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歴史短編

庫裡(くり)

掲載日:2026/01/28

 江戸から南へ多摩川を越えた先に、金剛山金乗院平間寺がある。

 そこは言わずと知れた名刹「厄除けの川崎大師」であった。


 老僧が早朝の門前をほうきで掃いていると、男の子が立っていた。

 ぼろの着物を痩せた身にまとい、髪は散切りで、5歳か6歳くらい。

 見覚えがないので、この辺の子供ではないようだ。


「どうした、お前さん、何処から来たね?」

 老僧は静かにゆっくりと話し掛けた。

「あっちから、ずっと歩いて来た」

 男の子は北を指差した。


 老僧は迷子かと思った。

「父や母から、はぐれたか?」

「逃げて来た」

 えっ、ドキリとして老僧は固まった。一陣の秋風が落ち葉を払った。

 

「腹が減って、もう死にそうだったから、逃げて来た」

 男の子が傷だらけの手を腹に当てる。

(まだ小さいのに、たいへんな苦労があったのだろう)


「そうだ、一緒に朝餉あさげを食しよう」

 老僧は寺の庫裡くりに連れて行って、料理担当の坊主にご飯を頼んだ。

 男の子は夢中になってご飯を頬張った。

(余程ひもじかったのだろう。可哀想に)


 ご飯と汁を平らげると、男の子に安堵の表情が出た。

 そしてぽつぽつと経緯を話し始めた。

 両親は一膳飯屋をしていたが、そこは火事で燃えてしまったらしい。

 父はヤケになって酒びたり。母は茶屋で日銭を稼いでいた。


「おいら自分で飯が炊けるんだよ。でもお米も無くなった。お父うは怒って叩くし」

「それで逃げて来たのだな?」

 男の子はうなずいた。老僧は背中にそっと手を当てる。

「こんなに痩せてしまって、小さいのによく頑張ったな。さて」

(御仏のご縁だ。この子が上手く生きられる方法を考えねばならないぞ)


「しばらくこの寺に住むがよい。贅沢は出来ないが、ご飯は食べられる」

「ありがとう」

 男の子は笑顔となり、お日様が優しく照らしてくれる。

 老僧はしばらく様子をうかがうことにした。

(もし、父母が改心したのなら、家に帰すのも有りだろう)


 寺の小僧さんになった男の子は、庫裡くりの手伝いをした。

 お米も上手に炊けるし、大根や里芋も丁寧に洗った。

「小僧さん、助かるよ。ありがとう」

 老僧が感謝を伝えると、小僧さんは明るく笑った。

(この子は愛情少なく育ったが、素直で良い子だ)


 それから一ヶ月経ち、冷たい風が吹く頃、小僧さんの父が寺にやって来た。

 料理上手な小僧さんの噂を聞いたらしい。

「多吉は居ますか?」

 老僧が話を聞いた。父はひどく酔っていて、赤い顔をしていた。

 一方的に、飯を炊くやつが居なくて毎日困っていると言う。


「この寺に居ります。しかし、酔いをさましてから話しましょう」

 老僧は穏やかに面会を断った。この父が酒の毒に侵されていたからだ。

「俺の子だ。この野郎、何で会わせないのだ?」

 男は怒り易く、老僧を拳骨で殴りつけた。

(痛い。この者はダメだ。子育てには向いていない)


 老僧はひるまなかった。

「昼から酒に飲まれて、自分では働かず、幼子をこき使う。親として恥を知れ。改心するまで小僧さんは返さない。この寺に逃げて来たのも御仏のお導きである。さあ立ち去るがよい」

 酒乱の父は、唾を吐いて出て行った。

(やくざな男だ。自分から幸せを捨てている。火事は不運だったようだが)


 小僧さんが心配そうに出て来たので、老僧はかっかと笑った。

「もう帰ったぞ。ワシも拳骨をもらってしまった。もっと徳を積まねばな。大丈夫だ。寺は弱い者の味方だ。御仏の慈悲は、どんな人にも未来を照らしてくれるのだ」

(小僧さんを安心させるのだ。苦難を乗り越えて欲しい。まだ若いのだから)


 老僧や坊さんたちに囲まれて、今日も小僧さんは料理を作っている。

 小僧さんが来てから庫裡くりは明るくなった。

 ゆっくりでよいから、春よ来い。

 今朝も老僧は、門前を掃き清めている。


誰しも感謝されて働きたい。無理強いはダメですよね。健気な小僧さんに幸あれ。

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― 新着の感想 ―
逃げてきた男の子と、それを優しく迎え入れる老僧のやりとりに、心がとてもあたたかくなりました。 春よ来い、のところが特に心に残りました。素敵な作品を読ませていただき、ありがとうございます。
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