お化けの誕生
ずいぶん昔、吹き曝しの野の岩陰で、夕に、1人が死にました。
何度かの日の出と日の入りの前に、動物に腰を叩かれました。倒れた腹を押さえられ、肩と首の付け根を咥えられ、引っ張られて、振り回されました。
別の何人かが動物を突いて、追い払ったので、既の所で解放され、その夕まで生きていたのでした。
1人の強健な体は、生存への警鐘として、傷に相応の激しい痛みを休みなく発し続けました。
別の何人か達は、噛むと痛みが和らぐ樹皮を与えたり、居場所を移る時、一緒に運んだりして、慈しみと労わりを示し続けました。
1人は、纏わり付く苦痛を堪えたり、時に堪え切れず、苛立って呻き悶えたりしながら、養生に努め続けました。
しかし、傷から毒が回り、熱が出て、著しく腫れて、膿みました。
体の力が衰えて、抵抗およばず、腐ってくると、脳が幸せを催させ、感覚を鈍く遠くさせ、徐々に各所の通電が消え入って行きました。
程なく息も絶えました。
険しさの残る眉間を寛げ、罅割れた唇を弛め、濁り粘った目を伏せて、すっかり脱力して、動かなくなって仕舞いました。
別の何人か達は、心身に、不快な負荷を来しました。
1人が、何人か達の中で、取り分け賢く強健で、動物を狩ったり、荷物を運んだりするのに、大きな役割を担っていたからです。
別の何人か達は、とても助かって、嬉しかったからです。
助かっていると表現すると、1人に喜ばれたからです。
1人に喜ばれると、別の何人か達も、益々気分が良かったからです。
1人が動かなくなって仕舞うと、快適だったそれら全てが、無くなって仕舞うからです。
それらが無くならないように、動物を追い払い、1人の世話を焼き、置いて行きませんでした。
きっと1人も留まろうと、戻ろうと抗っていたのに、結局、置いて行かれて仕舞うし、置いて行って仕舞います。
とても不快な負荷でした。
こういう負荷は、今まで誰かが息絶える毎に、程度や種類を違えつつ、常に生じて来ました。
故に何時しか、何人か達は、機会を設けるようになっていました。
望んで置いて行く訳ではないし、望まれて置いて行かれる訳でもないと、息絶えた方へ示すと共に、自分達へ知らしめる機会です。
息絶えた方を取り囲んで、眺めたり、撫でたりします。
負った負荷を一旦抱え、ちょっと詰め直してから、背負い直すような機会でした。
1人が息絶えた際も、この機会が設けられました。
夕からどんどん暮れて行く、吹き曝しの野の岩陰で、息絶え、すっかり脱力した1人を、別の何人か達が取り囲みました。
1人は、長く苦しんで、ゆっくり衰え、腐ったので、息絶える前から虫が湧いて、厭な臭いもしていました。
息絶えた今となっては、黒ずんだ体の全面を、一層多くの虫共が、寄って集って飛び回ります。
うぞうぞ、もぞもぞ、ぶんぶん、わんわん、彼方此方で蠢いて、てんで不規則にぞぞめいています。
疲弊し切った死に顔も、往時の快活な面影も、分厚く覆い尽くされて、容易に窺い知れません。
為すがまま傷み、食べられて、無くなってゆく一方なので、これは1人ではなくなる、1人は居なくなるのだと、本能的な実感が、ひしひし立ち込めるばかりです。
地平に没する夕日が、一筋、眩しく輝きました。
次いで、するする宵が広がり、1人を暗く染めて、ぼうっと滲ませ、溶かしてゆきます。
取り囲んでいた何人か達が、1人、また1人と踵を返し、岩陰の向こうの、火のある居場所へ戻ります。
最後に、若い1人が残りました。
1人に良く懐いていて、1人に良く構われていて、跳び掛かる動物から庇われた、取り分け若い1人でした。
若い1人は、1人の事を、繰り返し思っていました。1人に庇われた事を、1人が死んで無くなる事を、何度も思っていました。
動物に跳び掛かられる直前、空気が揺らいだ気がした事を。
受け流さずに振り向けば、1人に庇われる前に、自分で避けられたかも知れなかった事を。
1人が大きな役割を担っていて、全員にとっても、1人1人にとっても、自分にとっても、1人が大事だった事を。
1人は、今、無くなり始めている、これ1つだけしか無い事を。
だから、“どうかして戻らないか”と、強く意図し続けていました。
1人に痛みが和らぐ樹皮を噛ませて、移動する時は1人を運んで、ひときわ慈しみ労わって、ずっと“戻れ”と意図していました。
結果、1人は死んで、無くなろうとしています。
けれど若い1人はまだ、“戻らないか”と意図していて、今、辛うじて灯りの気配が届く、足元も朧な岩陰に居ます。
不快な負荷を来たしていて、携えて居られそうになく、どうかして、この負荷が無くならないかと、身動ぎもせず、意図していました。
1人を覆う虫共は、宵が深まるに連れ、飛んだり食べたりする動きを緩め、張り付いて、休み始めています。
僅かに差す灯りの端が、1人の鼻先や、頬骨や、顎の線に敷き詰まった虫共を、ほんのり見て取れる位の、暗紛れに照らし出しています。
広大な野の上空で、夥しい量の星が瞬きます。青白い月をさっと遮って、速い鳥の影が過ります。
遠くから、太い風が吹き寄せ、岩や木に当たり、砕けます。ぼうぼう、おうおうと鳴り渡り、一帯をすっぽり包みます。
戻れ、戻れと意図しながら、若い1人が見詰めていると、粗い粒々の塊になった、動かない1人の口から、低い濁声が漏れました。
え、えい。
口元に居た虫共が、機敏に少し飛び立って、近くを彷徨き、余所へ留まりました。
声は、1人の体内から、腐敗した空気が抜ける、風鳴りの音の1種でした。
それでいて、まるで、若い1人の意図が、思いも寄らない無理に通じ、死んで無くなり掛けの1人が、戻って来たようでもありました。
若い1人は、確かに1人の声を聞き、ふうっと浅く息を詰め、意識と体を緊張させます。
ぎゅっと唇を引き絞って、“こうではない”と感じます。
ずっと“戻れ”と意図しているのは、黒く腐って臭いのする、虫塗れの脱力した1人では無い。
こうなる前、もっと前、激しい痛みを堪え切れず、苛立って呻き、暴れる前の。
濁り粘った目で、じっと見上げてくる前の、罅割れた唇から、微かな泣き声を漏らす前の、痩せてぬるぬるする手指で、強く握って来る前の。
快活で賢く、強健な、自分を動物から庇って、動物に叩かれる前の、慕わしい1人に戻らなければ。
戻らなければ、戻れないなら、こう戻って仕舞うなら、戻らないのが良い。
1人は戻らないのが良い。
このまま無くなるのが良い。
若い1人が、額に冷や汗を浮かべ、じっとり眦を湿らせて、じりりと少し後退ると、気配を察した虫共が、わっと一度に飛び立ちました。
飛び交う粒の幕が煙り、ばちばちと若い1人や岩に当たり、ぶうう、びんびんと幾重にも、耳障りな羽音が逆巻きます。
咄嗟に目を細めて、両腕を面前へ掲げた、若い1人の視線の先で、1人がのろりと立ち上がりました。
ぐらんぐらんと揺れた後、倒れそうなくらい仰け反って、長い長い声を発しました。
えぇえーぃいぃ、いいいい、いいい…
声は、風鳴りの1種で、姿は、飛び交う虫共の、犇めき合う波かも知れませんでした。
それでいて、まるで、死んで無くなり掛けの1人が、戻って来たようでもありました。
こうしてお化けが生まれました。
若い1人は、息を吸って、細かく震え、吐き出せず、岩陰から駆け出しました。
火のある居場所へ跳び込んで、別の何人か達に、見聞きした物を表現し、汗を垂らし、涙を流して、息を切らせて倒れました。
携えて居られないような、不快な負荷を来していた所へ、やっと無くなれる筈の1人を、戻らせて仕舞ったと感じた負荷が、若い1人の心身を押し潰し、二度と息を吸わせませんでした。
別の何人か達は、驚き、怪しんで、岩陰へ急ぎました。
岩陰には、衝突して死んだ虫と、汁と、黒ずんだ窪みだけが残り、1人は消えていました。
動物が、咥えて行ったかも知れませんでした。
それでいて、1人が戻って来て、若い1人を連れ去ったようでもあったので、お化けが生まれました。
何人か達は、息絶えた若い1人を岩陰へ寝かせ、居心地が悪くなって、揃って居場所を移りました。
内の1人が、去り際に、岩陰へ寝かされた若い1人と、藪に潜んだ1人が、自分達を見ているのを確かに認め、別の何人か達に表現しました。
差し掛かる影の加減や、石や草や動物かも知れませんでした。
それでいて、行く先を確かめているようでもあったので、お化けが生まれました。
移動中、妙に虫が多く、厭な臭いが漂っていました。
近くに腐った果物や、動物の死骸があるのかも知れませんでした。
それでいて、付いて来ているようでもあったので、お化けが生まれました。
遠く離れた新しい居場所に着いた後、見て回っていた岩陰の1つに、干からびた1人が居ました。
動物が運んで来たかも知れないし、全然別の1人かも知れませんでした。
それでいて、連れて行こうと待ち構えているようでもあったので、お化けが生まれました。
何人か達の内、何人かが、お化けから離れる為に、移動を繰り返すようになりました。
移動中、また別の何人か達と行き合うと、何人かは、避けるべき脅威の周知の為、お化けを表現しました。
不可解な表現と、常軌を逸した勢いを警戒され、追い払われる際に、急かされた1人が倒れて、打ち所が悪く死にました。
何人かの下にも、別の何人か達の下にも、お化けが生まれました。
こうしてお化けは少しずつ増えて、段々広がってゆきました。
今はそこら中に満ちています。
お化けが生まれています。
終.




