第8章 黒い影の接触
夜の港町は、潮の匂いに混じって焦げたゴムの臭いとガソリンの揮発臭が漂っていた。
街灯の下、濡れたアスファルトがぼんやりと鈍く光り、遠くではトラックのエンジン音が低く響く。
そんな港の外れの倉庫街に、駿とヒロはいた。
「……こんなとこに呼び出されるなんて、ロクな話じゃねえよな」
ヒロが煙草をくわえたまま、薄笑いを浮かべる。
駿は黙ってポケットの中の小型ナイフを指で触れた。
野球部に入ってから、こういう“古い付き合い”との縁はできるだけ断ってきたつもりだったが、今回は違う。
呼び出しの主は、この街で名を轟かす半グレ組織《黒鴉》の幹部――木崎。
「おう、来たかよ」
倉庫のシャッターの前、黒いコートを着た木崎が腕を組んで待っていた。
その横には、見知らぬ男が立っている。
背は低いが、目つきが異様に鋭い。髪を七三に分け、無駄のない身のこなしをしている。
木崎が軽く顎をしゃくって紹介した。
「こいつは山内。裏の球界に詳しい人間だ。……お前ら、甲子園行きてえんだろ?」
「……ああ」駿が短く答える。
「だったら、俺らの手を借りろ。スポンサーってやつだ。資金も道具も、必要なら審判だって動かしてやる」
「は?」ヒロが目を細める。「審判動かすって……八百長かよ?」
木崎は笑い、ポケットから銀色のケースを取り出した。中には白い粉。
「お前らの“努力”を無駄にしねえためだよ。……それに、この粉はな、部員の中に“気力”を与える。
飲めば体が軽くなるし、集中力も増す」
ヒロが眉をひそめた瞬間、駿は本能的に一歩前に出た。
「そんなもんに頼る気はねえ」
木崎の表情が一瞬だけ硬くなったが、すぐに笑顔に戻った。
「まあまあ、考えとけよ。チャンスは一度きりだ。お前らの仲間にも、興味持つやつはいるかもな」
その言葉に、駿は背筋が冷たくなるのを感じた。
――部内に、この誘惑に揺らぐやつが出るかもしれない。
港を離れ、二人はバイクで街を抜けた。
夜風が顔を打っても、駿の胸のざわめきは収まらなかった。
「……なあ、もし部の誰かがあの粉に手を出したら、どうする?」
ヒロの問いに、駿はしばらく黙ってから答えた。
「そいつを止める。俺たちが野球やってる意味を壊すやつは、仲間でも許さねえ」
しかし、翌日――。
部室に入った駿の目に飛び込んできたのは、机の引き出しからはみ出した銀色のケースだった。
隣のロッカーの持ち主は、控えの外野手・松尾。
普段は大人しく、練習でも目立たない男。
だが、その松尾が、ケースをそっとポケットに押し込み、周囲をうかがっていた。
駿は声をかけようとしたが、松尾と目が合った瞬間、彼は部室を飛び出していった。
嫌な予感が胸を締め付ける。
――これは、ただのスポーツの話じゃなくなる。
甲子園を目指す戦いが、裏の世界に足を踏み入れ始めた瞬間だった。