第4話『逃亡者』
冷たい風が、暗い森を吹き抜ける。
枝葉が擦れ合い、ざわざわと不気味な音を立てていた。
息を潜めていても、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
ズシ……ズシ……
地面を震わせる足音。
それが一歩近づくたび、背筋に冷たい汗が流れた。
『真価はあなた次第』
ふと、あの銀髪の少女の言葉が頭をよぎる。
(……真価?)
(運が999で真価?)
少女の涼やかな笑みが、今になって妙に不気味に思えた。
なぜなら――
今、俺の目の前にいるのは。
身の丈二メートルを超える、緑色の怪物だったからだ。
⸻
ギィ……ギィ……
黒い槍を地面に引きずりながら、化け物が森の中を歩く。
赤く濁った双眸が、暗闇を裂いてこちらを探していた。
「ゴブリン……?」
思わず呟く。
だが、すぐに否定する。
「いや……デカすぎるだろ……」
名前は知らない。
けれど本能が理解していた。
――勝てる相手じゃない。
(力1、耐久1、速さ1……)
(こんなの、どうやって戦うんだよ)
喉が乾く。
胃がひっくり返るような吐き気が込み上げた。
そのとき――
ゴギィィッ!!
黒槍が振り下ろされた。
隠れていた木の幹が、爆音とともに粉砕される。
「ッ!!」
反射的に地面を転がった。
飛び散った破片が頬を掠め、血が滲む。
「くそっ……!」
息が荒くなる。
頭の中が真っ白だ。
(何か……)
(何かないのか……!)
『真価はあなた次第』
再び少女の言葉がよぎる。
(運が999なんだろ……)
(だったら――)
祈るように思った、その瞬間だった。
【スキルを習得しました】
【ラッキーステップ】
頭の中で声が響いた。
すると次の一歩が思わぬ方向に動いた。
足が石に乗る。
「っ――」
滑る。
だが転んだ先で、偶然体が低くなった。
その瞬間。
ゴブリンの槍が、俺の頭上を掠めて空を切る。
「……え?」
次の瞬間、さらに奇妙なことが起きた。
倒れた先にあった岩に槍がぶつかり、軌道が逸れる。
その拍子に、折れた枝が跳ね上がり――
ゴブリンの顔に絡みついた。
「グガァッ!?」
怪物が怒りの咆哮を上げる。
(今の……ラッキーステップ?)
(偶然、か?)
分からない。
だが――
体が自然と前に動いていた。
走る。
ただひたすらに。
枝を掻き分け、転びそうになりながら森を駆け抜ける。
息が焼けるように熱い。
肺が悲鳴を上げていた。
それでも、不思議と逃げ続けられている。
まるで――
何かに導かれるように。
⸻
「ハァ……ッ……ハァ……」
もう限界だった。
膝から崩れ落ちる。
視界が揺れ、意識が遠のきそうになる。
そのときだった。
「あなた、大丈夫!?」
女性の声が響いた。
振り向く。
そこにはひとりの女性が立っていた。
栗色の髪が風に揺れている。
細身の鎧を纏ったその姿は、どこか凛としていた。
そして――
一瞬だけ、視線が吸い寄せられる。
鎧の隙間から覗く、豊かな谷間に。
(……やべ)
慌てて目を逸らす。
(違う違う、今それどころじゃないだろ俺!)
「まさか……ゴブリンに襲われたの?」
「ゴブリン……いや……」
息を整えながら言う。
「もっとヤバい……」
「……?」
「でかい……槍持ってる……緑のやつ……」
その瞬間。
彼女の顔色が変わった。
「ッ――ゴブリンロード!?」
「それかも…」
彼女は森の奥を睨む。
「ここにいるはずがない……」
「異常事態だわ」
「私はリナ。あなたは?」
「ハイバラ……タクミです」
「ハイバラ?」
少し首を傾げる。
「じゃあ、タクミでいいかしら」
そう言うと、彼女は俺の腕を肩に回した。
「街まで急ぎましょう」
「タクミ、立てる?」
「……ありがとう、ございます」
思ったより力強い腕だった。
その温もりが、少しだけ恐怖を和らげる。
その直後――
森の奥から。
グォオオオオオオッ!!
凄まじい咆哮が響いた。
「まだ追ってくる……!」
リナが舌打ちする。
「とにかく走るわ」
「生き延びるために!」
⸻
リナに支えられながら、再び足を動かす。
運だけで生き延びた。
だが――
その“運”がどれほど異常なものなのか。
このときの俺は、まだ知らなかった。




