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EPISODE01:いえでしょうじょ

この作品は、数年前にとある出版社のライトノベル大賞に応募したものです。

PCの中を整理していたらデータが出てきたので投稿します。

誤字・脱字などあると思いますがご了承ください。

いえでしょうじょ(Homeless)




 春は嫌いだ。

 春のぽかぽかした陽気はところ構わず眠気を誘う。特に昼食後の五時間目は催眠効果が抜群だ。これで読経する僧侶のように、一本調子で授業を展開されようものなら、睡魔に耐えられなくなることは必至だ。授業を受ける側とすればたまったものではない。

 そして春は別れの季節だ。父親が死んだのは暑い夏の日のことだったが、母親は散り行く桜の花びらとともに逝った。小学六年のときに密かに思いを寄せていた女の子は、気持ちを伝えられぬまま私立の中学校へと進学してしまった。中学校の卒業式の日には、三年間同じクラスでそれなりに仲の良かった女子に、一生分と言っても過言ではないくらいの勇気を持って人生初の告白に臨んだ。結果は惨敗だった。理由は付き合っている人がいるから、というものだった。誰と付き合っているのか問うたところ、彼女の口から出てきた人物の名前に更に惨めな気持ちになった。付き合っている男子は勉強が特別出来るわけでもなく、運動神経が他人より秀でているわけでもなく、見た目だってお世辞にもカッコいいとは言えないような奴だったのだ。

それだけではない。思い出せないが、遠い昔の春に、悲しい別れをしたことがあるのだ。そのときの状況や誰と悲しい別れをしたのかは思い出せないが、悲しい別れをしたという記憶が確かに存在していた。

 だから、春は嫌いだ。




 まったく。本当にアンラッキーデーだな、今日は。

 赤坂京介はそう心の中でそうぼやきながら、アスファルトで舗装された道を疾走していた。民家が立ち並ぶ細い道路に車の姿はなく、道の真ん中を持てる限りの脚力を使って駆け抜けていく。彼は今、新学期早々遅刻しそうになっているのだ。

 なんでこんなことになってしまったのか彼は考える。朝起きた時間はいつも通りだった。朝食を食べた時間も、制服に着替えた時間も、家を出た時間も悪くなかった。いつも通りだ。

では何がいけなかったのか。彼はひたすらに足を動かしながら考える。

全ては自転車のパンクという不運が原因だった。それによって早朝から学校までの道のりを、ランニングとは呼べないようなハイペースで走るハメになったのだった。

 不運な状況に陥った京介は今朝の占いを思い出した。そして今日のラッキーアイテムであり、いつも身に着けているはずの腕時計を忘れたことに気付いて、彼は軽く絶望的な気分になった。それと同時に彼の脳裏を嫌な予感が横切る。今日の占いでは、まだ不運は続くことになっていたからだ。




「――さあ、今日一番のラッキーさんは……」

 番組のアナウンサーはわざとらしくタメを作る。残っている正座は双子座と射手座の二つ。どちらかが一位で、もう片方が最下位になるのだ。

 画面が切り替わった。

「双子座のあなた! 今日は恋愛運も金銭運も急上昇! 今日は言い出しづらいことも言ってみて。きっといい方向に転がるでしょう。片思いをしているあなたへ。今日は意中の人に大接近できるでしょう。諦めないことが肝心です」

春らしいピンクを基調とした明るい背景に、運勢やラッキーカラーが書かれている。そして再び画面が切り替わる。

「そして射手座のみなさん、ごめんなさい」

 白々しい口調で謝罪を一つ。画面は濃い青を使った全体的に暗い雰囲気になっている。この画面を見ているだけで気分が暗くなっていまいそうな感じだ。

「今日は多くの厄介事に巻き込まれてしまいそう。特に時間にルーズになりがちです。時間に余裕を持って行動してみてください。急がば回れ。急いでいる時は近道をせず、いつも通りにいきましょう。そんな射手座のみなさんのラッキーアイテムは腕時計です」

 画面がスタジオへと切り替わる。男性の進行役と女子アナウンサーが中央に映り、ゲストが画面の端に見え隠れしている。

「本日の占いは以上です。それでは日本全国のお天気です。根本さん」

 女子アナウンサーのその声で、画面に今度はスタジオ前の広場が映る。その中央には天気予報士の女性。脇には桜の木があった。『今日は全国的に晴れ』と書かれたプラカードを持っている。

「はーい。今日は日本全国晴れ模様です。とくに関東地方は朝から夜まで雨の心配はないでしょう。続いて各地の予報で――」

 関東地方が晴れだと知った京介は、リモコンのボタンを押して電源を切った。




 普段の京介は占いというのを真剣に受け止めたりしなかった。良い結果なら信じる。悪い結果だったら信じない。そういう都合の良い性格だった。だが今日は違う。すでに不運を体感してしまった彼には、不運が続くという占いが当たっているように思えてしかたがないのだ。

 曲がり角を曲がり、横手にある空き地を何気なく見た瞬間、京介の動きは一瞬にしてフリーズした。そして目の前にある光景は、続くという不運の一つなのかもしれないと思った。

京介の視線の先には、大型家電の段ボールの中で女の子がちょこんと正座していた。それもただの少女ではない。美少女なのだ。だが、美少女が段ボールの中で正座しているくらいでは、始業時間に追われている京介は立ち止まらない。それでも足を止めてしまったのは、少女の異様な姿にあった。耳がおかしいのだ。フサフサした毛に覆われた耳は普通の人のそれとは大きく異なっている。その耳は猫に似ていた。いわゆるネコ耳だ。その異様な格好に、京介の足は止まってしまった。

さらに少女のか細い首には赤い首輪が巻かれていた。大型犬とかにはめるような、そういう大きいものだった。可憐な白のワンピースを身に纏った華奢な少女の体には似つかわしくない代物だ。しかしそのギャップこそが見る者の嗜虐心をくすぐるのだろう。それは京介にも言えたことだ。

これってどこかの宗教の戒律なのか?

 それとも新手の羞恥プレイとか罰ゲームの類か?

 ずいぶんと斬新なアイディアだな、と京介は思った。

 少女と京介の視線が交錯する。その刹那、少女は口を開いた。

「わたしを居候させてください」

 京介は一瞬言葉を失い、そして一〇秒ほどかけて周囲を見回した。彼は微かな希望を乗せて。だが、すぐに周囲に人影がないことが分かり、彼の微かな希望は絶たれたのだった。少女の瞳はまっすぐに彼を捉えて放さない。その視線は彼にひしひしと伝わっていた。

やっぱり俺に言っているのか。

京介はそう思うと同時に、面倒な奴に絡まれたな、とも思った。今日の運勢の悪さを呪った。近道したことを後悔した。そして、今度からは占いを信じようと固く誓うのだった。

「お願いです! 居候させてください」

 少女は深々と頭を下げた。このとき、京介はあることを見逃さなかった。そして、自分の目を疑った。着け耳だと思っていた獣耳が動いたのだ。少女は顔を上げる。そこで再び獣耳が動いたのも見逃さなかった。

 京介は数瞬の間に、自分の置かれている状況と今日の運勢、そして視線の先にいる不思議な少女のことを加味し、自分の取るべき行動を決めた。そもそも取るべき行動は一つしかなかったのかもしれない。

「あー……俺、先を急いでいるんで……!」

 京介はそう言い残して、一目散に道路を駆け出した。運の悪さからしても、これ以上貴重な時間をロスしないためにも、この選択が最良だろう。立ち止まっていた間に失った時間を取り戻すために、彼は無心で道路を疾走するのだった。




 京介は通学カバンを自分の席の脇に放り、荒々しく椅子に腰掛けると机の上に上半身を崩した。なんとか遅刻にならずに済んだのである。ホームルームまであと一分を切ったところだった。

「よーよー、一年生のときは無遅刻・無欠席・無早退の皆勤賞だったマジメ君が、二年生になった途端に初日から遅刻ぎりぎりとは、一体どういう風の吹き回しだい?」

 愉しげに話しかけてくる声は聞き慣れたものだった。清水健太が喜色を浮かべて京介に近づいてくる。

「うるさい。こっちは疲れてるんだよ」

 京介はわざと疎ましそうに言った。だが、健太と同じクラスになれて内心では安堵していた。これで新しいクラスでの友達のあてが出来たからである。

「つれないねえ」

 健太はやれやれといった感じで手を振った。

「ところで、このクラスどう思う?」

「何が?」

 京介には健太が言わんとしていることが、いま一つ理解できなかった。

「これだよ、これ」

 健太はぴっと右手の小指を立てて見せた。京介の口からは思わず溜め息。

「一年の頃から密かに可愛い子はチェックしてたからな」

 京介は健太の話を聞いているのが馬鹿らしくなってきた。

「去年のクラスも悪くなかったが、今年はやばいぞ。今回のクラス替えで、ロマンスの神様は俺の眼前に舞い降りたのさ」

「へえ」

 朝っぱらからのマラソンの疲れと、こうも異性に執着する馬鹿らしさの融合によって、京介の返事はとても気のないものだった。だが健太はそんなものお構いなしに演説を続ける。

「まずは俺の前に座る剣崎萌さんだ」

 健太はそういって自分の前の席――京介の左隣の席――を指した。

 仕方なしに左の席に座っている女子生徒を見る。日本人特有の黒髪。透き通るように真っ白な肌。彼女は背筋をピンと伸ばし、目を瞑っていた。目を瞑っているといっても、寝ているわけではなさそうだ。これほどまでに居住まいが綺麗な状態で寝られる人間がいるとは、京介には到底思えなかった。ただ目を閉じ、ホームルームが始まるのを待っているのだろう。彼女から発せられる凛としたオーラは、京介の中に大和撫子のイメージを彷彿とさせた。

「どうだ? 美人だろ?」

「まあ、そうだな」

 健太の問いに対して肯定する理由はあっても、否定する理由は見つからなかった。

「次は俺の右隣に座る稲葉良子さん。成績は学年でも上位に名を連ねるほど優秀で、才色兼備っていう言葉を具現化したような人だ。見た目も可愛いしな。物腰も柔らかくて人当たりが良く、誰からも好かれる存在。ちなみに日本を代表する電気機器メーカーの社長令嬢だっていうのが、もっぱらの噂だぜ」

 朗々と健太はリサーチの結果を報告した。

「噂かよ」

 京介はわざと呆れ顔を作って見せる。彼は噂というものが好きではなかった。情報の信憑性というのもそうだが、陰でコソコソと何かを言うということ自体が気に食わないのだ。これは小学生の頃の出来事に起因する。だが今の彼は噂話をする友人の前で、嫌そうな顔をしない程度には成長していた。

「だって今まで稲葉さんと話なんてしたことねえもん。でも、見た目からしてお嬢様って感じじゃね?」

 健太の右隣――京介の席の後ろ――を、京介は盗み見するようにして、後ろの席に座る稲葉良子を見た。彼女は文庫本を読んでいた。ブックカバーのせいで本のタイトルは分からない。やわらかい顔立ち。少しウェーブのかかったロングの髪の毛。つぶらな瞳は図書を見つめて放さない。健太の言う通り、外見からして良家のお嬢様という雰囲気を醸し出していた。

「まあ、たしかにな」

「二人とも捨てがたいが、俺はどちらかというと剣崎さんだな」

 健太の顔が微かに歪む。

「まっ、だから良子さんは京介にくれてやるよ」

 健太の口調はまるで勝算があるかのようだ。健太のやけに上から目線なその発言を受け流しつつ、ふと京介は思った。

 なんでこいつはそんなに自信があるんだ?

 見た目は確かに悪くはないが、特段格好いいというわけでもない。それに京介の知っている健太というのは、恋をしたいと言いながらも一歩踏み出せない恋愛に臆病なタイプだった。

「その自信はどこから湧いてくるんだ?」

「今朝な、俺にお告げがあったんだ」

 健太はやけに神妙な顔つきをした。

「お告げ?」

「ああ。啓示と言ってもいいのかもしれないな。『片思いをしているあなたへ。今日は意中の人に大接近できるでしょう。諦めないことが肝心です』ってさ」

 京介はその台詞をどこかで聞いたことがあるような気がした。

「そして、そのお告げは現実のものになった。剣崎さんの座席が俺の前だったんだからな。これはまたとないチャンスだ。だから俺は今朝のお告げを信じ、この千載一遇のチャンスを活かして剣崎さんにお近づきになろうと思ってな。そして、最終的には……」

 健太の顔がとうとう気色悪く歪んだ。おおかた頭の悪い妄想でも繰り広げているのだろう、と京介は推察する。

「色情魔め」

 哀れみの混じった声で呟いた。

「まあそう言うなって。どうせ一度きりの高校生活。楽しくいきたいじゃんか」

 健太はニカッと笑った。

「そういえば何でお前さ、今日は遅刻じゃないんだ?」

「人聞きの悪い言い方するなよ。それじゃまるで俺が毎日遅刻してるみたいじゃん」

「本当のことだろ」

 さすがに毎日というのは大袈裟ながらも、健太はよく遅刻をしていたのだ。あれだけ遅刻していて、どうして健太が進級できたのか京介には疑問でしょうがなかった。

「ちゃんと朝起きるように努力したんだよ」

「へえ、珍しいこともあるもんだ。こりゃ雨が降るな。あー、傘持ってきてねえよ。帰りどうしようかな」

 京介は嘆かわしげにそう言いつつ、今朝の天気予報では今日の関東地方一帯は晴れであることを思い出していた。

「残念だったな京介」

「なにが?」

「今日の関東地方一帯は晴れだって根本さんが言ってたぞ」

 健太は勝ち誇ったような顔した。どうやら健太も同じ番組を見ていたようだ。そして、同じ番組ということが、健太の言っていたお告げの内容と、あの占いコーナーでの双子座の解説が一致することに京介は気が付いた。

「まあ、双子座の運がいいのも今日だけだから。どうせ明日は遅刻するんだろうけどな」

「あのな、俺だって進級して心を入れ替えたんだよ。というか、お前もあの番組を見ていたのか?」

 健太は少し意外そうな表情をしてみせる。

「そりゃ、高校生なんだからニュース番組の一つや二つは見ないとまずいだろ」

「ふーん。……それで、お前の運勢はどうだったんだよ。あっ、もしかして射手座だったりとか?」

 京介の誕生日を健太は知らないはずだが、適当に言ったのだろう。素直に射手座と言うのは何か悔しい気がして、京介は適当にはぐらかすことにした。

「いいか健太。個人情報保護法というのがあるんだよ。だから答える義務はないな」

「いいじゃねえか。堅いこと言わずにさ」

 今日一番のラッキーが双子座だったせいか、いつになく上機嫌な健太は京介の肩に腕を回してきた。彼はわざとその腕を邪険そうに叩き払う。

 たかだか占いをこうも真剣に受け止め、占い結果にこうも一喜一憂するのはもはや重症だとすら京介は思った。健太は当たるも八卦当たらぬも八卦という言葉を知らないようだ。

「こっちは早朝ランニングで暑いんだからくっつくな! それに、今まで何度お前の『心を入れ替えた』っていう台詞を聞いたことか」

 健太は胸を張って答える。

「三度目の正直ってやつさ」

「三度目どころじゃないと思うぞ」

「まあ、何度目だっていいさ。そんなこと。それより、ドアのところに貼ってあった紙に、生徒の名前と一緒に担任の名前も書いてあっただろ?」

「ああ。書いてあったな。俺たちの担任は周防先生だろ?」

 もちろん京介は確認していた。誰が自分のクラスの担任になるかというのは、生徒にとって一大関心事なのだ。

「そう。その通り。あの周防先生だ。最高じゃね?」

 担任にもアタリとハズレがある。その担任がアタリかハズレかを見分ける指標の一つに、帰りのホームルームを早く終わらせるか否かというのが挙げられた。早いクラスと遅いクラスとでは五分は差があるのだ。酷いときは一〇分以上の差が出来ることもある。

 その点で言うと周防美沙希はまだ二〇代半ばと若く、生徒の気持ちが分かるのか、それともその若さゆえに重職に就いてないせいか、ともかく帰りのホームルームを早く終わらせるということに関して定評があった。つまり、美沙希はアタリなのである。

「そうだな」

「だよな~。同級生との淡い青春もいいけど、年上のお姉さまもいいよな。でもまあ、本命は剣崎さんだから」

 重症だ、こいつ。

 京介は呆れ果てて開いた口が塞がらなかった。




 ホームルームのあとは、例年通り体育館での始業式が行われた。毎年毎年、変わることのない光景だ。

 そして京介も毎年のように校長たちの演説を無気力に眺めていた。

 校長の時はツルツルの頭を、教頭の時は何もない頭頂を隠すようにサイドから寄せ集めた髪の隙間から見え隠れしている地肌を無気力に見つめて、たいしてありがたいとも思えない話を京介は右から左へ聞き流した。

 周囲を見回しても真剣に話を聞いている生徒などいない。近くの友達とコソコソ話をする生徒や、携帯をいじっている生徒もいた。なにも不真面目なのは生徒だけではない。前に並んでいる教員の中の一人の男性教諭は、不謹慎にも大きなあくびをしていた。

 だが、体育館の舞台の上に立ってつまらない話をしている教頭だけは、意気揚々として熱弁をふるっている。勤勉だの文武両道だの、堅苦しい言葉でガチガチに固められた演説は、睡魔との格闘を余儀なくされた。京介は出そうになるあくびを必死で噛み殺しつつ、今朝出会った少女について思い出していた。そうすることで手持ち無沙汰な時間を潰そうと考えたのだ。

 なぜ朝早くからあんな場所にいたのだろう。

 もしかして家出少女だったり?

 まさかホームレスだったりしないよな?

 京介の思考は少女のおかしな風貌へと及んだ。妙な耳に大きな首輪をつけていて、もはや奇抜と言っても過言ではない。

 よくニュースで取り上げられるような秋葉系の人間なのか?

 それともおかしなカルト宗教の信者だったり?

 もしかして異世界人……なわけないか。

 そうやって少女の素性についてあれこれ考えているうちに、教頭の演説がいよいよ終盤に差し掛かってきたようだ。その頃には京介の意識はあの少女に向けられていた。

 あの少女はまだあそこに居るだろうか。




 京介は帰路を普段の道ではなく、朝来た時に通った道に決めた。あの道は学校への近道だったが、最後で長くて急な坂があるために自転車の時は通ることはなかった。今日は遅刻かどうかという瀬戸際であり、徒歩だったためにあの道を選択したのだ。帰路もあの道に決めた理由は、今度は下り坂でいて近道だというのと同時に、朝会ったあの不思議な少女にあった。あの子が可愛かったから、という健太みたいな理由ではなく、心配だからというわけでもなく、好奇心と言い知れぬ懐かしさを少女に対して抱いていた。その懐かしさはデジャビュとも言える。あの少女には、何か惹きつけられるものがあった。だが、朝頼まれた居候の件に関して、首を縦に振るつもりは微塵もなかった。そもそも京介が独断で決められるようなことではない。家主の判断を仰がねばならないし、常識的に考えてどこの馬の骨とも分からない人物を居候させる人間はいないだろう。

 目的の空き地が見えてきた。今朝あの子と京介が会った場所だ。

 今朝出会った少女がまだそこにいるという確証はなかった。だが、少女は朝と同じく大型家電の段ボールの中で正座していた。どこか悲しげな表情を浮かべ、獣耳はしおらしく下を向いている。

 しかし、その表情も京介と視線が合ってすぐに一変した。

「あっ、朝の人!」

 そう言って少女は段ボールを飛び出し、京介のすぐ目の前まで来た。近くで見れば見るほど、少女の耳は本物の猫耳にそっくりだった。

「今朝言った居候の件、考えてくれたんですか?」

 京介は首を横に振る。

「普通に考えてさ、どこの誰かも分からない人間を居候させる人なんていないぜ?」

「そう、ですか……」

 少女の顔が再び陰った。それに合わせるかのように、京介の眼前に広がる景色の光の加減が一段暗くなる。暗雲が立ち込め、空が暗くなったのだ。雲行きが怪しくなってきた。

 一雨くるかもしれないな。

 天気予報というのもあてにならないものだ。傘を持ってきてないことを少しばかり後悔しながら、灰色の空へと視線を向ける。たくさん雨水を溜め込んでいるであろう雨雲が空に鎮座していた。四方を見渡しても雨雲の切れ目は見えない。とても短時間で雨は通り過ぎそうにない。

「なあ、雨も降ってきそうだし、いい加減に家に帰りなよ」

 赤の他人である京介がこうもこの少女に関わることもないのだが、彼はなぜか彼女のことが放っておけなかった。

「……嫌です」

 その暗くて鋭い口調にははっきりと固い意志が見てとれた。

「嫌です、って……。親御さんが――」

 少女は顔を上げた。その瞳は京介を捉えて外さない。

「親なんていないし、この世界にわたしの帰る場所なんてありませんから」

 遠くの空で雷鳴が響いていた。




「ふぇ……へくちっ!」

 家に着くなり少女は可愛らしいくしゃみを一つ。

「大丈夫か?」

 京介は手探りで玄関の電灯のスイッチを入れた。電灯が数回瞬き、玄関に明かりが灯る。

「うん」

 少女は両手で肩を抱いて身震いをしていた。土砂降りの中を強行軍で帰ってきたのだから、風邪を引いてもおかしくはない状態だった。

「靴脱いでこっち来て」

 京介は少女の先に立って洗面所まで案内し、バスタオルを手渡した。

「これで髪の毛とか拭いてて。俺のじゃ大きいかもしれないけど、とりあえず着替えを持ってくるから」

 そう言い残して京介は自室へと向かった。

クローゼットを開けて何着か洋服を取り出し、どれがいいか品定めした。彼の服はどれも少女には大きすぎるが、それはしょうがないことだ。

小さいよりかは大きいほうがいいだろうと京介は前向きに考え、少し小さめの古いスウェットの上下を小脇に抱えて洗面所へと戻った。

 扉をノックする。

「入るよ」

返事を待たずして京介は洗面所に入った。まさか少女が着替えもなしに服を脱いでいるとは思いもしなかったからだ。だが、その思いもしなかった光景が扉のすぐ先にあった。

彼は呆然と立ち尽くしていた。視界に飛び込んできたのは少女のあられもない姿だった。一糸纏わない格好であらわになる女性特有の膨らみ。バスタオルのおかげで体の半分ちかくが隠れていたが、それでもウエストなどのラインは見えてしまう。裸でネコ耳と首輪という組み合わせが扇情的だった。

「ふぇっ……」

「なっ!」

 予想外の事態に絶句していた。そして、悲しいかな。その時には彼女の姿を網膜に焼き写している彼がいた。赤坂京介は生物学上ではオスなのだ。すぐに視線を外せという理性とそれに背反する欲望の葛藤が瞬時に起こり、最終的には理性が勝つも、それでも視線を外すのが遅くなったのは事実だ。

「なっ、ななななんで服を脱いでんだよ!」

「だっ、だだだだって着替えろって言うから!!」

 少女は慌ててバスタオルを体に引き寄せ、出来るだけ体を隠そうとした。

「き……着替えはここに置いておくから!」

 京介はしどろもどろな口調でそう告げ、上下のスウェットをその場に置くと、急いで洗面所の扉を閉めた。着替えがないのにどうやって着替えるんだよ、などとツッコミを入れる余裕などどこにもない。

京介は少女の着替え姿を強引に頭の片隅に追いやってベランダへと向かった。

 干したままになっていた洗濯物を大急ぎで取り入れた京介は、屋根がベランダまでせり出ていたおかげで洗濯物があまり濡れずに済んだことを感謝しつつ、手際よく室内に洋服を掛けていく。ついでに雨で濡れたブレザーと制服のズボンもかけておく。ネクタイを取ってワイシャツも脱ぎ、手近にあったトレーナーとジーパンを着用する。

 リビングのソファに腰掛け、少女を待っていると間もなくして彼女は入ってきた。髪の毛を拭きながらリビングのドアを開けた少女と目が合ったが、京介は先ほどの一件もあってすぐにその視線を外してしまった。

 一方の少女は何事もなかったかのように京介の隣に腰を下ろした。

 なんとも気まずい沈黙が漂う。

「さっきはごめん」

 とりあえず謝っておかなければならないという気持ちが、京介の中を先行していた。

「……うん」

 間を持たせるためにも、気を紛らわすためにもテレビをつけようかどうか迷っていた時だった。

「……髪の毛」

 そう言って少女はおもむろに自分の髪を拭き終えたタオルで、今度は京介の髪の毛を拭きはじめた。

「じ、自分でできるから……!」

 そう京介は言って少女からタオルを

「風邪引いちゃうから」

 少女は京介の髪の毛を丹念に拭いていった。揉むようにして拭いていくのが以外に気持ち良かった。

 



「君、名前は?」

「ソフィア・ミラ・シーベル・アークライト・ブライスフィールド」

「ソフィア・ミラ・シーベル……長いな」

「じゃあ、ネコって呼んで」

「ネコ? ソフィアとかソフィーじゃなくて?」

「うん! あなたの名前は?」

「俺は赤坂京介って言うんだ」

 彼女は彼の自己紹介に少し驚いた様子を見せた。

「どうかした?」

「……ううん。なんでもないの」

「君はどっから――」

 来たの? そう京介が言おうとした時だ。突然リビングの照明が消えた。リビングどころか乾燥機の音もしなくなった。確認してみれば、テレビの待機電源も消えている。ブレーカーが落ちたのかと京介は最初思ったが、窓から見える住宅の全ての明かりが消えていた。

「停電か」

 突発的な状況に自然と京介の声には不安の色が浮かんでいた。

先ほどまで二人の間にあった空間の壁はいつしか消えさり、いつの間にかネコは京介にピタリと寄り添っていた。

「ネコ……?」

 遠くの空では相変わらず春雷が幅を利かせている。どうやら雷雲はどんどん近づいてきているようで、雷鳴がだんだん大きくなっている。

 薄暗い部屋の中でネコは脅えるように一点だけを見つめ、左手で自分の右肩を抱いていた。右手は京介のトレーナーの裾を掴んで放さない。その手は微かに震えている。

「ネコ?」

 さっきよりも大きな声で話しかけたが、聞こえているのか聞こえていないのか、ともかくネコは何も答えようとしない。

 ただ彼の意図とは噛み合わないことをブツブツと呟いていた。

「……イヤ。暗いのは、イヤ……」

 手だけでなく声も震えていて、それは心の底から今の状況に脅えているようだ。

 窓の外で稲妻が大きく閃いた。刹那、まるで地鳴りのような凄まじい雷鳴が轟いた。薄暗い室内を瞬間的に煌々と照らし出す。

「今のはかなり近かったな……」

 緊張感を孕んだ声で京介は呟いた。

「――って、大丈夫か?」

 ひしっと京介の腰にいつの間にかネコは抱きついていた。

「だ、大丈夫……」

 震える声で答えた。とても京介には大丈夫そうに見えなかった。

 暗闇のせいで正確には分からないが、京介にはネコの目が涙目になっているようにも見えた。

 近くで雷鳴が轟く度にネコは京介のことを力強く抱きしめる。

 その都度、女の子の柔らかい諸々が体にあたっているような感じがして、京介は気が気ではなかった。ただし彼女の温もりだけは十分京介にも伝わり、彼の心臓は今までにないほどの速度で鼓動していた。

 女の子に抱きつかれるというのは悪いものでもなかったが、そろそろ離れてもらわないとどうにかなってしまいそうだ。そう、諸々が。

 だが、彼女が震えていることに気付いた時には、そんなことはすっかりと意識の中から欠落していた。本気でどうにかしてあげたいと思った。それこそ子猫のように震える彼女を見て、何かしてやれることはないかと無意識に考えていた。

 だが彼にしてやれることなどなく、震える彼女の体をそっと撫でてやることくらいしかないのが現実だった。

 部屋の明かりがつくのと母親がリビングに入ってきたのは、ほぼ同時のことだった。

「早く停電が復旧してくれて助かったわ」

 左手で買い物袋を持ち、右手でハンカチを使って濡れた肩を拭きながらリビングに入ってきた母親が、京介に抱きついているネコの存在に気付くのにそれほど時間はかからなかった。そして彼女の頭と背中を撫でている京介。はたから見れば、それは愛し合っている彼氏と彼女に見えなくもなかったのは事実だ。

 買い物袋がフローリングの上に落ちる。

 母親の双肩がワナワナと震え、一歩あとずさった。

「ちょ、母さん違う。これは――」

 濡れた肩を拭くために使っていたハンカチを顔に当て、おいおいと泣き真似を始めた。

「どうしよ~。姉さん、京介が悪い子になっちゃったよ~」

「だから、これは違うって!!」

「何が違うのよ!? こんな年端もいかないような、それでいて可愛い子を家に連れ込むなんて……。あんた、相当なすけこましね。しかも親が家にいる日に連れ込むなんて、少しは背徳感っていうものがないの!?」

「誰がすけこましだ! こいつが今にも雨が降ってきそうなのに、帰る場所がないとかわけわかんないこと言うから、仕方なく雨宿りのために連れてきたんだよ。背徳どころか、これは立派な人道的な行動だろ?」

「あなた、お名前は?」

 母親は膝に手を当て、ネコと同じ視線になるように中腰でたずねた。息子の演説はすっぱりスルーだった。

「ソフィア・ミラ・シーベル・アークライト・ブライスフィールドです」

「立派な名前ね」

「あの……突然ですが、居候させてください!」

ネコは深々と頭を下げる。母親は突然の頼みに目を丸くしていたが、すぐに何やら黙考し始めた。その顔は果てしなく真剣だった。

まさか、本当に居候の件を考えているわけじゃないよな?

京介のそんな心の声をよそに、母親はぶつぶつ独り言を言っていた。

「そうねえ……」

 その口調からはネコの居候に賛成の色が滲んでいる。

「親子揃って、か……。まったく、血は争えないわね。これも運命なのかしらね」

 ぼそっと呟いた。

「何のこと?」

「いいわ。居候させてあげる」

 再び母親は京介の問いを無視し、ネコの方に向き直って母親はそう言った。

「わ~、ありがとうございます!」

 頭を下げてひとしきり喜ぶネコ。あまりの展開の速さに戸惑いを抱きながらも京介は口を開いた。

「ちょっと待てよ母さん!」

 あまりにも早すぎる結論に京介は納得がいかなかった。

京介の保護者代理である赤坂美雪は、海外に多くの支社をもつ一流企業の商社マンであり、国内の出張や海外の出張のせいで家を長期間空けることが多かった。家に帰ってくるのは一年の半分もない。元々は同じ会社でもデスクワークのほうで働いていたが、一人で京介を養っていくために給料面から違う課に異動したのだ。

 幼い頃に父親を交通事故で、母親を病気で相次いで亡くした京介には母親の妹で叔母にあたる美雪が保護者代理となった。京介と美雪の間に血のつながりはない。

 そして美雪はこれから海外出張で数週間に渡って家を空けることになっていた。つまり、ネコの居候を認めるということは彼女と二人暮らしになるのも同然なのだ。

 つんつん、とネコが京介の肩を小突いた。そして、彼女はおもむろに顔を京介に近づける。

 キスを連想させるその動きで、京介の心臓は大きく波打った。反動でネコの栗色の髪の毛から良い匂いが漂ってくる。一瞬、京介の頭の中は真っ白になった。

「……ねえねえ――」

 ネコが耳元で囁いた。甘い吐息がうなじを撫でる。なんとも罪作りだ。

 ネコの唇は更に接近し、零距離と言っても過言ではない位置まできた。

「裸、見たよね?」

 とても優しい声だったが、どこか棘があって、そしてその言葉には深い意味が込められているのが彼には分かった。これは脅迫である、と。

 ネコは「裸を見た代償として、私を居候させろ」。そう言いたいのだ。

 京介の思考がグルグルと高速輪廻を始める。

 あれは事故だ。だけど事故だなんて証明出来るはずもない。無論、裁判にかけられれば無実と解るだろう。いや、その前に証拠不十分で不起訴になるな。だが、どのみち俺の名誉や校内での信用などはなくなるに違いない。校内において俺は比較的、硬派という立場を貫いているのだから、年端もいかぬ女の子を家に連れ込み、あまつさえ裸を見てしまったと知れれば、俺のあだ名はめでたくロリコンになるだろう。裸を見てしまったのは事故であり不可抗力だ。出会い頭の衝突事故みたいなものだ。唯一神アッラーに誓いを立ててもいいし、キリストに誓いを立ててもいい。どの宗教も信仰してないけどな。だけど火のないところに煙は立たないわけで、たちまち噂は校内に伝染するだろう。そして、友達は一人、また一人と俺からだんだん離れていくに違いない。俺は今の学校生活にはそれなりに満足している。友達関係は良好だし、勉強にしても上位のほうだ。同級生との淡い恋愛だってしてみたい。今回のクラス替えはチャンスなのだ。つまり、今の高校を辞める理由がない。辞めたくない。なんてこった! 解決方法は一つしかないじゃないか。

 これが数瞬の間に京介の脳内で行われた思考の結果だ。ネコに決定的な弱みを握られた今となっては結局のところ、彼は居候に反対することは出来ないのだ。

「京介、どうかした?」

 母親が不審そうな視線を息子に投げかける。

「あ、いや……その、やっぱり困った時はお互い様、ってね。俺もこいつの居候に賛成だよ。困っている人は助けないとね。あはは……」

「そう。じゃあ決定ね」

 がっと母親は京介の首に腕を回すと、ずいっと頭を引き寄せた。

「いくら可愛いからって、変なことをしないように。こんな年端もいかない子に手ぇ出したら犯罪よ」

 母親は本気とも冗談ともつかぬ表情をして言った。

「し、しねえよ!」

 京介の顔だにわかに赤くなる。

「よろしい。それからもう一つ」

 ネコに聞こえないよう、母親はさらに小声で耳打ちした。

「……それと、この子は異郷からの大事な来客だから。この子の望みは出来るだけ叶えてあげて。それから、いろいろと気になることもあると思うけど、あまり深く詮索しないように。特に過去や素性については、ね」

「あ?」

 初対面で来客もなにも分からないだろうに。それとも、母親の口ぶりからしてこいつと面識でもあるのだろうか。

「意味わかんねえよ」

「まあ、そうね。最初は戸惑うかもしれないけど、友達感覚で接してあげて。それじゃ、よろしくね。私は飛行機の時間があるから」

 飛び込むようにして母親は自室に入ると、瞬く間に旅行トランクを取って出てきた。

「あ、あとその買い物袋の中身、冷蔵庫に入れておいて。よろしく!」

床に転がる買い物袋を指し示し、母親は疾風のように家を出て行った。

 家に取り残された京介と少女。少女は呑気にバイバイと手を振っていた。そんなネコとは対照的に、京介は内心穏やかではなかった。

 どこの馬の骨とも分からない少女を居候させるという、まったく予想外の事態に京介は困惑していた。そんな困惑した状況ながら、京介でも分かることが二つだけあった。それはネコの居候が決定したこと。そしてそれによる未曾有のプレッシャーが襲い掛かるだろうということだった。

 京介には小学校のとき、何人か女子の友達がいた。その女子たちと遊んだ回数なんて京介は把握していない。とにかく何度も遊んだことがあるのだ。もちろん女子の家に遊びに行ったこともある。だが、ネコの居候というのは、幼い頃に女子と遊んだことの延長線上ではないのだ。当時の京介はその女子を友達としては見ていても、女としては見てなかった。でも今は同い年くらいの女子を、女として見てしまうくらいには彼も成長しているのだ。ネコを意識せずに生活するというのは、ほぼ不可能なことのように彼には思えた。

「よろしくね!」

 ネコは腕にすがりついて、向日葵みたいな眩しい笑顔を浮かべている。

この素晴らしい笑顔を泣き顔に変えたくないという気持ちもあった。一度決まった事を覆すというは男として如何なものかとも思ったし、嫌われ役も演じたくないというのも京介の中に存在した。

「母さんと面識ある?」

「ううん。ないけど……」

 どうしてそんなことを聞くのか、という表情をしてネコは答えた。

「あ、そう……。特に深い意味はないから」

結局のところ、京介にこの少女を追い出すというのは不可能なのだった。それは京介自信がよく分かっていた。元をたどれば自分がネコを家に連れ込んだのが事の発端なのだ。家の中にさえ入れなければこんなことにはならなかったに違いない。京介はそう思うことにした。

 そして小さく、誰にも聞こえないほど小さくぼやいた。

 今日は本当に最悪な日だな。




 三日後。京介の心労は極限にまで達していた。トイレに入るときも、風呂に入るときも、食事のときも、着替えのときも、絶えずどのように見られているのか気になって仕方がなかった。自意識過剰だ、と自らに言い聞かせても、やはり気になってしまうのだ。自分の普段の一挙手一投足が異性に見られている。その事実が精神的ストレスとなって、彼の中に蓄積されていったのだ。

京介の精神的ストレスのキャパシティーは限界を通り越していた。無理もないことだ。今までの自由きままだった生活が一変して、ネコの居候により何かと今までの生活にいろいろと制限が出来たのだから。もちろんその制限は京介自身でやっているもので、ネコから何か文句や要望が出たわけではない。だが、一切の血の繋がりもない女性を前にして、年頃の少年が風呂上りにパンツ一枚で家の中を移動することなど出来るはずもなかった。ネコの居候によって、そういう事も含めて事あるごとに気を使うようになったのが、それはそれで気遣いが増える結果となってしまった。しかもネコが友達でも知り合いでもなく、まったく見知らぬ赤の他人であるというのが、それに拍車をかけていたのだった。

 それもネコの行動には悪意がないだけになおさら質が悪い。着替え中に部屋に入ってくるのも、宿題中に話しかけてくるのも、全ては彼女の純真無垢な部分がそうさせているのだ。それは彼女の無邪気な笑みを見れば誰でも分かる。

 言うなれば彼には心休まる時がないのだ。自然体で居ようと思ってもネコは赤の他人であり、彼女の前で全てをさらけ出すというのはとても難しいことだった。




ぼーっと京介は自室の一角を見ていた。

意識は先ほどから眠りの世界と現実を行ったり来たりしている。中途半端に寝てしまったのがいけなかったのだ。そのせいで余計に眠くなってしまった。徹夜すべきだった。明らかに回転不足な頭で彼は自分の行動を悔いていた。

春休みの課題の一つに化学のレポートがあった。今日の二時間目がそのレポートの提出期限なのだ。深々と夜が更けていく中で京介はホットコーヒーを片手に、自室のパソコンで延々と化学のレポートに関する資料を集めていた。そしてワードを使ってレポートが完成したのが今朝方五時ころのことだった。

そして今がおよそ七時三〇分。それもどうやらREM睡眠の時に目覚ましに起こされたようで、彼は果てしなくダルかった。全身は倦怠感に包まれ、頭も手も足も鉛のように重い。

いっそのこと学校を休んでしまおうかとも思った京介だが、それでは命を削って完成させたレポートの意味がなくなる。化学教諭の谷島は提出期限に厳しいことで生徒の間では有名だった。

起きようと脳内で決定しても、体の各部は言うことを聞かないのが現状だった。むしろ、その脳内の決定も微かに残った理性の身勝手な決定に過ぎず、あくまで体の反応は素直だった。

それでも、そろそろ学校へ行く準備を始めなければいけない時間だった。朝食を作ってネコの昼食も準備しておかなければならないのだから。そうは分かっていても、やはり体は動こうとしない。

 それでもどうにか腕だけは動かして、ベッドの脇にある机の上から化学のレポートを取り上げた。パラパラと眺めて推敲らしきことをするが、凄まじい眠気の前にその行為はほとんど意味を成さなかった。今の出力不足の頭ではレポートの文字が頭に入るわけがない。

 京介の意識が眠りの世界の淵まで引きずり込まれ、危うくその淵に転落しそうになった時に扉をノックする音が二度響いた。

「京くん起きてる……?」

 遠慮がちなネコの声がドアの下の隙間から室内に入り込む。

「んぁ……ああ、一応起きてる。なんだ、飯か?」

 奥歯で出そうになるあくびを噛み殺しながらドアの向こうのネコに答えた。

「んーん、そうじゃないの。……入るね?」

 京介が肯定も否定もする前に扉が開いた。

 部屋に入ってきたネコは、京介が恥を忍んで購入したピンクに水玉模様のパジャマ姿ではなく、出会った時に来ていたワンピースの上から美雪が普段愛用しているエプロンを纏っていた。美雪は普段から長く家を空けることもあって、周囲からは料理をしない人間に見られがちだが、そのイメージとは裏腹に料理の腕は抜群なのだ。そういうのもあってエプロンは本格的かつ、彼女のこだわりもあってフリルのついた可愛いものを使用していた。あと一〇年もして彼女が着ようものなら、目も当てられないような大惨事になるような代物だ。そしてネコは両手でお盆を持っていて、その上には湯気の立つコーヒーカップが置かれている。ワンピースの上からフリルのついたエプロンを着たネコはどこかメイドに見えなくもない。そして耳はネコ耳。その手のマニアなら泣いて喜びそうな姿だ。如何せんネコの身長が低いために犯罪の匂いがしないこともない。

「コーヒーを淹れてみたの」

 そう言ってぺたぺたとお盆に載せたコーヒーを運んでくる。回転不足の頭には熱々のブラックコーヒーが最高だった。眠気で京介のまぶたが閉じる。

「キャっ!」

 ネコの小さな悲鳴。何事かと目を開けようとしたが、眠気の前にすぐに目が開かない。

「熱っ!」

何か突然熱いものが京介の顔と髪の毛を襲った。コーヒーの香ばしい匂いが漂った刹那にはなにか硬い物が当たる。そして京介の足下で砕け散った。

京介は状況を確かめようと眠気を強引に追い払って目を開けた。

まず目を開けた先ではネコが転んでいた。下を見ればコーヒーカップが落下したせいか四散していた。この状況からして、先ほどの熱いものがコーヒーだと彼は判断した。そして思い出したように手に持った化学のレポートに目をやった彼は、軽く絶望に打ちひしがれた。コーヒーの飛沫がレポート用紙にまだら模様を描き、紙は白と茶色のツートンカラーになっていたのだ。

寝不足でお世辞にも優れているとは言えなかった体調が、更に悪くなったように彼には感じられた。

彼は時計を見やる。そして時計の告げる情け容赦ない現実が、重く彼の五臓六腑にのしかかった。

割れたコーヒーカップやらの処理はあとでするにしても、風呂に入らなければならないし、何よりがんばって完成させたレポートは提出できるような状態ではなかった。

 もはや学校に行く気など失せていた。

「ご、ごめん京くん! すぐ拾うから!」

 そう言って割れたコーヒーカップの破片に手を近づけたときだ。

「っつ!!」

 破片に触れた彼女の指先からは赤い液体。

 京介は深い溜め息をついた。

「もういいから出て行けよ」

 京介は無意識のうちに底冷えするような声で告げていた。そして彼はその事に気付きはしなかった。

 京介はネコをそこに捨て置いて風呂に入るために浴室に向かった。

「京くんごめんね! 本当にごめんね!」

 そんな彼の背後からネコの謝罪の言葉が追いかけてきたが、彼はそれらを完全に無視した。むしろ耳に届いていなかった。




 頭からシャワーを浴びて風呂から出て来た京介は、浴槽の中でさっきは言いすぎたと反省していた。

 ネコもわざとやったわけじゃない。あくまで好意だったんだ。

 彼はそう自分に言い聞かせた。

 自室の前までくると何やら自室から機械の音が響いてきた。ドライヤーの音だ。その音を訝しく思いながら部屋へと入った。するとネコがドアに背を向けて何やら作業をしている。

「ネコ……?」

 ビクッとネコの肩が震えた。彼女は京介を振り返るとドライヤーを止めた。

「さっきはごめんね。でも大丈夫だよ。ちゃんと紙は乾かしておいたから」

 そういってシワシワになった化学のレポートをネコは差し出した。しかし焦げ茶色のまだら模様の前に文字など解読が出来るわけもない。それに乾けばいいという問題でもなかった。それでもネコは得意気な顔をしている。

 その顔を前にして京介の中には怒りの火が灯った。

 ネコの首根っこを引っ掴んでフローリングを引きずっていく。

 ネコは悲鳴を上げようとしたようだが、それは引き倒された衝撃で彼女の中に飲み込まれた。

 もしも彼がこのときのことを述懐するような機会があったとしたら、彼自身でも自分の行動の動機についてはっきりと説明することは出来ないに違いない。

 強いて言うとしたら衝動だった。

 京介とネコは玄関前まできていた。京介は素足のまま玄関に足を踏み入れ、玄関と廊下との段差でお尻を打ちつけたネコは顔をしかめたが、彼はそんなのは見て見ぬふりだ。

「こんのぉ……」

 蹴破るようにして玄関のドアを開けた。

 そして一喝。

「出て行けえええええ――――――――――――っ!!」

 京介はネコを力一杯放り投げた。

「キャ――!!」

 ネコは野球で言うヘッドスライディングのように頭からアスファルトの上を滑った。女の子に対してあんな仕打ちをしても京介の良心は痛まなかった。むしろどこか清々していた。

 アイツが全ての疫病神だ。

 彼はそう信じて止まなかった。

 京介は踵を返して家に戻り、学校を休むことを連絡しようと電話の受話器を取り上げた。




 半日経っても、ネコが家に帰ってくることはなかった。

 学校へ連絡して玄関先を確認した時には既にネコの姿はなかった。簡単にネコを許すつもりのなかった京介は特に気にも留めなかった。

 嫌な予感が胸をよぎる。

 腹をすかせれば、そのうち帰ってくるだろうと、最初のうちは京介も考えていた。しかし半日経ってもネコは帰ってこない。京介もいい加減心配になってきた。

帰る場所なんてないと言っていたが、どうしているのだろうか。雨露をしのぐ場所はあるのだろうか。

 窓の外に広がる灰色の世界を見つめながら、京介は物思いにふけっていた。外は今の京介の心の中を呈したかのような、どんよりとした薄暗い空だ。

 天気予報じゃこれから雨になると言ってたけど……。

京介が天気予報を思い出した矢先、トツトツと小さな何かが窓のガラスを叩いた。窓を叩いた何かはガラスを這って下に落ちていく。雨が降ってきたのだ。

 この雨を皮切りに、京介の中に不吉なことばかりが渦巻いていった。

 交通事故にあったのではないか?

 飢え死にしかけているのではないか?

 雨に打たれながら町を徘徊しているのではないか?

 それこそ、子猫のように橋の下で身を震わせているのではないか?

 発展途上国の貧困街のストリートチルドレンのように、誰かに物乞いをしているのではないか?

 そう考え出したらキリがなかった。次から次へと、頭の中に不吉なことばかりが湧いてくる。賞味期限切れのコンビニ弁当に食らいつくネコの姿を想像した時には、彼は居ても立ってもいられなくなった。

 時間は既に午後八時を回っていた。

 傘を差して歩いて探すなどという悠長なことをするつもりなど毛頭なく、彼は傘を取らずに玄関を出た。傘なんて差しているだけ邪魔だ。

 外に止められている自転車にまたがりペダルに足をかけた。ペダルを漕ぎ出そうとして彼の足が止まる。考えもなしに家を出てきたのはいいが、ネコがどこにいるのかまったく見当がつかないのだ。

 しかしそれを考える時間すらもどかしく、手当たり次第に探す方針で彼の中でまとまった。勢い良くペダルを踏み込む。




 二時間ほどかけて自宅周辺を捜したが、ネコは見つからなかった。

 そもそもまだネコとは出会ったばかりで、一緒にどこかに出かけたことなんて皆無だ。だから彼女の行きそうな場所に心当たりなどなかった。それでも闇雲に探し続けたが労力の無駄のように思えてきて、さきほどまでの気勢はすでにどこか遠くにいってしまった。気持ちがだんだん弱気になっていくのが自分でも分かった。二時間も探し続けてすでに精も根も尽き果てそうになっている。

 それに体というのは素直なもので、こんな時でも空腹を訴えてくる。一〇時を過ぎてまだ夕食をとってないのだから当然と言えば当然ではあった。

 一人じゃ限界があるのかもしれない。

 京介がそう思い諦めかけた時、彼の脳裏にある場所が思い浮かんだ。どうしてもっと早く思い浮かばなかったのかと、彼は自分がもどかしくなった。京介は自転車を百八十度回頭させ、雨が降りしきる夜の道を自転車で疾走した。持てるだけの力で自転車のペダルを漕いだ。目指すは二人が出会ったあの空き地だ。




 スタンドを立てるのももどかしく、半ば自転車を投げ出すようにして地面に置いて空き地へと踏み入れた。

「ネコ!?」

 外灯の光も届かない空き地は漆黒に飲まれていてよく分からないが、それでも誰もいないように見える。

 それでも京介は念のためと思って空き地を進んでいく。そして空き地のほぼ中央に、大型家電の段ボールが雨に晒されてぐちゃぐちゃになった状態で放置されていた。ネコと出会った時に彼女が使っていたものだ。

「バカか、俺は」

 そう呟き、京介は天を仰ぎ見た。全速力で自転車を飛ばしたせいで火照った体は、雨にさらされて急速に冷却されていった。目尻に落ちた雨粒が涙の如く流れた。少なからず悲しみに似た感情もあったが、雨に打たれて立ち尽くしている自分の惨めさが彼の中を占めていた。

 考えてもみればネコがここにいないのは当然のことだった。木の一本も生えていないただの空き地で、たった一枚の段ボールだけでどうやって満足に雨をしのぐことが出来るだろうか。

「京くん……?」

 ぼろぼろの傘をさしたネコが空き地の入り口に立っていた。

「ネコ!?」

 ネコが無事だったことによる安堵と、一種の怒りが彼の中で巻き起こった。

「お前なあ、どこをほっつき歩いていたんだよ……!?」

「ここで新しい居候先探ししていて、雨が降ってきたからどこかで雨宿りしようと思ったけどもうどこもお店やってなくて、この傘が落ちてて拾ったけど、これからどうしたらいいかわかんなくなっちゃって……」

 だんだんとネコの声は小さくなっていって、ついには聞き取るのも困難だった。

「だからここに戻ってきたの」

「そうか。で、新しい居候先は見つかったのか?」

 ネコは首を横に振った。

「話しかけても、誰も足を止めて聞いてくれなくて……」

 ネコはしゅんとした。ネコ耳も一緒にうなだれる。

「そうか。……なら、とっとと帰るぞ」

 京介は明後日の方を向いて、ぶっきらぼうに告げた。

「な、なんで!? だって、京くんが出てけって……。京くん、あたしのこと嫌いになったんじゃないの……?」

 ネコは目を丸くした。

「ちげえよ。別に嫌いになったわけじゃない。半ば徹夜だったから気が立ってただけで、お前だって好意でやってくれたわけだし。それに、必死こいて捜して俺一人バカみたいじゃねえか」

 走り寄って来たネコがひしっと京介に抱きついた。

「ね、ネコ!?」

「ごめんね……。ごめんね、京くん……」

 彼の胸に顔を埋めて泣きながら彼女はひたすら謝罪した。そんな彼女を許さないわけにはいかなかった。

「……いいから帰るぞ。こんなんじゃ風邪ひくだろが」

 落ち着かない気持ちになって最後まで明後日の方を向きながら京介は言った。

「……うん」

 こうして、人間と獣人の奇妙な二人暮らしが始まった。


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