冬眠カメムシ
昨年末にベランダの掃除をした。花や木を植えている鉢とプランターを動かして全体を水で流すのだ。鉢とプランターの下には薄っぺらい台が敷いてある。それも水で洗い流すことにした。
台を裏返しにして水をかけようとした時、何かが動くのが見えた。黒っぽくて台の色に同化していたのだが、良く見るとカメムシだった。カメムシの中でも大型で、真っ黒ではないが暗い色に白っぽい模様もある。遠くから見ると単なる虫なのだが、まじまじと見てみると何故か不気味に思える。我が家のベランダではこの種ともう一つ、緑色で少し小型のものを良く見る。小型の方は近くで見ても単なる虫でちょっとだけ可愛げもある。大きさも色も全く違うのだが、形と臭いで仲間だと分かる。
カメムシは農業ではない我が家には、臭い以外にこれといって害はないのだが、その臭いの為に共存するには気を付けなければいけない。特に洗濯物や干しておいたお布団を取り込む際には要注意だ。よくよく見たつもりでも紛れ込んでいる場合がある。時にはお風呂上りに用意しておいた着替えの中に潜んでいて、びっくりさせられた事もあった。また、夜お布団に入って電気を消しホッと一息ついた時に思いがけずあの臭いが漂うと、眠気もどこへやら大慌てで部屋中を捜索しなければならない。それでも見つかれば良いのだが、臭いはすれど姿が見えないとなると一大事だ。そんな時にはしょうがないので、臭いがしてもこの部屋にはカメムシは居ない、と自分に言い聞かせて眠気に頼るしかない。ちなみに洗濯物などに付いているのを見つけた場合には、古新聞か何かにそっと乗せて庭に運び雑草の中へ放すという、穏便にお引き取りいただく方法を取っている。
カメムシで思い出す子供の頃の話がある。男の子がいなかった我が家では、家の中に虫が出ると男勝りの妹が、対応を一手に引き受けることにいつの間にかなっていた。どんな虫にも怯むことなく立ち向かう彼女は、私からすれば頼もしい存在だった。そんなある日家の洗面所付近にカメムシの姿があった。早速妹が駆けつけてきたので、私はその場を離れてしていた用事を続けることにした。用事が片付いて手を洗おうと洗面所に戻ってみると、辺り一帯が異様な臭いに包まれている。どうしたのかと妹に聞くと、信じられないことにカメムシを潰したと言う。普段からどんな虫にも荒療治で対処している妹だが、ちょっと触れただけでもかなりの臭いを放つカメムシに対しても容赦しなかったのだ。カメムシを潰してしまえばどうなるか想像しなかったのだろうかと呆れてしまったが、仕方がないので臭いの処理も妹がするということで不問にした。妹は消臭剤などを駆使して臭いと闘っていたが、完全に臭いが消え去るには相当時間がかかった記憶がある。
ところでベランダの掃除の件だが「こんな所にカメムシが」と思い、水で洗おうとしていた台をよく見てみると、なんとあそこにもここにも黒っぽいのがいる。中には少し小さめで色もそれほど黒くないものの姿もあった。台の裏は網のようになっていて、その中に潜り込んでいたようだ。驚くべきはその数でなんと十匹余り。一匹だけでも敬遠したいのに、それだけ多いと見るだけでゾワッとする。
私は地球は人間だけのものではなく、動物や植物みんなの生きる場所だと常々考えている。本当は動植物が人間の犠牲になってはいけないと思うのだが、その点はなかなか難しくなかなかベジタリアンにはなれない。だから、せめて他の生物を脅かしたりすることなく生活したいと思って努めている。
台を裏返しにしてポンポンと叩くと、その十匹余りのカメムシが一斉に足元に落ちてきた。数は多いがどれも動き回る様子もなくおとなしく、それでも死んではいないみたいだった。その有様を目の当たりにしてしまった以上、作業を続けたくはなかったが、そのままにしておく方がもっと難しく途中で止めるわけにもいかない。それで、意を決してベランダに転がっているカメムシ達を箒で集めて塵取りに入れた。それを持って庭へ行き、雑草の上に放した。少しの間様子を見ていたが、寒さのせいなのかどれも動きは緩慢だった。
昨年はクマが世間を騒がせ、一年を象徴する漢字にも熊が選ばれた。冬眠する筈のクマがなかなか冬眠しなかったり、子熊に関しては冬眠の仕方を知らないのではないかなどの話も聞かれた。クマに比べるとあまり知られていないが、実はカメムシも冬眠する。私がそれを知ったのは数年前のことだ。12月の中旬頃だったと思うが、ベランダでカメムシを見つけたことがあった。それも排水管との間の隙間の壁に、地面に垂直の姿勢で止まっていた。壁はザラザラしているので落ちないのか、その恰好のまま2月頃までいた記憶がある。最初はたまたまその時だけそこに止まっているのかと思っていたが、その後も時々洗濯物を干しながら見てみると、同じ場所に同じ姿勢で止まっていた。大きくて黒っぽい色をしていたのだが、確か一匹だけではなく二匹か三匹いたようだ。数が不確かな理由は、高い場所の壁で覗き込まないと見えないのだ。二月の終わり頃までは確認していたのだが、いつ居なくなったのかは定かでない。その後テレビを見ていてカメムシが冬眠することを知ったのだが、その時になってあれは冬眠だったのだということに気が付いた。それにしても垂直の壁に止まったままなんて寝心地はあまり良くないのではないだろうか。あれに比べれば鉢植えの台の中は横になれるし、寝る時の姿勢としては快適なのかも知れない。冬眠中だったとすれば申し訳ないのだが、他に安眠できる場所を探してもらうしかない。
カメムシの集団を庭に放してやれやれと思ったのも束の間、植木鉢やプランターを置く台はベランダの反対側にもう一つあることに気が付いた。同じ大きさの台なのだが、確かめなくてもその裏側にも彼らの何匹かが、集団で眠ろうとしているだろうことは分かりすぎるほど分かる。ということはあのゾワッとする仕事をもう一度しなければいけないことになる。暫く考えてみたがどうも気が進まない。考えても結論が出ないので、その日のベランダの掃除は簡略化して済ませることにした。それでも、あの台の下にカメムシが……との想像がずっと脳裏にあった。それからさらに二日が経過した。その時点で私の気持ちは吹っ切れた。彼らにひと冬の安眠場所を提供しようということに。




