庫裡(くり)
江戸から南へ多摩川を越えた先に、金剛山金乗院平間寺がある。
そこは言わずと知れた名刹「厄除けの川崎大師」であった。
老僧が早朝の門前をほうきで掃いていると、男の子が立っていた。
ぼろの着物を痩せた身にまとい、髪は散切りで、5歳か6歳くらい。
見覚えがないので、この辺の子供ではないようだ。
「どうした、お前さん、何処から来たね?」
老僧は静かにゆっくりと話し掛けた。
「分らない。ずっと歩いて来た」
男の子は首を振った。
老僧は迷子かと思った。
「父や母から、はぐれたか?」
「逃げて来た」
えっ、老僧はドキリとして固まった。一陣の秋風が落ち葉を払った。
「腹が減って死にそうだから、逃げて来た」
男の子が腹に傷だらけの手を当てる。
(まだ小さいのに、何かたいへんな苦労があったのだろう)
「そうだ、一緒に朝餉を食しよう」
老僧は寺の庫裡に連れて行って、料理担当の坊主にご飯を頼んだ。
男の子は無心になってご飯を頬張った。
(余程ひもじかったのだろう。可哀想に)
ご飯と汁を平らげると、男の子に安堵の表情が出た。
そしてぽつぽつと経緯を話し始めた。
両親は一膳飯屋をしていたが、火事で燃えてしまったらしい。
父はヤケになって酒びたり。母は茶屋で日銭を稼いでいた。
「おいら自分で飯が炊けるんだよ。でもお米も無くなった。お父うは怒って叩くし」
「それで逃げて来たのだな?」
男の子はうなずいた。老僧は背中にそっと手を当てる。
「こんなに痩せてしまって、まだ小さいのによく頑張ったな。さて」
(御仏のご縁だ。この子が上手く生きられる方法を考えねばならないぞ)
「しばらくこの寺に住むがよい。贅沢は出来ないが、ご飯は食べられる」
「ありがとう」
男の子の笑顔をお日様が優しく照らした。
老僧はしばらく様子をうかがうことにした。
(もし、父母が改心して探しに来たら、親元に帰すのも有りだろう)
寺の小僧さんになった男の子は、庫裡の手伝いをした。
お米もといで上手く炊けるし、きれいに大根や里芋を洗った。
「小僧さん、助かるよ。ありがとう」
老僧が感謝を伝えると、小僧さんは明るく笑った。
(この子は愛情少なく育ったが、素直で真面目だなあ)
それから一ヶ月経ち、冷たい風が吹く頃、小僧さんの父が寺にやって来た。
料理上手な小僧さんの噂を聞いたらしい。
「多吉は居ますか?」
老僧が話を聞いた。父はひどく酔っていて、赤い顔をしていた。
一方的に、飯を炊くやつが居なくて毎日困っていると言う。
「この寺に居ります。しかし、酔いをさましてから話しましょう」
老僧は穏やかに面会を断った。この父が酒の毒に侵されていたからだ。
「俺の子だ。この野郎、何で会わせないのだ?」
男は怒り易く、老僧を拳骨で殴りつけた。
(痛い。この者はダメだ。子育てには向いていない)
老僧はひるまなかった。
「酒に飲まれて、自分では働かず、幼子をこき使う。親として恥を知れ。改心するまで小僧さんは返さぬ。この寺に逃げて来たのも御仏のお導きである。さあ立ち去るがよい」
酒乱の父は、唾を吐いて出て行った。
(やくざな男だ。自分から幸せを捨てている。火事は不運だったが)
心配そうに小僧さんが出て来たので、老僧はかっかと笑った。
「もう帰ったぞ。ワシも拳骨をもらってしまった。もっと徳を積まねばな。大丈夫だ。寺は弱い者の味方だ。御仏の慈悲は、どんな人にも未来を照らしてくれるのだ」
(小僧さんを安心させるのだ。この苦難を乗り越えて欲しい。まだ若いのだから)
老僧や坊さんたちに囲まれて、小僧さんは元気に料理を作っている。
小僧さんが来てから庫裡は明るくなった。
ゆっくりでよいから、春よ来い。
老僧は今日も門前を掃き清めている。
誰しも感謝されて働きたい。無理強いはダメですよね。健気な小僧さんに幸あれ。




