第九話 最初のアウト
夏休み最後の土曜日。秋の戦いが始まるまさに一週前。
金川ファイターズは敵地での練習試合の真っ最中。相手は因縁のライバル岩代。ダイヤモンドの真ん中のピッチャーズサークルの中にはスーパーエース三橋彩音………では無く。
「無理無理無理無理ですって!岩代のエースと投げ合いなんてっ!今からっ!今からでも交代しましょ!ねっ!?」
「できるわけねえだろ。ウチのエース様ならあそこの日陰のブルーシートでのびてんだよ。熱中症でな。」
一つ下、小学4年生とは思えないほど良く言えばすらっと細長い手足に面長な顔面。一目見たものに『棒人間』を想起させるマウンド上のピッチャー。名前を秋瀬風太郎。
その立ち姿は彩音と比べてあまりにもオドオドと頼りない。だがその目だけは、逃げ場を探す小動物みたいに必死だった。
本来ならこの試合、つまり午後の二試合目も彩音が投げる予定だったわけだが、連日の酷暑に昼休みあたりからノックアウト。急遽スクランブル的に恭がバッテリーを組まされたのが風太郎、このチームの唯一の控え投手である。
「…………一応もう一回聞くけど、変化球は?」
「投げられるのはチェンジアップ……っていうかただのスローボールですけど。そんでもってどこにいくか自分でもわかりません。」
「了解。ストレートがグーでチェンジアップがパーな。わかりやすくていいや。」
「――あの。」
手早くミーティングを終わらせてプレイボールに備えようとする恭を風太郎が呼び止めた。内心頭を抱えているのがバレたのかとヒヤリとした恭である。
「あの、僕が本当に……岩代の打線に通用するんでしょうか。一応……ちょっと前までピッチャーなんてやったことなかった素人なんですけど」
「やってみねえとわっかんねえよ。――ただ一つ言えんのは……ここでアピールしないと俺達は間違いなく秋はベンチスタートってこと。ははっ、運命共同体って奴だな。」
「何の慰めにもなってませんよぉ」
「大丈夫………プラン通りにな。」
ーーー投球練習の終わりかけ、ラストボールが恭の後ろで叫ばれる。キャッチャーの恭から軽く一球だけ二塁へのスローイングを行って、伸びのある送球がショートを守る未来のグラブに収まる。
(とりあえずノせてその気にさせねえと。初回で自信つけさせねえとな。)
絢辻恭の、記念すべき対外試合初めての一球。ど真ん中にストレートを要求して構えたミットにーーーボールが収まることはなかった。
「いっっっっっ!!!!!」
「デ、デッドボール!」
風太郎の右手から放たれたストレートは吸い込まれるように右打者のお尻に直撃したのだから。
「す、すいません………」
「マジ……すんません」
初めてのボール、初めてのスポーツ、初めての実戦。いきなり相手は地区最強のライバルチーム。相棒は完全にテンパって浮き足だっている。
(逆風、逆境、四面楚歌……)
そんな苦しい状況で、絢辻恭はキャッチャーマスクの奥で、口元がゆっくり歪む。追い詰められた時ほど、血が騒ぐ。
(丁度いいハンデじゃねえか。上等だコノヤロー。)
話はおよそ一週間前に遡る。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
ーーー脚が、鉛を流し込まれたかのように重い。
喉からキュイキュイと音が出るほどに息を切らし、夜の湿気たっぷりな変態的な酷暑も相まって吐き気がする。
「はぁ………はぁ……あのっ……クソッタレ……」
本日40本目の坂ダッシュを終えた恭はその場にへたり込む。手をアスファルトに付きながら何ともぶざまな姿を晒していた。
あの決意の夜からわずか三日後。あまりの練習メニューの過酷さに絢辻恭は早くも決断を後悔しかかっていた。
金川ファイターズ監督、丹内哲治の掲げるフィジカルソフトボール。読んで字の如く、鍛えに鍛えたその肉体で他のチームと差をつけ圧倒する。そのスイングの速さで大味ど暴力的な打線を形成し、投手が取られる点より多く取り返して勝っていく。それが丹内監督の基本理念。
(だからって………こんな真夏に……こんなっ……ランメニューはねえだろうが!)
このチームの練習は平日五日のうちナイターで三日。土日はどちらも練習か試合が入るという、小学生としては標準とも言えるスケジュール。だがその練習内容の過酷さは熾烈だ。平日4時間の練習のうち、2時間は徹底的なランメニュー。瞬発系のメニューを多く揃え、選手に妥協を許さない。
恭が一月前まで居たチームは夏場の練習の殆どを守備や実戦の練習に費やしていた。そこから一転して冬場の如きランメニューに、経験したことのない盆地特有の蒸し暑い暑さ。心が折れかかってしまうのは無理もない事だった。
「大丈夫?恭くん。これお水。」
「女神……ウチの妹が今日も可愛い事だけが俺の生き甲斐だ………んぐっ、ぐっ……ぷはぁ。サンキューな。」
「えへへ……もっと褒めても良いよ?撫で撫でしてくれてもいいよ?」
帽子を取って撫でろと言わんばかりに頭を突き出してくるので、優しくそっと触れるが………この妹、同じ練習メニューをこなしているはずなのに全然汗をかいていない。いや、全くかいていない訳ではないが。息が切れる様子もなくピンピンしてご機嫌でグラウンドに戻っていく妹の姿に少しばかり恐怖を感じる。
「やっほ。なーんかバッテバテだぁね。」
「ええと……瑠衣ちゃんだっけ?」
「ボクのことは気軽に瑠衣でいいからね。」
声を掛けてきたのはボクっ子リードオフマン、二階堂瑠衣。この前の試合の前にも話をしたのでチームに入ってからも割と打ち解けるのが早かった女の子だ。
そしてこの娘もこれだけ走って全然息切れした様子もない。
「すっげえな。伊達にフィジカルソフトボール名乗ってねえわ。このくらいの練習メニューは余裕ってことかよ。」
瑠衣はその整った顔に一瞬きょとんとはてなマークを浮かべるが、こちらの意図を理解すると得意げに胸を張る。
「へっへん。別にね、みんながみんなそういう訳ではないのさ。ただボクと未来は小学2年生から上級生と同じメニューをこなしているからね。ほら、風太郎なんてあそこで泡吹いて倒れてるでしょ?」
「風太郎ぉぉぉぉぁ!!!!」
瑠衣の指差した方を見ると細長い棒人間、もとい4年生の風太郎が釣られた後の魚みたいな挙動でぶっ倒れていた。動きが若干面白い。
「大丈夫か?しっかりしろ!」
「………遺言を聞いてもらえますか?」
「お、おう!任せやがれ!」
「最後に………たかった。」
「………なに?」
「未来さんと……エロエロドスケベなこと……」
「なんか結構余裕ありそうだけど!?」
関西人の彩音が居たらきっと見事なズッコケ芸を見せてくれたことだろう。クソ暑い夜空に恭のツッコミが響く。
「…………恭くーん。大丈夫そ?」
「瑠衣よ。なんかめっちゃ最低の遺言聞かされたんだが」
「…………はっ!お義兄さん!」
「誰がお義兄さんだ!お前みたいなヒョロガリに妹は渡さねえよ!?」
「お願いしますよぉ!ほんと毎回毎回袖にされてて……恭さんから言ってもらえたらって……マジで、靴舐めますからっ!レロレロレロって。」
「コイツ……必死すぎる……」
それはさておき。
「そういえば……このチームの目標とかってあるのか?」
「目標?」
「そうそう。全国制覇とか、世界一とか。」
「あはっ♫そーんなに大それた目標は掲げてないけどね。一応、県大会出場かな。まだうちのチームの歴史で、一度も行ったことないし。」
「……………マジか。そんなに狭き門なのか?」
「あれ?そういえばソフトの大会のシステムって恭君にはまだ教えてないんだっけ。いいよ?ボクがとことん教えてあげようじゃないか。」
得意げに鼻を鳴らす瑠衣。周りを見渡して少し前にあった折れた木の枝を拾ってくると、くいくいとしゃがむように手招きする。求めに応じてしゃがむとナチュラルに瑠衣と肩が触れ合って、ドキドキしてしまう。女の子への耐性がない恭にとってはこういう相手は気にしないちょっとしたことでも結構な大事である。
「まずボク達がメインで戦うのは秋の大会。福島県大会、東北大会、そして春の全国大会につながる重要な奴だね。5年生以下で戦う……まあコレは野球も同じだよね。」
「そうだな。どこのスポーツでも同じだろうな。」
「その県大会に出場するには、まず県北大会を勝ち上がらないといけない……あ、県北地区っていうのは伊達市、福島市、二本松市、川俣町ね。ここからええと……大体70チーム出てくるのさ。それを3ブロックに分けてブロック優勝3チームが出場権をもらえる。ここがいちばんの鬼門ってやつ?」
「うへぇ……地区大会ですら70チーム以上いんのかよ」
想像以上の規模感とこの地域のソフトボールの盛り上がり方に恭は驚きを隠せない。これでは一つの小学校につき一つチームがあるレベルではないか。
「大体四回勝たないと県大会に進めない。過酷なサバイバルだけど………でもね?これを三回に減らして、なおかつ強いチームともあんまり当たらないようにしてくれる神システムがあるんだよね。それが……」
「シード権ですね。」
「ちょおっとぉ胡桃ちゃん!ボクが説明してあげてるんだけどぉ?」
ふらりと横に現れたのはクールでツンケンした目つきの4年生、一ノ瀬胡桃ちゃん。恭が胡桃ちゃんと初めて出会ったのは引っ越し前だが、何故かその頃からバチバチにライバル視してきた後輩の女の子。恭は若干苦手意識を持っていた。
「三週間後の福島市の大会。その大会の優勝、準優勝チームに県北大会のシード権が与えられるんですよ。一回戦免除は勿論、シードを取れれば他の市のシードチームとは最後の方まで当たらずに済みますから。――それともう一つ、ウチのチームにはこれを絶対取らないといけない理由が。」
「な、なんだ?」
「………彩音先輩は朝死ぬほど弱いので。8時開始の試合とかだと本当にパフォーマンス悪いんですよ。ほんと……イラッとくるくらい」
「おお……」
一見冗談みたいな理由だが、このチームの防御面をそのピッチング一つで賄っているこの現状を見ると全く笑えない。なるほど一回戦をパス出来ればこのチームの弱点を1日目だけでも潰せるというわけだ。
この胡桃の苦虫を噛み潰したかのような顔。彩音がそのスロースターターっぷりでどれだけ迷惑をかけまくってきたかが教えられなくても手に取るようにわかる。
「この大事な大会の直前の今。監督はレギュラーを全て白紙にしました。言われたのは貴方が入団してきたその時ですから、聞いていますね?」
「あ、ああ……勿論。でもそれは……」
「レギュラー争いを活性させるための方便って奴です。そんなのはみんなわかってる。もしくは………貴方にスムーズにポジションを渡す為。悔しいですが、練習を見ていても実力は貴方が一歩どころじゃなく抜けてる。私が監督でもキャッチャーは貴方に務めさせたい、それはわかってます。」
いつも以上に悔しさを露わにして、帽子を目深に被り直す胡桃。握られた拳は、爪が食い込んで血が出るのではないかと心配するほどに硬く握られている。
「私は女ですから、男の子に比べたら力もない。肩も強くないし、口が悪いのでピッチャーとしょっちゅう喧嘩してます。背もちっちゃいので安心感とか…………そういうのも無いと思ってます。」
現状の自分の力を無理やり認め、自分を分析して。
「でもそれがなんだっていうんです。」
ーーーなお、その目には闘志がメラメラと燃えている。
「肩が弱いなら、塁に出させなければ良い。ピッチャーが言うこと聞かないなら、引っ叩いてでも聞かせればいい。 絢辻恭さん。私今日、喧嘩を売りにきたんです。」
「胡桃ちゃん……」
「来週の土曜日、岩代さんとの練習試合があります。多分らそこが秋戦線までの最後の実戦になりますから。そこで勝負です。私の意地にかけて、絶対キャッチャーは渡しません。」
呆気に取られる恭。意図が伝わらなかったと考えた胡桃は恭の胸に軽くグーパンチしながら高らかに宣戦を布告する。
「何があったってルール上キャッチャーの椅子はたった一つ。どちらかがそれを掴んでどちらかはそれを溢すわけです。要するに……」
「よ、要するに?」
「首洗って待っとけ、ってことです。」
軽やかに踵を返すとあっという間にグラウンドの方に駆けて行ってしまう。その姿は恭にはいつもの小さな背丈の女の子とは思えないほど大きく見える。
「あはは……あんまり気にしないで。胡桃ちゃんって昔から喧嘩っ早いっていうか、ああいう子だから」
苦笑いの瑠衣。だが喧嘩を売られた当の本人は呆気に取られるでもなく……ただ静かに、グラウンドの向こうを見つめながら笑みを浮かべていた。
「………俺さ。あっちに居た時は、先輩にすっげえうめえキャッチャーの人がいてさ。下級生の時はずっとその人の控えで……その人が卒業したら勝手に正捕手が転がり込んできてさ。それを奪う奴もいなかったんだよ。」
「へぇ……実は本格的なレギュラー争い初めてだったり?」
「そーいうこと」
恭は顔をぱんっと両手で叩いて、無理やり目を覚ますように目を見開く。自分の実力ならここでもキャッチャーをやらせてもらえると無意識で思っていた驕りを、傲慢を、その手で自ら叩き直す。
「燃えてきた。俺の方こそ……絶対負けない。」
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
「内野ゴロゲッツー!サードファーストバント警戒!外野長打警戒!」
監督の指示はもう既にない。絢辻恭にはその実績、練習で見せていたパフォーマンスから配球から守備シフト、その他守備面の全てに至るまで独自の裁量権が与えられている。マスクをとって前に出てテキパキと指示を出し、最後にファーストとアイコンタクトを取ってからキャッチャーボックスに戻っていく。
その姿をじっと見ながら一塁走者、狩野光俊は塁上で警戒心を露わにしていた。
強豪岩代の不動の俊足リードオフマン。守備ではショートを守る内野の要。県内を代表する内野手であるのは自他ともに認めるところだが、この日の試合に関してはまだ一本のクリーンヒットも出ていない。このゲームこそはと意気込んでいたところの初球デッドボールであった。
(監督のサインは……グリーンライト。いつでも走っていい……か。ただ。)
やはり気になるのは初めて見るこのキャッチャー。二軍から上がってきたばかりにしてはやたら身体が大きい。イニング前のスローイングでも軽くながらいいボールを放っていた。
(とりあえず初球は偽走で様子見て……次で仕掛ける)
初めにスタートを切るフリをして、飛び出しながら相手の力量を測る。キャッチャーの反応や、ショートセカンドの動きの機敏さ。この動き一つで情報を引き出す術を狩野光俊という選手はこの歳で心得ていた。
じっと投手を観察して、その手からボールが放たれる一瞬前にベースを蹴ってスタートを切る。3歩ほど動いたところで急停止して、すぐさま戻る体勢に……入ったその時だった。
「それじゃ、遅いよ。」
「…………は?」
その場にいた全員が目を疑った。比喩ではなく、大袈裟な表現でもなく。まるでピッチャーが壁にでも当ててボールが跳ね返ってきたかのような、いやそうとしか考えられないほどのスピードでキャッチャーから放たれた送球はファーストの手元に収まっていた。
一瞬、音が消えた。誰も理解できなかった。
次の瞬間、審判のアウトのコールだけが響いた。
「よっしゃぁァァァァ!!!一個目、一個目!オラ、ピッチャー。ランナー出ても俺達がぜーんぶアウトにしてやる。腕振って投げ込んでこい!」
「は、はいっ!腕振って投げます!」
満面の笑みで風太郎を鼓舞する恭。それを横目で、唇を噛み締めながら狩野光俊は悔しそうに拳を握りしめる。
「……………冗談じゃ、ない」
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
絢辻恭は後に自分の人生を振り返った時、その時の自分の選択に、心の底から感謝した。間違いなく人生の分岐点であり、その選択一つで人生の全てが変わっていたかもしれない。
――その中で、対外試合一番最初のこのワンプレー。このたった一つのアウト、たった一つのワンプレーが失敗していたとしたら。またその後の人生は大きく変わっていたかもしれない。
そのくらいこの一つのアウト、一つの『成功体験』は絢辻恭に圧倒的な自信と、そしてスターダムへの切符をもたらしたのである。




