第十話 狩場の支配者
ーーー再び四球で出塁してワンアウト一塁。
キャッチャー、絢辻恭の人間の反応速度を超えたピックオフプレーによって立ち直るかと思われた風太郎だが、そう簡単に物事は運ばない。緊張かそれとも単純な実力不足か、ボールが先行して苦しい投球が続く。
ただ、この場で最も苦しいのはバッテリーではなく。
「せ、セーフ!!」
(これでもギリギリセーフなのか!)
塁を離れている間、常に刺殺の危険に晒される岩代のランナーの方であった。
(帰塁意識100パーセントで出てんのに……これじゃセカンドリードなんて取れやしないぞ)
刺されないことだけに集中して、キャッチャーが捕球した瞬間に全力で戻っても紙一重のタイミング。恐ろしいほどの速度と、あり得ない精度のピックオフだ。もはや塁にいることそれ自体が罠のように思えてくる。
ーーーそれでもなお、いや敢えてと言うべきか。岩代監督の駒野はランナーに盗塁のサインを送る。
(正気か……?いや、これだけ投げてれば一度の暴投くらい有り得る!)
全く減速のない、ピッチャーのスローイングギリギリを狙った完璧なスタート。ボールは風太郎の手からすっぽ抜けて、高めを狙ったボールがワンバウンド。
(もらった!)
捕球が精一杯。スローイングは動作にも入れない。大体の人間はそう考えていた。当のキャッチャー本人とそのボールを受けるショート以外は。
「おにいちゃん!」
「任せなっ!」
――絢辻恭は、前に出た。
もし打者がスイングしていたら打撃妨害どころではなく、もしかしたらフォロースルーで後頭部を思い切り殴打されていたかもしれない。それでも、恭は打者がこのワンバウンドにスイングしてこない方に賭けた。
高精度のハンドリングでショートバウンドを捌き、すぐさま低い姿勢で弾丸のような送球を、二塁ベース上で待つ妹のグラブへ。
走者はスライディングすら出来ずにベース手前でタッチアウトされてしまう。
「ナーイスショートぉ!!!よく入ってくれた!」
「おにぃちゃん!!!なーーいす!!!」
天真爛漫に諸手を挙げて喜ぶ未来。まさに有言実行。出したランナーをすぐさま殺していくその姿に、ボールをもらった風太郎の顔からも迷いが少しずつ晴れていく。
その様子を見て脚を組み直しながら、頭を悩ませているのは岩代の監督、駒野である。頭を指でトントンと叩き、じっと真っ直ぐな視線を恭に送る。
「監督……」
「まあ待て光俊。お前さんの言いたいこともわかる。これ以上やっても無駄死にだとそう言いたいんだろう?」
「……………そうです」
「むしろ逆だべ。おーしお前ら。こっから塁に出たらどんどん盗塁仕掛けてけ?アウトになっても一向に構わん。ガンガンあのキャッチャーのプレーを引き出せ。」
敢えてキャッチャーボックスに座る恭にも聞こえるように、はっきりと。恭はその視線にさらに強い視線で返し、駒野の言った意図を読み取る。
(バックネット裏、カメラ回ってんな。あのおっさん、なかなか仕事が早えじゃねえか。)
後ろには既に三脚に乗ったビデオカメラが撮影を開始している。あくまでこの戦いは練習試合。秋本番では組み合わせ次第で最大のライバルチームになる可能性のあるこのチームに情報を渡せば渡すだけ不利なのは恭にもわかった。
だが。
(だからどうした。そんなん関係ねえんだよ!)
風太郎の投げたボールは打者のインハイに吸い込まれ、どん詰まりの打球が真上へと上がる。風に流された弱い打球は相手チームのベンチへと落ちていく。
(俺はこの試合に……アピールに命かけてんだ!)
ちょうどジャグやバットのあるあたりを落下点と見た恭。その危険を見てなお、突っ込んでいくスピードを緩めない。無鉄砲に怪我の危険を顧みず、そのボールだけを愚直に追いかけて、相手ベンチに頭から思いっきり突っ込んだ。
「届けぇぇぇぇぇ!!!!!」
いわゆるアイスクリームコーンキャッチ。ソフトボールの大きさ故か、最後まで諦めずに懸命に伸ばしたキャッチャーミットのギリギリ先にボールは収まる。
「審判さん!捕ってる!」
「アウト!スリーアウトチェンジ……君大丈夫か!?血が出てるぞ」
「あ……?っと、いっけねぇ。口切っちまった。だっせぇ。」
口の中で生臭い鉄の匂いが充満する。それでもボールだけは死んでも離さなかった。周りを見渡すと……おおよそ人間を見るような目ではない、畏怖のこもった視線。この目を快く思ったことは、引越し前を含めても一度もなかったが、今は違う。
物理的にも心理的にも見上げられるこの視線が、今は確かに心地がいい。
「…………ナイスプレー」
「どうも」
相手監督の歯噛みしながらの複雑な賞賛に一瞥してベンチに戻っていく。チームメイトからの手荒い祝福に嬉しそうに年相応の笑顔を浮かべている。
「………バケモノが」
「あはぁっ♪ホントにあの子一人に制圧されちゃったねぇ?どうすんのこれ?」
スパイクの紐を結びながらただ一人、笑みを浮かべて弾んだ声で楽しそうな女の子。現在世代最強エースの呼び声高い右腕の四葉花凛だ。
「笑い事ではねえぞ?花凛よ。」
「だぁいじょうぶだって。確かに全然ランナーすら進められないのはキツイけど?あの子がどれだけ上手くたって……一点も取られなければ負けないんだからぁ。」
あまりにも常人の理解を超えた未知のプレー。バケモノの出現に戸惑いと重い空気が流れるベンチで……もう一人のバケモノが、遊び半分ではない邪悪な笑みを浮かべていた。
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「…………なんだこれは」
何も面食らっていたのは相手チームだけの話ではない。金川ファイターズ丹内監督。絢辻恭を使っている立場その人でさえ、この状況に困惑を隠せない。
あっという間のハイペースで回は進んで既に5イニング。その間の失点は当然のように0だ。
「絢辻の親父さんには感謝せなあきまへんなぁ」
「全くです。もしコイツを相手取らなければならなかったと想像するだけで胃が痛い。」
元々野球に比べれば盗塁の成功率は決して高くない競技ではある。リード禁止、モーションを盗むという行為すら許されないこの競技においては、もはや盗塁というよりキャッチャーから力づくで塁を奪う『奪塁』とでも言う方が正しいだろう。
ただ盗塁成功率云々の話はキャッチャーのレベルがある程度上がった上の話であって……塁間も短い小学生段階ではバランスも程よく取れているのだ。
それを肌身で感じてきた10年以上の経験があるからこそ……ここまで盗塁阻止率10割。その異常性に背筋が震える。
ーーー恭の強さは肩ではない。
むしろ肩だけなら、このチームにも同等の選手はいた。
異質なのは、捕ってから投げるまでの速さだ。
(常人離れした敏捷性、もはや野球というよりはバスケットボール選手に近い。)
驚くべきは捕ってから投げるまでの速さ。特に球の持ち変えのスピードという一点で見れば、プロでもそういないレベルだろう。地味な部分だがそこは天性の才能でなんとかなる分野ではない。遊びたい盛りの小学生の身で、一体どれだけの修練と研鑽をその身に積んできたのか。想像すら難しい。
(それも………コイツの一番ヤバいところは『そこ』じゃない。)
数あるスキルが高水準にまとまっている恭だがもう一点、その異常性が突き抜けている箇所がある。
ーーー岩代は、別に馬鹿の一つ覚えのように盗塁ばかり仕掛けてきているわけではない。県内最強クラスと言われる機動力、組織力を持ってエンドラン、デイレードスチール、スクイズを敢行し……揺さぶり、それを恭は全て完封しきっている。
(アイツが特に優れているのは、――『読み』だ。)
絢辻恭はバッターが打席に入る時、サインを貰う時、そしてボールが来た後の仕草をじっと観察する。平日のナイター練習の時、こんなことを恭は丹内に告げていた。
『何をじっと見てるのかって?んん……まあ仕草とかもそうだけど……なんか仕掛けてくる時って『目』に出るんだよな。欲だったり、不安だったり。』
『目?』
『いつもと違う感じのヤツが。サインなんてガン見したって解読できるようなもんじゃないけど、バッター見てたらなんとなくわかってくるぜ?』
エンドラン、スクイズと読めばバットが当たらない位置までボールを外し、カウント稼ぎのフェイクと見るやどんどんストライクで追い込んでいく。監督にとってはまるで掌で踊らされているかのような錯覚にすら陥る。
仕掛けを察知する洞察力、流れを読んで試合のキモを見極める勝負眼。それが絢辻恭のもう一つの、そして最大の武器であった。
もう岩代の野手たちは塁に出ても全くチャンスとは感じていない。むしろ逆、ピックオフでの牽制死を恐れて及び腰になっている感じすらある。まるで丸腰で猛獣の領域に迷い込みでもしたように。
「バント!キャッチャー!」
「セカンド!間に合う!」
「あいあいよぉ!」
――一人のキャッチャーの加入が、大きくチームを変えてしまうことが、このスポーツではよくある。マスクを被り重くて暑い防具を携え、そして地味。その苦痛とトレードオフでもたらされる試合への影響力は他の野手のポジションとは比較にならない。
「アウッ!!」
「もう一個!!!」
一人のスーパーキャッチャーの加入が、チームの色さえ変えてしまうこの瞬間に、自分は立ち会っているのだとそう丹内は確信した。
(凄まじい自信、凄まじい実力、そして失敗なんてハナから頭の中にない、思い切りの良さ。獲物は絶対に逃げられない。もはやそのボールが届く範囲は全て――ヤツの狩場だ。)
「い、岩代がバントゲッツー!?」
「初めて見た……」
塁間の短い小学生ソフトボールにおいて、地区大会レベルではダブルプレー自体が稀。空想上の産物でしかなかったそのプレーに味方ベンチもフィールドも大いに沸いている。
「全く、絢辻さんもとんでもないヤツを送り込んでくれたもんだ」
「…………重いね」
「………はい。ったく、これから大変だよ、これは。」
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絢辻恭は今、自分でも自覚できるくらいには、『入って』いた。
野球より短くなった塁間でいつもより近く感じて投げやすいのは当然だろう。だが、ここまでビタビタに、ボール一個分も狙いを外さずに刺しまくれた経験は一度もない。
監督が評価していた「読み」さえも、ここまでズバズバ当たることは滅多にない。
(楽しい………マジで楽しい!!!)
何が違うのか。今までのプレーとの差は明確にあって……それは間違いなく『モチベーション』であろうことは疑いようもなかった。
「なーいす恭くん!すっごい!すっごいよ!!」
――一番カッコつけたい、一番良いプレーを見せたい女の子がそこにいて。
「…………悔しいですが、ナイスプレー」
「胡桃ちゃんも、ナイスセカンドだ。めちゃくちゃ安定してるわ」
「むむぅ……」
ーー競いたい相手がそこにいて。
自分が死ぬ気で努力してきた意味。それが今までずっと分からずに、ただがむしゃらに足掻き続けてきたのだけれど。
(俺はきっと……この時のために生まれてきたんだ)
努力の意味を、絢辻恭は今知った。
(この娘の笑顔のためなら、俺はなんだってできる。何にだってなれる)
これからの努力に、意義を見出した。
ーーーそして、倒すべきライバルも。
「ストライック!アウッ!」
「やっべえ……ぜんっぜん当たんねえじゃん」
バケモノの目覚めの時。もう一匹のバケモノ、四葉花凛も覚醒の時を迎える。
「すげえ……これで7者連続三振」
「オイオイ金川まだノーヒットかよ。いくらホームとはいえ……あの強打のチームを」
この日の四葉花凛は、あまりにも手がつけられない圧倒的な力で打線を制圧しきっていた。午前中の一試合目に投げた時より、エンジンがかかりきった午後の方がそれは顕著で……恭もその研ぎ澄まされた集中力で相対しながらもここまで3三振。驚くほど前に飛ばないそのボールの強さに感嘆するしかない。
(すっげえ……あんなにでっかいボールなのに。全然当たる気配がねえ。どういうことなんだ?どういう理屈なんだ?)
レギュラーを取るためにはバッティングでのアピールも必須。完璧に抑え込まれて悔しさを滲ませながらも、その瞳は今までの人生のいつよりも輝いていた。
(血が……熱い。分からないって、できないって……こんなに楽しいんだ!)
まるで野球を始めたあの時に戻ったように。いつの間にか日々を痛みや疲れで消化するだけの毎日ではない。大きな壁にぶち当たること、それ自体が新鮮で、絢辻恭に刺激をくれる。
「次の回、最終回です!」
「いよっしゃぁ!きっちり締めて逆転サヨナラ狙ってこうぜ!」
「恭、監督が呼んでいるが。」
「あ?んだよキャプテン。せっかくいいとこだろうが」
最高潮に達したテンションに水を刺された気分になって恭は少し顔をしかめながらも手招きする丹内監督の元へ向かう。
「交代。キャッチャー胡桃な。セカンドは4年の卓人にやらすから」
「は?はぁ!?なんで?なんで俺が交代?まあ確かに打ててねえけど……アピール不足かよ?」
「逆だ逆。もう十分すぎるくらい合格だ。ほれ、俺の横に来い」
丹内は自分の座るベンチの横をドンドンと叩いて、恭に座るように指示した。恭も渋々それに応じる。
「楽しかったか?初めての実戦は。」
「楽しかったですよ。最後の意味不明な交代がなければ」
「かっかっか。生意気に大人に噛みついてくるなぁ。いいよ良いよ。大物になるわ。」
汗びっしょりな恭の頭をワシワシと音が鳴るくらい雑に撫でる。子供扱いに表面上は少しむっとするが、不思議とあまり嫌な気分にはならなかった。
「素晴らしいパフォーマンスだ。正直驚いた。練習でもここまでではなかったべ。」
「そーすね。俺の人生の中でも一番。打てなかったのはアレだけど。レギュラーは決まったってことですか?」
「まあまあ急ぐな急ぐな。お前一試合目は慣れないセカンドで手一杯でろくに胡桃の捕手捌きを見れてないだろ。じっくり観察していけ。」
恭に替わって扇の要を担う、小さな女の子のキャッチャー。この前の応援席から見ていた試合と、あっぷあっぷしながら見ていた一試合目。そして練習の姿も見てきて、胡桃に対して抱いた感想は――良くも悪くも平凡。
特段にストロングポイントも見当たらない。ただ大崩れはしない。ワンバウンドの処理に関しては目を見張るものがあったが、正直言って暖簾に手押しというか。もちろん4年生ということを考えれば目を見張るほどレベルは高いのだろうが、アレだけの啖呵を切った割にはというものだった。
「その様子じゃ、胡桃じゃレギュラー争いの相手としては不足か?」
「………まあ、否定はしないです。ただ、一試合目後ろを守ってて感じたこともある。」
まずはそのテンポ。捕ったらすぐに投手にボールを返球し、サイン交換もスムーズ………というか投手に首を振ることを一切認めていないのだろう。結果として打者に考える隙も与えない、凄まじいスピード感が生まれていた。
そして、何より最大の特徴が。
「守りやすいっつうか?なんとなく正面に打球が飛んできてたような………あ。そういや結構な頻度で守備位置の指示してきてたような気がする。」
今現在もショートを守る未来に対して細かく、半歩分単位で指示を送っている。恭がそれに気がついたことに満足げな表情を浮かべる丹内。
「三橋さん、胡桃のノートってどこさ在んでしたっけ?」
「ん?ついさっきまで見とったよ?胡桃のグローブのとこ……ああ、これこれ。」
手渡されたのは、一冊の大学ノート。傾向と対策という簡素なタイトルだけ書かれたそのノート。おそらく雨か何かで濡れてしまっているのだろう表紙は若干ボロくなっていたが、胡桃の几帳面さが現れているのか汚い印象は全く感じさせない。
「中、見てみ」
「…………こりゃすげえ」
現れたのは……これまで対戦してきた選手一人一人のウチとの打撃成績と、コース別打率。打球傾向やカウント別のおおよその心理など。事細かに記載がある。
「てか似顔絵うっま………凄すぎるだろこれ」
「この一冊だけじゃないぞ?もう俺たちが知ってるだけで4冊はあるな。これを毎回頭に叩き込んでからアイツは試合に臨んでる。すげえ奴だよ。」
「いや……すげえなんて次元の話かこれ。プロのスコアラーレベルだろ」
このノートを作っていること、それ自体への驚きではない。驚くべきはそこまでする勝利への執念。勝利絶対主義を謳って、悩んでいた自分を遥かに超えるその思いの強さが伝わってくるノートに、その身が震えた。
「俺はお前のとんでもないパフォーマンスを見ても、まだどっちか決める……つうかどっちかを捕手失格にする気はねえ。まあ、ポジションは一つしかないから出てない方には別のポジション守ってもらうことにはなるが。」
「…………」
「お前さん達には、お互いにないもんを学び合って欲しい。恭は胡桃から戦略やリード、データの使い方を。胡桃は恭から経験と身体の作り方や使い方を。ポジションを争うのと同時に、高め合ってくれ。」
監督の言葉は静かだったが、胸の奥深くに沈んでいくような重みがあった。
勝ち取るか、奪われるか。たった一つの椅子を巡る争いだと思っていた。
だが違う。
同じポジションを奪い合う相手は、敵ではない。
自分に足りないものを映し出す鏡であり、越えるべき壁であり、そして――隣に立つべき仲間なのだ。
グラウンドに目を向ける。
小さな背中でチームを操る胡桃の姿が、先ほどまでとは違う意味を持って映った。
(面白え……)
恭の瞳の奥が、熱を帯びる。




