第八話 赤眼の操師
部屋を出たルトは、扉に寄りかかり暗い廊下を見つめて立っていた。
――全部聞こえてるっつーの
部屋を出ていくと同時に花開いたルトへの悪口は、もちろん全て壁越しで把握できる。それほどに声量がどれも大きい。翠の瞳は暗い廊下を写し続け、その暗い表情には先ほどまでの無感情な固い顔とは違い、少しだけ心情が読み取れる。そしてため息を吐くと、無表情に戻り、スタスタと姿勢よく歩き出した。
迷路のような廊下を潜り、階段を上がる。相変わらず窓もなければ同じ様な光景の繰り返しである。数年間勤める施設員であってもなかなか施設の全てを把握できない理由もこのためであろう。しかし、ルトは特に迷うことなく目当ての部屋まで来たようだ。扉を開け、中へ入る。
小さな部屋だ。薄暗い部屋は、物は少なく、ベッド、木でできた机と椅子が1つずつ、壁に取り付けられた3つのフックにそれぞれ服と鞘に納められた大剣がかかっている。生活感はほぼ無いが、ルトの自室らしい。ルトは多少安堵の表情を浮かばせると黒いローブを床に脱ぎ捨て短剣を机に置き、自身は椅子に項垂れるように座り込んだ。黒いローブを脱いだルトの服装は、質素な白いシャツに黒い長ズボンである。どこを見るでもない無表情さだが、どこか思案する姿は傍から見れば美しい。冷えた薄暗い部屋はどこか魔力持ちの人間が捕らえられている石牢と雰囲気が近い。ルトが静寂に包まれ短い休息をとろうとした時だった。
ノック音が響く。
ルトは弾かれたように顔を上げ、表情を動かした。怯えるように小刻みに揺れる翠の瞳は、部屋の中で薄闇を纏う。
しかし、もう一回ノックが響く。特に焦っているようなものでなく、むしろ軽快に木のドアを敲く音。
ルトは諦めたように一度瞼を下ろすと震える体を抑え込んで立ち上がった。
「少々お待ちください。今行きます」
震えを感じさせない冷静で涼やかなルトの声が、ドアの向こうの者へ届けられた。口調が丁寧なのはドアの向こうの人間を予想できているからである。
ドアを開けると、ルトの予想通り赤い髪の女が立っていた。艶のある赤い髪は女の華奢な肩までで揃えられている。目鼻立ちのすっきりした細目美人な顔には、暗めの赤い瞳が鈍く輝いている。ルトの記憶では30代から40代半ばの年頃だが、不思議と皺は少なく、20代後半と言っても気づかないだろう。もっとも、ルトには判断基準が乏しいため、そのような若々しい顔を褒めるほど気を利かせられないだろう。全体的に黒をベースにしたぴっちり仕様な制服を着こなしている。上等な質の生地に、金物がいくつか縫い込まれており、ズボンは動きやすい仕様である。施設長の制服だった。
ルトは先ほどまでの怯えた表情を嘘のように変え、優しげに微笑んだ。翠の瞳は変わらず暗いが、初対面の女ならば赤面する程に穏やかな表情を見せる。
「すみません、マスター。少し休んでから伺おうかと思っておりましたが、わざわざお越しになるとは」
ルトの言葉に多少満足げに顔をほころばせた施設長は、切れ長の目を細め、口を開く。
「嘘ばっかり、今もできれば居留守しようとしたでしょ」
それに対してルトは、わざとらしく驚いたように眉を上げてみせる。
「そんなことないです。どうして俺がマスターにそんなことできるんですか」
女を口説くような深みのある声でルトは続けた。
「マスター、立ち話もなんですし、中へ入られますか?」
「ええ、そうね」
施設長はルトを見上げながらも、その瞳が隠しようもない威厳を発してくる。
「俺1人だから暗くしてたんです。今明かりを……」
ルトが施設長を招き入れ、ドアを閉めた時だった。施設長は、あからさまに女の色気たっぷりにルトの胸の内へと抱きついた。ルトは驚きもせず、手慣れた所作で大人しく彼女を受け入れ抱き返す。細められた翠の瞳には憂いを覗かせ、それが自然と色気を生み出す。施設長は、ルトの瞳を見つめ、熱を持ったように顔を火照らせる。
「綺麗ね」
施設長がぽつりと呟く。
「……ありがとうございます」
ルトは礼を返すと、施設長を軽い物を持つように素早く抱き上げた。どこかの国の姫を抱き上げるような丁重な姿勢でそっと歩き出す。まるでそれがお決まりのパターンであるかのように、慣れた所作であった。
そして、恭しく割れ物のように施設長をベッドに腰掛けさせる。自身は施設長の傍にしゃがみ込み、施設長のブーツを脱がせようとする。施設長は嬉しそうに顔をほころばせ、されるがままにルトの頭を撫でる。まるで脚にしがみつくペットを撫でるように。
ルトの茶色い髪は細く、さらさらとした感触である。手の中で楽しむようにした動作からも、熱のこもったその赤黒い瞳からも、この施設長がルトに好意的なことは目に見えていた。
「もう17歳か、すっかり大きくなったわね」
ルトがブーツを脱がせ終えたところで、施設長はその長い指先をルトの頬にやり、上を向かせながら言った。足を組んで悠然と見下ろすその動作は、ある意味女王と呼ぶにふさわしい。
ルトが笑顔を見せる。そのあどけない表情が年の若さを物語る。しかし、暗く複雑な心境を一瞬あらわしたその瞳は、様々な経験を積んできたことを主張する。
「あなたのおかげです。マスター」
艶のある、甘えたような声音と表情に施設長は満足そうに目を細める。そしてルトの唇を啄むようにキスした。しかし、重ねたのみで数秒のうちに施設長はその唇を離す。
再びルトを見下ろすその瞳には、抑えようもない程に狂気がちらついていた。
ルトはその瞳に見入ると翠の瞳を微かに揺らした。
その形のいい唇の端をつり上げ、施設長は口を開く。
「ねえ、そこにある、机の上の短剣を頂戴」
ルトは眉を下げた。無表情を装うが、瞳には明らかに恐怖が映る。
「何故ですか」
「いいから早く」
施設長はルトの質問には答えず怪しく笑う。赤黒い瞳は、燭台の微かな炎の揺らぎのためにルトには地獄の炎のように感じられる。ルトは立ち上がると、大人しく机に置いていた短剣を目の前の女に手渡す。手には微かに震えがあったが、相手はそれすら楽しんでいるかのようにフワリと笑って見せる。
「ありがとう、恨まれる役柄だからね。やっぱり近くに武器があると落ち着くわ」
笑顔のまま優しい声で施設長は礼を告げ、片手で短剣を受け取った。首を傾げて続きを言う。
「ここに座って」
施設長は隣のスペースに片手を置き、ポンポンと叩いてみせる。
ルトは青い顔で一瞬戸惑う素振りを見せたが、無言のまま、ゆっくりと浅くベッドに腰掛けた。
「ねえ、金髪の子、今日どうだったの?」
施設長は甘い女の声で、ルトに問いかける。短剣をベッドの上に置き、片手でルトの首辺りをそっと撫で上げる。ルトは視線を外して答える。
「37番は相変わらずジジの実を食べ続けていましたよ。アイツあれしか食べませんからね。また南国から買い付けなきゃいけない……」
最期は独り言になりながらも、先ほどの出来事を伏せてみる。
施設長は、話を聞きながらも緩やかにルトの上半身に手を伝わせる。そして艶めかしい手つきでシャツのボタンを一つずつ外していく。ルトは細い身体つきだが、金髪の少年ほど華奢ではない。上背もある方だし、はだけた服の合間からは小麦色の肌に程よい筋肉がついている。肌理が細かく綺麗な肌だが、所々傷跡が伺える。
「あの黒髪の子は?金髪の子に何かしなかったかしら」
ルトは無表情を装ったが、ギリギリの質問に思わず冷や汗を流す。同時にホッとしながら施設長に顔を向けた。
「いえ、何も。興味は持っているようでしたが……」
「そう。金髪の子も綺麗な顔してるからね。女はほっとけないわよ」
施設長が肌とシャツの間に手を挟み込み、完全に上半身をはだけさせる。シャツはルトの腕に絡まりついているが、一層そこにうら若い色気が漂う。
「マスターは、37番がお好きですね」
ルトが軽く眉を顰め、嫉妬しているかのようないじけた表情をする。
女はクスクスと笑いながら、いくつか刻まれた傷跡を手でなぞり、頭をよせた。
次話もルト君です。リディたちと早く会わせたいのに意外と長くなってしまいました。
次回はお色気シーン()です。
個人的にはルトの声は声優の緑川さんを宛てています。