ピロローグ
大陸の北部、急峻な山脈の連なるこの地には短い夏が訪れようとしていた。この機に少しでも種の繁栄をと夢見て道端には数多の背の低い草花が生い茂り、より長く陽光のもとに顔を出そうとしている。しかし、今は夜。明日の陽が変わらず我が身に注がれることを祈りつつ月明かりに照らされた草花は一様に黒い影を被っていた。
道といってもさほど利用されていないらしい。北へと延びる道に数本の車輪跡が赤土を刻むのみである。近くに人里も無いためか、静寂がその場を包み、夜行性の動物たちが音もなく道の向こうの森を行き交う。
だが、夢現の静寂が唐突に崩された。馬蹄の音と車輪の重苦しく回転する音を絡ませながら道を南下してくる。馬車は大きな箱形で、道の幅いっぱい馬がひしめきながら引いている。馬の歩速は急いでいる様子が無く、悠々と道草を踏み潰していく。
御者は2人して黒いローブを被り、会話している。
「くそ、道中思ってはいたが、この道はいつ手を入れたんだ。土が柔らかすぎて車輪が埋まってやがる」
「帰りの方が重量があるからな、行き道でならしておけばよかった」
馬車の発する騒音を越えて話しているためか、自然と2人の声量も大きくなっていた。悪態を吐く同業者に同意を表しながらも、馬車の車輪に目を向ける。
「しかし、丈夫な馬車を今回の『選別』に持ってこられてよかった。この様子ならスルールまで持つだろう」
選別ということばに冷ややかな韻を忍ばせつつ、男は安堵の息を漏らす。隣に座す男もニタリと口元を綻ばせると続けた。
「今回は何より質が良い。魔石があの様な面白い反応をみせるとは。早いところ施設に持って行って我らの取り分を頂かねばな」
「違いねえ」
そして、どちらからともなく、くぐもった笑い声が発される。徐々に大きくなる笑い声は、狂った様な哄笑に変わった。笑い声は籠の中まで伝わり、憎悪の念で満ちた多数の瞳が悔し涙を滲ませる。
籠の中に乗せられた者は皆一様に幼い。馬車に揺られて身動きの取れない体を壁や床に打ちつけながら、さめざめと親元を引き離されたことを嘆く幼子たち。
その中で、黒い眼に長い黒い髪を振り乱した少女が、一際表情を歪ませていた。なまじ知識があるだけに、これから身に降りかかる禍事を思うと得も言われぬ恐怖を感じているのだろう。何とか脱出方法をと考えるが、浮かびゆく全ての案が否決されていく。
――せめて魔力が使えたなら……
少女の思考は何度もここに帰結した。しかし、無い物ねだりなのも理解していた。少女は捕縛された際にある液体を無理やり口に含まされていた。恐らくそれが何らかの作用で少女の魔力を一時的に抑えているのだろう。
他の者も例外なく飲まされているらしい。本来であればこの程度の束縛から1人も逃れられないはずがないのである。子どもたちは最初の方こそ魔力を行使しようとしていたが、無駄だと悟ったのか最早何も挙動を示さない。
何とか方法をと思考し続ける少女も、あまりの絶望に視界が滲む。
そんな少女をよそに、ひとしきり笑った御者のうちの1人が思い出したように籠を叩いた。
「そういや、おねんねさせるのを忘れてたぜ」
何かが作動する音と共に少女の意識が遠のいていく。
「今更だろ」
そう言ってまた笑う御者の声がぼやけると闇に吸い込まれていく。少女は程なくして意識を手放した。