた中隊の指揮官である大尉の怒鳴り声が聞こえる。チャンソクはジェスチャーで兵士達に応戦するように伝えた。土手の陰から兵士達は銃と顔を出すと、対岸に見える敵小銃の発射炎の光を狙って、皆が引き金を引いた。国境の戦いは韓国側有利に進んでいるように見えた。
すると空からヒュルヒュルヒュルという音が聞こえてきた。
「砲撃だ!逃げろ!」
チャンソクが叫ぶと、兵士達は土手の下まで転げるように落ちていった。それとともに、砲弾が土手の上に次々と落ちて、轟音とともに砂煙を巻き上げた。
「分隊長!この砲撃は!」
部下の1人がチャンソクに必死に掴まっている。顔は今にも泣いてしまいそうな様子である。
「おそらく122ミリ榴弾砲だ!」
それは中国軍の連隊以上が展開していることを意味している。増強中隊が相手をするべきではない。それに気づいたのか大尉が撤退を命令した。
「総員!撤退せよ。防御線に後退する!」
かくして中韓国境の防衛線に穴が開いた。