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第1話「非正規36.8%の意味」

黒板に書かれた「36.8%」。

それは、2024年の非正規雇用の割合を示す数字だった。

放課後の教室で、天野先生と生徒たちは「働き方」と「格差」の現実に向き合い始める。

数字の裏にあるのは、誰かの人生、そして未来。

政治経済をめぐる青春ミステリー、第2巻の幕が上がる。

新学期が始まって二週間。


放課後の教室には、いつもの5人が集まっていた。黒板には天野が書いた数字が並んでいる。


```

36.8%

```


「この数字が何か、分かるか?」天野が問いかける。


遥が首を傾げる。「消費税…じゃないですよね」


「違うな」天野は別の数字を書き加えた。


```

36.8% ← 非正規雇用の割合(2024年)

21.3% ← 1990年

```


葵の目が見開かれる。「倍近く増えてる…」


「そうだ。今日から第2巻、格差の話を始めよう」天野は教壇の端に腰を下ろした。「第1巻で消費税と法人税の関係を見た。今度は、その政策が『働く人たち』にどんな影響を与えたか、を考えていく」


健太がスマホを見ながら言う。「非正規って、バイトとか派遣とか?」


「そうだ。正規雇用、つまり正社員以外の働き方を指す。パート、アルバイト、派遣社員、契約社員…これらをまとめて非正規雇用と呼ぶ」


怜がノートパソコンを開く。「総務省の労働力調査ですね。2024年の平均で、非正規雇用者数は約2,101万人。全雇用者に占める割合が36.8%」


「なんでこんなに増えたんですか?」葵が尋ねる。


「それを解くのが、今回のミステリーだ」天野はプロジェクターを起動させた。「まず、時系列で見てみよう」


画面にグラフが表示される。


```

【非正規雇用率の推移】


1990年: 21.3%

1995年: 20.9%

2000年: 26.0%

2005年: 32.6%

2010年: 34.4%

2015年: 37.5%

2020年: 37.4%

2024年: 36.8%


注目点:

・1990年代半ばまでは20%前後で安定

・2000年代に急増

・2000年代半ばで30%超え

・その後も高止まり

```


遥が手を挙げる。「2000年代に何があったんですか?」


「いい質問だ。覚えているか? 第1巻で触れた『小泉・竹中改革』」


葵がノートを見返す。「新自由主義的な改革…規制緩和とか」


「その通り。2000年代初頭、労働市場の規制が大きく緩和された。特に重要なのが、これだ」


天野は新しいスライドを映す。


```

【労働市場の主な規制緩和】


1999年: 労働者派遣法改正

→ 派遣可能な業種を拡大

(それまでは専門26業種のみ)


2004年: 製造業への派遣解禁

→ 工場などでも派遣労働が可能に


2007年: ホワイトカラー派遣の推進

→ 事務職などでも派遣が一般化


背景:

・経済のグローバル化

・企業の国際競争力強化

・雇用の流動性向上

```


健太が顔をしかめる。「企業が使いやすくなったってこと?」


「企業側から見れば、そうだね」天野が答える。「正社員を雇うのは、企業にとってコストがかかる。給与、ボーナス、退職金、社会保険…さらに、簡単には解雇できない」


「でも非正規なら?」怜が続ける。


「契約期間が決まっていて、更新しなければ契約終了。退職金も不要なケースが多い。給与も正社員より低く抑えられる。企業にとっては『調整弁』として使いやすい」


遥の声に怒りが滲む。「それって、働く人を使い捨てにしてるってことじゃないですか」


「そういう批判は確かにある」天野は頷いた。「でも、反対側の意見も聞いてみよう」


天野は別の資料を映した。


```

【規制緩和を支持する論理】


経済界・政府の主張:

1. 雇用の流動性向上

→ 転職しやすい、多様な働き方が可能に


2. 企業の競争力強化

→ コスト削減で国際競争に対応


3. 雇用機会の拡大

→ 正社員になれない人にも働く場を提供


4. 経済の活性化

→ 企業が成長すれば、全体に恩恵が回る

```


葵が反論する。「でも、実際には給料が低くて、将来も不安定…」


「その通り。ここに、データと現実のギャップがある」天野は次のグラフを表示した。


```

【正規と非正規の賃金格差(2023年)】


正規雇用: 平均月給 約33万円

非正規雇用: 平均月給 約22万円


年収換算:

正規: 約500万円(ボーナス含む)

非正規: 約260万円(ボーナスなし)


生涯賃金の差: 約1億円以上

```


教室に重い沈黙が流れる。


「1億円…」遥が呟く。


「これは平均値だから、個人差はある」天野が補足する。「でも、非正規と正規の間には、明確な経済的格差が存在する」


怜が冷静に分析する。「つまり、規制緩和によって雇用の選択肢は増えたけれど、その多くは低賃金・不安定な仕事だった。結果として、格差が拡大した」


「それが批判派の見方だ。でも、もう一つの視点がある」天野は続けた。「この非正規雇用の増加は、本当に政策『だけ』の問題なのか?」


健太が首を傾げる。「他にも原因があるってこと?」


「ある。少なくとも三つの要因が絡み合っている」


天野はホワイトボードに書き出した。


```

【非正規雇用増加の複合的要因】


①政策要因(規制緩和)

→ 企業が非正規を使いやすくなった


②経済要因(グローバル化)

→ 国際競争でコスト削減圧力が高まった

→ 中国など新興国との競争


③技術要因(自動化・IT化)

→ 定型業務が減少

→ 高度なスキルを持つ人と持たない人の差が拡大


④社会要因(価値観の変化)

→ 多様な働き方を求める人も増えた

→ 女性の社会進出と短時間労働のニーズ

```


葵がノートに書き込みながら言う。「複雑なんですね…単純に『政策が悪い』じゃなくて」


「そうだ。ここが重要なポイントだ」天野は生徒たちを見渡した。「政治を考える時、『誰が悪いのか』を探すのは簡単だ。でも現実は、複数の要因が絡み合っている」


怜が手を挙げる。「じゃあ、政策は無関係だったんですか?」


「いや、そうは言っていない」天野は慎重に答えた。「政策は、これらの要因の一つだ。しかも、コントロール可能な要因だ」


「グローバル化や技術革新は、簡単には止められない。でも、労働政策は、政府が選択できる。どんな働き方を保護するのか、どんな規制を設けるのか。それは政治の判断だ」


遥が身を乗り出す。「じゃあ、やっぱり政策の選択が間違ってたってことじゃ…」


「『間違っていた』と断定する前に、もう一つ考えるべきことがある」天野は別の資料を映した。


```

【トレードオフの問題】


選択肢A: 労働規制を維持する

メリット: 労働者の保護、雇用の安定

デメリット: 企業のコスト増、国際競争力低下

→ 結果的に雇用が減る可能性


選択肢B: 労働規制を緩和する

メリット: 企業の競争力向上、雇用機会の拡大

デメリット: 低賃金・不安定な雇用の増加

→ 格差拡大


どちらを選んでも、何かを失う。

これが「トレードオフ」。

```


健太が頭を抱える。「どっちもダメじゃん…」


「完璧な政策はない」天野が静かに言った。「重要なのは、どのトレードオフを受け入れるか。そして、その選択の結果、誰が利益を得て、誰が不利益を被るのか、を理解することだ」


葵が強い口調で言う。「でも、非正規で苦しんでる人たちがいるのは事実ですよね。それは放置していいんですか?」


「いい質問だ」天野は頷いた。「だから次に考えるべきは、『どうすれば改善できるか』だ」


天野は最後のスライドを映した。


```

【格差への対応策(各国の例)】


アプローチ①: 規制強化

例: フランス、ドイツ

→ 解雇規制を維持、非正規を制限

→ 失業率は高めだが、雇用の質は保たれる


アプローチ②: 再分配強化

例: 北欧諸国

→ 柔軟な労働市場 + 手厚い社会保障

→ 失業しても生活できる仕組み


アプローチ③: 教育・訓練投資

例: デンマーク(フレキシキュリティ)

→ 解雇は容易だが、再就職支援が充実

→ スキルアップで賃金向上を目指す


日本は?

→ 中途半端な規制緩和

→ 社会保障は手薄

→ 再教育の仕組みも不十分

```


怜が分析する。「つまり、日本は規制を緩めただけで、その後のフォローがなかった?」


「それが批判の核心だ」天野が認める。「労働市場を自由化するなら、社会保障や教育で支える必要があった。でも、日本はそれを十分にやらなかった」


遥が不安そうに言う。「じゃあ、これからどうなるんですか?」


「それを考えるのが、次回だ」天野は時計を見た。「今日は、非正規雇用が増えた『原因』を見た。次は、その『結果』を見よう。格差は本当に拡大したのか? トリクルダウンは起きたのか?」


健太が立ち上がりながら言う。「また宿題かよ」


「宿題じゃない。君たち自身の未来の話だ」天野は穏やかに言った。「君たちが社会に出る時、どんな労働環境が待っているか。それを理解するために、学んでいるんだ」


葵が資料をまとめる。「36.8%…この数字の重みが、少し分かった気がします」


「それでいい」天野は教室の明かりを消し始めた。「数字の裏には、人の生活がある。それを忘れないでほしい」


窓の外では、秋の夕暮れが静かに訪れている。


非正規雇用の増加は、単なる統計の話ではない。


誰かの父親、母親、兄弟、友人の話だ。


そして、いつか自分自身の話になるかもしれない。


-----


**〈第2話へ続く〉**


-----



### 【この話で学んだポイント】


**1. 非正規雇用の現状**


- 1990年:21.3% → 2024年:36.8%

- 2000年代の規制緩和で急増

- 正規と非正規の賃金格差は年収で約240万円


**2. 規制緩和の背景**


- 労働者派遣法改正(1999年、2004年)

- 企業の国際競争力強化という名目

- 経済のグローバル化への対応


**3. 複合的な要因**


- 政策要因(規制緩和)

- 経済要因(グローバル化)

- 技術要因(自動化)

- 社会要因(価値観の変化)


**4. トレードオフの理解**


- 規制維持 vs 規制緩和、どちらも一長一短

- 重要なのは「誰が利益を得て、誰が不利益を被るか」


**5. 国際比較の視点**


- 各国は異なるアプローチで格差に対応

- 日本は「中途半端な緩和」という批判


**次回予告**: 格差は本当に拡大したのか? 平均賃金、ジニ係数、子どもの貧困率…データが語る日本社会の変化。そして「トリクルダウン理論」の検証。第2話「トリクルダウンの実験」をお楽しみに。


-----


### 【実際のデータと根拠】


**非正規雇用率の推移**


- 総務省統計局「労働力調査」による

- 1990年:878万人(20.2%) → 2024年:2,101万人(36.8%)

- 2000年代初頭に急増した事実は統計的に確認可能


**労働者派遣法の改正**


- 1999年改正:対象業務の原則自由化(ネガティブリスト方式へ)

- 2004年改正:製造業への派遣解禁

- これらは公的記録として確認可能


**賃金格差**


- 厚生労働省「賃金構造基本統計調査」

- 正規雇用者と非正規雇用者の賃金格差は、調査によって確認されている

- 生涯賃金の差は、労働経済学の研究で推定されている


**国際比較**


- OECD “Employment Outlook”

- フレキシキュリティ(デンマーク)、北欧モデル等は実在の政策モデル

- 各国の労働市場政策は比較研究の対象


**重要な注意**

この物語では複雑な労働市場の変化を簡略化して説明しています。実際には、産業構造の変化、少子高齢化、女性の社会進出など、さらに多くの要因が関わっています。より深く理解するには、労働経済学の専門文献を参照することをお勧めします。


-----


*数字の裏には、人の人生がある。それを忘れずに、一緒に考えていきましょう。*

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