チリン チリン
序文
夏の音には、どこか人の心を惑わす毒があるのかもしれません。風鈴の涼しげな音色や、遠くで響く蝉の声。私たちが当たり前のように受け入れているその「季節の風物詩」が、もしも全く別の恐ろしい何かだったとしたら――。
日常のすぐ隣に潜む歪んだ狂気と、静寂を切り裂く一瞬の絶望。この物語を開く前に、どうか一度ご自身の部屋の音に耳を澄ませてみてください。
その音は本当に、あなたが思っている通りの音でしょうか?
『あのう。今日 引っ越してきたんですけれど……』
そんな女の声が玄関のドアの向こうから聴こえてきた。僕は、ちょうどシャワーを浴び終えたばかりで、服を着ていなかったから、ドアは開けずにドア越しに声を張り上げた。
「そうですか。済みません、今ちょっと出られないんですけど」
そう言うと、
そう言うと、ドアの向こうの僕よりは若そうな声が、どこか楽しげにくすりと笑った。
「あ、気にしないでください。お近づきの印に、夏の**『風鈴』**をドアノブにかけておきますね。すごくいい音がするんですよ」
軽やかな足音が遠ざかり、代わりに玄関のすぐ外でチリン、チリンと涼しげなガラスの音が鳴り響いた。蒸し暑いアパートの廊下に響くその音は、確かにどこか心地よかった。
僕はタオルで頭を拭きながら部屋に戻り、Tシャツを着込んで冷風扇のスイッチを入れた。
チリン、チリン。
風もないはずの玄関から、音が絶え間なく続いていた。最初は気にも留めていなかったが、15分、30分と経つにつれて、奇妙な違和感が胸を締め付け始めた。
リズムが、あまりにも一定すぎるのだ。
チリン。チリン。チリン。チリン。
風に揺られている音ではない。まるで時計の針のように、正確に1秒間隔で鳴っている。さらに奇妙なことに、その音に混ざって、耳障りな低い音が聞こえ始めた。
ジ……ジジ……チリン……ジジジ……
それは蝉の鳴き声のようでもあり、肉が焦げる音のようでもあった。不気味さに耐えかねた僕は、意を決して玄関へ向かい、スコープから外を覗き込んだ。
スコープの向こうには、誰もいないはずの薄暗い廊下が映っていた。
ただ、ドアノブには何も吊るされていない。
チリン。
音は、ドアノブからではない。スコープのすぐ真外、金属の枠を指で弾くような音だった。
チリン、チリン。
よく見ると、スコープのガラス越しに、白く濁った巨大な「目」がぴたりと張り付いていた。音の正体は風鈴などではなく、女が狂ったような笑顔で、自分の爪でドアの覗き穴を等間隔に叩く音だったのだ。
目と目が合った瞬間、ドアの向こうから、蝉の鳴き声にそっくりな、甲高い女の囁き声が鼓膜に届いた。
「ねえ、聞こえる? これが私の、一番好きな夏の音」
本作をお読みいただきありがとうございます。
蒸し暑い夏の夜、ふとした瞬間に感じる「日常の歪み」をテーマに執筆しました。どこにでもある引っ越しの挨拶や風鈴の音といった爽やかな夏の風物詩が、徐々に執着と狂気に侵食されていく恐怖をお届けできていれば幸いです。
ドア一枚を隔てた向こう側の異界。もし今夜、あなたの玄関から規則正しい音が聞こえてきたら——どうかスコープを覗く前によく確かめてみてください。




