ドール
収容所を出発して、どれくらい経っただろう。車の揺れと、くぐもったエンジン音にうとうとしていた私は、そのように思って左手の袖をまくった。が、もちろんそこに時計はない。
神経質すぎた私の、もう治ることのない唯一の癖である。心底、連合兵に腕時計を没収されたことが悔やまれる。
仕方なく自嘲気味の笑みをこぼしながら護送車のドアの隙間を見やった。ごくわずかだが、そこから光が漏れている。
(そうか、まだ昼間なのか……)
てっきり夜だと思っていた私には、少し意外だった。
天井にぶら下がる小さな太陽は、今の私にとっては丁度よかった。重苦しい沈黙さえも、私にとっては安らかに感じられた。自暴自棄になったわけではないが、生に対する執着は全くない。ただただ安らかだった。
不謹慎ながら、私はまた笑ってしまっていた。ほとんど無意識に。鉄仮面と呼ばれていた私も、随分と変わってしまった。いや、違うな。彼、と言ったほうが適切かもしれない。彼はもう死んだ。そう、SS親衛隊、アルベルト・フォン・ハーフェン少佐は死んだのだ。
だから、身体はハーフェン少佐だが、あくまで「私」であり、彼ではない。
そしてこれは、彼が死に至り、私が生まれるまでの回想録である。
1945年5月8日、ドイツ第三帝国は無条件降伏を受諾し、その野望とともに、世界という名の舞台から降りた。連合軍やソ連軍は我が物顔でのさばり、残党狩りや、戦争犯罪者の捜索に躍起になっている。当然、ハーフェン少佐も例に漏れず追われる身であった。だが、彼は前々からドイツからの脱出を企てていたので難なくジュラ山脈のとある森林地帯まで至ったのである。
「本当にここでいいのかい。次の町までだと、車でも3時間は掛かっちまうよ」
バーゼルとオルテンの丁度中間あたり。夕方頃だっただろうか、そこに着いたのは。草深い針葉樹林を抜ける一本の街道の中頃で、ハーフェン少佐は車を止めさせた。何も言わず、さっさと降りようとする彼に対し、運転手の男は最初こそいぶかしんでいたが、金を受け取ると大人しく去って行った。
年中緑の杉林も、この時間帯だけは紅色に染まる。その出で立ちは、さながら葬儀の参列者達。葉の擦れ合う音は戦死者への鎮魂歌。黄昏の空を舞うカラスの群れ。生ける者すら飲み込まんとするような黒林が、ハーフェン少佐の前に立ちはだかっていた。
しかし、糊のきいたグレーのスーツが闇に溶け込むことはなく、大海原を行く船の如く確かに存在していた。
森の中で、私はキャンプを張って寝た。静かな夜だったが、森はざわめき立っていたような気がする。森は、彼を拒んでいた。
これらは、前触れだったのかもしれない。
翌日キャンプから出ると、とてもみすぼらしいカラスがこちらをずっと窺っていたのだ。近付いても動こうとしなかった。けれどもそれは確かに生きていた。証拠に潰れかけた二つの黒点が真っ直ぐハーフェン少佐を捉えていた。点というにはあまりに深く、禍々しい「闇」であった。ともすれば魅入られて魂を抜かれそうになる程だった。常人ならば。
ハーフェン少佐には、精神と呼べるものがなかった。ただ生きている、といった感が強かった。彼の行動に意味はなく、理由も概念もなかった。信念も野望も生きがいも、同じく。
やがてカラスは、大きさの違う左右の羽を上手く使って飛び去って行った。ハーフェン少佐はそれを眺めるでもなく見ていた。朝霧に紛れ見えなくなるまでそう時間は掛からなかった。
軽い朝食を摂り、用を足し、また西へ歩いた。昼食と夕食以外一切の休憩なしで65キロ進み、キャンプを張った。
そして翌日、キャンプの前に雪の如く白いハトがいた。深紅の双眸に宿る生命の躍動、世界に調和をもたらす一筋の光明。天から遣わされた一羽の使者。そのハトは鳴きも動きもせず、ひたすらハーフェン少佐を見つめていた。憎しみのあるところに愛を。絶望のあるところに希望を。争いのあるところに許しを。主への祈りにもあるように、また、そのハトにも当てはまった。
だが、ハーフェン少佐が感銘を受けることなどありはしなかった。「善」も「悪」もない彼の前では如何なるものも単なる偶像にすぎなかった。
しばらくしてハトは、美しい翼をはためかせ、優雅に空を駆けて行った。ハーフェン少佐はそれを見送るでもなく見ていた。朝霧に紛れるまで。
あれは、ハーフェン少佐らしくない致命的なミスだった。キャンプの形跡が、アメリカ兵に発見されてしまったのである。
「追え! 逃がすな! 何としてでもあのゲシュタポ野郎を捕まえるんだ!」
こんなところまで哨戒が出てるはずがないと高をくくっていたのがあだとなった。相手の規模は6人と、それこそ分隊程度だったが、このような僻地を警戒するには大げさすぎた。大日本帝国が1週間前に――6月23日に沖縄を完全に占拠されていたことをハーフェン少佐は知らなかった。それはつまり戦争犯罪者の捜索にあてる兵力の増員を意味している。
(ヤ―パン(※ドイツ語で日本の意)が、落ちたか……)
ハーフェン少佐は意外にも冷静だった。逆にアメリカ兵の方が慌てていたように思われる。出会いがしらの反応ではやはり彼に分が上がった。六つの銃口が彼を捉えるより早く、ハーフェン少佐の拳銃が吠え、3人を食った。その後はもう前に撃ちながら後退の繰り返しで、なかなか決着がつかなかった。その上増援も要請されたらしく、少しだが相手側に余裕が見受けられた。
10分が経過した。アメリカ兵に諦める気はないらしい。まだ追ってくる。どこまでも、どれだけ走っても銃声と罵声が消えない。ハーフェン少佐は疲れを感じていた。もともと司令部勤めの彼に長時間の全力疾走は、予想以上に彼の体力を削っていたのだ。もう後5分と持たないだろう。だが、新たな音が彼の耳に入ってきた。
(この音は……、川の音か。ならば)
名も知らぬその川が、眼前に広がった。流れは速く、幅は狭く、川底は覗けないほど深かった。落ちたらまず助かる見込みはないだろう。ハーフェン少佐は川を背に振り返った。アメリカ兵たちは何か喚きつつ、こちらに走ってくる。目は、怒りに満ち満ちていた。
敵弾に伏すか、激流に噛み砕かれるか。究極の選択がハーフェン少佐に突き付けられた。逃げも隠れもできないこの状況下。時間は無情にも過ぎて行く。
ハーフェン少佐は、川に飛び込んだ。ドボンと上がる水しぶき、水中からみる地上界、アメリカ兵たち。白い線を引きながら掠る銃弾がまるで流れ星のようだった。
(雨が……、降っている……)
(川の音が……、聞こえる……)
(鳥が……、とんでいる……)
そう、鳥が飛んでいた。闇と光。醜と美。負と正に喩えられるカラスとハト……。あの時の二羽が仰向けに倒れたハーフェン少佐の頭上を飛んでいた。相反する存在であるはずのカラスとハト……。だがこの時は、ひどく自然に見えた。何故だかわからないが、不自然に思えなかった。
不意に、ハーフェン少佐は強烈な睡魔に襲われた。瞼が鉛のように重たく感じられる。体は縛られたように動かない。再び薄れ行く意識の中、彼は声を聞いた。
「私は貴方を殺すべきかしら? それとも……」
それは、野太いアメリカ兵の声ではなく、優しい女の声だった。
時計の、時を刻む音をはっきりと認識するまで、ハーフェン少佐は一体どれだけ朦朧としていただろう。視界に入るのは雨雲ではなく、民家の天井のそれだった。窓の外は暗く、ろうそくの頼りない炎だけが光源だった。
ハーフェン少佐は起き上がろうとしたが、体中に激痛が走り苦悶の表情とともに低いうなり声をあげた。彼はようやく川に流されたことを思い出したのである。
(ここは、何処だ?)
冷静になっても、皆目見当つかないこの現状。ドイツ人であるだけで疑われたりする今の情勢。助けられるなど到底考えられない。よくて通報、悪くてそのまま放置のはずだ。だが、現実ハーフェン少佐は怪我の治療も施され、ベッドに寝かせられている。枷などもなく、見る限りドアにカギは付いていない。ますます解らなくなった。
ああでもないこうでもないと脳内会議を繰り広げていると、がちゃっとドアが内側に開いた。体が動かせない代わりに顔だけ向ける。すると見知らぬ女が、器の乗ったトレーを手に入ってきた。
「気が付いたのね」
柔らかい声。ハーフェン少佐は何処か聞き覚えがあった気がした。
「これを食べなさい。話はあとで聞くから」
女はベッドの傍らにあった木椅子に腰かけ、器の中の粥を少量スプーンですくってハーフェン少佐の口元に運んできた。栗色の瞳が彼を真っ直ぐと見つめてくる。食べろということだ。
しばらくは警戒していたが、腹の底から湧いてくる空腹感に勝てず、粥を口に含んだ。
このとき、ハーフェン少佐の中に味覚というものが生まれた。彼は今まで料理というものに味を見出したことはなく、必要だから食べるのみであった。しかし、彼はその粥の味を感じたのである。
ハーフェン少佐の前に次の粥が運ばれた。今度は迷わなかった。迷わないどころか、ひな鳥のように欲した。
次から次へと粥を食べるハーフェン少佐に女はこうと問うた。
「貴方は今、自分の中に生まれたものを、説明できる?」
「………………」
「できるはず、ないわよね。貴方は、人であって、人ではないものね」
「………………」
ハーフェン少佐は、ただ黙っているしかなかった。自分とは何なのか。そのような疑問など、持ったことがなかったからだ。無関心で無感動。それそのものが彼だったと言ってもよい。女の質問に答えるなどできはしなかった。
「『美味しい』と言うのよ。それは」
「美味しい?」
「そう。この世には多くの美味しい食べ物や料理があるの」
「………………」
「そのうちの一つが、貴方が食べたお粥よ。貴方は今まで何も知らずに食事をしてきたのよ」
「………………」
食事。それは生きて行く為にするもの。ならば先ほどの感覚は何だったのか。『オイシイ』……。解らない。知らない。
「まあいいわ。いずれ解るでしょう。それより、怪我の具合はどうかしら? できる限りはしたつもりだけど」
「……痛む」
「それは当り前よ。貴方はあの川を流れたのだから」
そうだ、私は川に流されたのだ。そして、川岸に流れ着いて、そこで……。
「何故、私を殺さなかった。……何故私を助けたのだ」
最も不可解な疑問。ハーフェン少佐の理解を超えた女の行動。それを彼は率直に問いただした。
「おかしなことを言うのね。不満でもあるの?」
女の返事に、彼はより困惑した。
「私は、元ドイツ兵であり、将校だった。いわゆる戦犯だ。匿ったと知れれば裁判に掛けられる。銃殺刑の可能性もある。どの道助けたとて、害こそあれ、利はない。しかし私はこうして貴女に助けられた。私はそれが理解できない」
女がまたハーフェン佐の目を真っ直ぐと見つめる。彼も視線を彼女に合わせる。しばしの間を置いて、女は口を開き、
「今はまだ教えられないわ。じゃあね」
と言ってろうそくを吹き消し、部屋を出て行ってしまった。
はぐらかされ、取り残されたハーフェン少佐は仕方なく目を閉じた。あの女は何者なのか。ここは何処なのか。何故助けられたのか――。
(彼女はまだ知らなくてよいと言った。ならば知らなくてもいいのだろう。今はただ眠ろう)
この眠気が睡眠薬からきていることは何となく解った。
次に目を覚ました時、再びあの女が見計らったように部屋に現われた。
「少し効き目が強すぎたかしら」
睡眠薬のことか。とすぐ分かるほどハーフェン少佐の意識ははっきりしていた。
「大分楽になったでしょ? 身体」
ふと自分の身体を見る。無意識に上半身を起こしていたことに気が付いた。疲労感のようなものはまだあったが、ある程度なら動かすことができた。
「食事を持ってきたわ。自分で食べてね」
女はトレーを左のテーブルに置くと、何処からか分厚いハードカバー本を取り出した。
「食べ終わったらこの本を読むといいわ。貴方なら読めるから」
タイトルも著者名も記されていない本。女が去った後、運ばれた食べ物をすべて平らげたハーフェン少佐は例の本を遠目で見ていた。果たしてこの本は何なのか。そもそも本なのか。ジャンルは。内容は。様々な疑問とともに彼は見ていた。
しかし結局、ハーフェン少佐は自らに芽生えた好奇心というものに抗えず、本を手に取った。その瞬間――
バサササササササササッ!
まさに手に取った瞬間だった。本は突然生き返ったように光を放ちながら宙に飛びあがり、ハーフェン少佐の目の前に広がったのだ。
(一体、これは……)
『天より高く、海より深く。知は万物を成す根源なり。其は時に神を下し、人に隷属す。我は何たるか。かくありきや。汝望まんと欲するならば、我は教えよう。千の知。万の知。億の知。これすなわち人の欲するところなり。汝自らを制さざるところ、然り。人の子なれば読まん、これもまた然り』
最初のページに記された文章。知らない文字。この世のものではない。しかしながら頭の中では確かな情報として読み取られていた。そして、その文章を皮切りに次々と新たな情報が雪崩れ込んできた。
(っっっっっっっっっっ)
頭が、割れそうになった。あまりの痛さにハーフェン少佐は悲鳴を上げそうになった。いや、実際彼は上げていた。声にならなかったのだ。言い知れぬ衝撃に声帯どころか指令を出す脳までもが悲鳴を上げていた。声にならない悲鳴というのは想像以上に堪えた。だが、好奇心――違う。彼の知識欲は容赦なかった。もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと……………………。
(これ以上は、もう――)
バタンッ、ゴトッ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。すうっ、はああああ」
突如として本が閉じ、床に落ちた。あの内側から自分を破ろうとする流れも収まった。ハーフェン少佐は息を切らしながら驚愕の表情を顔に張り付けていた。
また、その身にかかる疲労は言わずもがな。全身汗まみれだった。傷が開かなかったのが不思議なくらいに、だ。
「お疲れ様。よく耐えたわね」
ハーフェン少佐は部屋に現われた女を凝視した。
「知るというのはそれほど苦しいものなのよ」
「知る?」
「そう、その本は本来なら貴方達は見ることさえ許されない禁断の書。貴方が知ったのはほんの数ページ。いえ、その本に終わりはないの。砂漠の中の一粒の砂にも満たないくらいの量。たったそれだけ。でもその量でさえこれだけ苦しいの」
「……………………」
知るということ。苦しいこと? これほどまでに……。しかし、知識欲というものは狂おしいほどに知を求めた。苦しいのになぜ……。
「それは人が知ることでしか存在できないからよ」
女は諭すように呟いた。
「人は知ることでしか人を理解できない。愛せない。憎めない。知ることでしか自分を定義できない。知ることでしか……」
女はそこで口を止め、頭を軽く左右に振った。
「貴方にも分かる日が来るわ。きっとね」
「?」
「もう眠りなさい。遅いから。また明日会いましょう」
待ってくれと言いかけた自分にかえって驚いた気がする。そして間もなく眠気が襲ってきた。今度の睡眠薬は遅効性だった。
「おはよう」
「…………」
「食事ができたの。そこの服に着替えてリビングにきて」
無言で首肯する自分がいた。不信感や猜疑心、警戒心に懐疑心。それら一切がなくなっていた。
私が私ではなくなっている。
確かにそう感じた覚えがある。
ハーフェン少佐はハーフェン少佐ではなくなりつつあった。この時、私は既に彼の中に息づいていたのかもしれない。
とにかくハーフェン少佐は久しぶりにベッドから起き上がり、差し出された服に身を包んだ。これがなかなかぴったりだった。
「洗面所が隣にあるから顔を洗ってくるといいわ。タオルを出しておくから」
言われた通り顔を洗いに行った。いつ振りだろうか、顔を洗うのは。
(? 何故私は今そのようなことを考えたのだ?)
ハーフェン少佐は一瞬立ち止まり、思案顔になる。が、
(今はそんなことなどどうでもいいか)
と、すぐに止めてしまった。
バシャバシャ、バシャバシャ。
「……………………」
(この感覚は?)
「気持がよかったでしょう?」
「?」
「すっきりしたでしょ?」
それでも理解できないハーフェン少佐は、自分から説明しようと口を開いた。
「ひどく、冷たく感じた。今まで意識したことはなかったが、水とはこれほど冷たいものだったのか。知らなかった。だが、決して不快ではなかった。身体が軽くなった気がする。眠気もなくなった。これが、貴女の言う気持ちがいいということなのか」
女は淡々と述べるハーフェン少佐に頷きを返した。
「そうよ。人はみな朝起きてまず顔を洗って気分を変え、朝餉を食べて味を楽しむ一日はそうやって始まるの。でも、それを意識しなければ何も感じない。寝ているのか起きているのかもわからず、顔を洗うのもただ眼脂を落とすため。食事は栄養を補充するため。貴方はずっとそうだった。誰にも操られない、そうかと言って自ら導こうともしない。貴方は糸のないマリオネット。ただ生きるだけの哀しいドール。けれども貴方は少しずつ変わり始めている。この世界に生まれようとしている。でも、それは、貴女の選択次第」
女は一呼吸置き、リビングを指差した。
「御覧なさい。あの砂時計を」
「あれは?」
「あの砂が落ちるまで、貴方はここにいることが許される。でも、あの砂が落ちるまでにここを離れなければ貴方は彼らに捕まる」
「…………」
「貴方の選択は?」
またあの時のような――川で見たときのような目で、女はハーフェン少佐を見つめた。何か哀しいものを見る目なのか、それとも不安からくる目なのか。ハーフェン少佐にそれを知るすべはないが、答えは決まっていた。
「『貴方は人であり人ではない』私がここで目覚めた日、貴女はそう言った。あの時は解らなかったが、今ならわかる気がする。それが、私を殺さなかった理由なのだろう? それに、私はここにきて色々なことを知った。そして私は、自分が、さらなる変化を求めていることにも気が付いた。今までならあり得ないことだ。そのようなことは。貴女の例えは言い得ている。確かに私は人形だった。だが、その人形に生を吹き込んでくれたのは、紛れもない貴女だ」
目は心の鏡。心のない者の目は死んでいる。しかし、ハーフェン少佐の目はどうだろう。何かに満たされ、またさらに求めるあの目。彼は、初めて生を感じていた。
ハーフェン少佐の答えを聞くや否や、女の表情がほぐれた。やがてそれは微笑みへと変わっていく。
「悔いはないみたいね。その返事が聞きたかったわ。貴方の言う通り、私が貴方を殺さなかったのは――いえ、最初貴方を殺そうと思ったのは貴方が哀しかったから。星の数ほどの人を今まで眺めてきた中でひときわ哀しく、寂しかったのが貴方だった。でも私は決めたのよ。貴方を少しでも人に近付けるのが貴方を救うことなのだと。だから――」
彼女は数歩下がって頭を軽く垂れた。それは、本来ならばあり得ないこと。神が人に対してするようなものではない。
「だから、残った僅かな時間。大切に過ごしましょう」
「……ありがとう……」
神と人との契約。などと言うのは少し大仰だが、あながち嘘というわけでもなかった。
残された僅かな時間。過ぎてしまうのは本当に早かった。
あの後、ハーフェン少佐は様々なことを知った。歌を聴いたり、踊りを観たり。詩を読んだり、詩を書いてみたり。小屋の外にも出た。視界いっぱいに広がるひまわり畑に、彼は思わず息をすることも忘れていた。
そんな取るに足らないことばかりだったが、ハーフェン少佐にとって、そして私にとってもそれらは全てだった。
別れは、意外とあっさりしていた。彼女が掛けてくれた言葉などがその最たるもので、ただ一言、「じゃあね」だった。まるで明日また会う、というような言葉。だが、私にはかえってその言葉が心地よかった。いや、未練が残らなかったと言った方がよいか。
「構えっ!」
私は今、何処だか知らないが、広場の柱に縛られている。目の前には10人程度の連合兵が銃を構えて整列していた。
別れを告げたところで私の記憶は一時途絶える。気付いたとき、私は既にアメリカ兵に捉えられていた。話を聞く限りでは、私は何処かの川岸で伸びていたらしい。なるほど川に飛び込んだ続きというわけだ。私を連行する兵士たちには見覚えがあった。憲兵に引き渡されるその時まで終始空気がピリピリしていたのをよく覚えている。
刑が執行される。「私」の生も、ここで途絶えるのだ。思い残すことは、もうなにもない。
何故ハーフェン少佐は自ら死のうとせず、あの瞬間まで生き続けていたのか。と言っても私はつまるところ彼なのだが、彼この世界に生まれてすらいなかったのではなかろうか。彼は、私が生まれるまでの揺りかごにすぎなかった。
再び人形という彼女の例えを思い出す。人形だったころの罪。それを背負って今私は逝こうとしている。仕方のないことだ。このことは彼女から――ヘスティアからよく聞いていたし、その上で覚悟したことだ。時間が許す限り私は人になろうと。だから、私はとても安らかでいられる。
私はそのように思う。
慈愛の女神ヘスティア。彼女もまた、結局のところ人の手によって作られ、形を与えられた存在。人がそれを意識しなければこの世界に留まることすらできない陽炎のような存在だ。しかし彼女は笑っていた。それでもいいと。
私もまた、似たようなものだ。彼女と出会わなければ、私はいつまでもハーフェン少佐のままだった。
私は彼女のおかげで「人間」として死ぬことができる。
(ん?)
私はふと空を見上げた。
そこには二羽の鳥が、あのカラスとハトがいた。どうやら迎えのようだ。では逝くとしよう。この先にあるのは一体何なのか。闇なのか光なのか私には皆目見当つかない。けれども、私は――
「撃てっ!」