第1章 黒炎会の夜
真夏の湿った夜風が、港町の埠頭をなでていく。
錆びついたガードレールの向こうには、ネオンの光が水面に揺れ、魚の腐臭とガソリンの匂いが入り混じって漂っていた。
その中央に、二十台近い単車が円を描くように止められている。排気音は既に止み、代わりに金属バットを地面に打ち付ける乾いた音が、夜の静寂を裂いていた。
暴走族「黒炎会」と、港南区を仕切る半グレ集団「朱牙」。
この街の裏通りでは知らぬ者はいない二つの名前が、今夜、ここで衝突する。
円の中央に立つ少年――
神崎蓮
は、黒い特攻服の胸元を開け、汗に濡れた素肌を見せていた。年は十七、切れ長の目に揺れる光は冷たく、そして何より異様に静かだ。
派手な刺青も金のネックレスもない。ただ、その場の空気を支配する何かを持っていた。
「お前ら、今夜は引く気ねぇよな?」
朱牙のリーダー格が唇を歪め、鉄パイプを肩に担ぐ。
蓮は応えず、足元の金属バットをゆっくりと持ち上げた。
次の瞬間、左足を半歩踏み込み、真横に振り抜く――まるでホームランを狙うかのように。
乾いた衝撃音。朱牙の一人が、呻き声を上げて地面に崩れ落ちた。
「……相変わらずフォームだけは綺麗だな、蓮」
背後から笑い声がする。同じ黒炎会の古株、東條慧だ。
だが蓮は表情を変えず、振り抜いたバットを肩に担ぎ、相手を見下ろす。
喧嘩は泥臭く、野球は華麗に――それが蓮のやり方だった。
乱闘は十数分続いた。鉄と肉がぶつかる音、怒号、血の匂い。
やがて朱牙側が劣勢を悟り、数台の単車がエンジンを唸らせて夜の街に消えていく。
「蓮、お前、これでまた少年課の連中にマークされるぞ」
慧が息を整えながら近寄る。
「構わねぇよ。どうせ、俺はもう……」
蓮は言葉を切り、海の方を見やった。
その視線の先には、港の外れにある古びた野球場の照明が、小さく灯っていた。
――三年前、そこは蓮が中学最後の試合を戦った場所だった。
満塁ホームランを打ち、地区大会の決勝に導いた。あの時だけは、誰もが彼をヒーローと呼んだ。
だが、その翌週、父親の借金トラブルで暴走族の抗争に巻き込まれ、野球部は退部。
それ以来、蓮はグラウンドに立っていない。
「おい、帰るぞ」
慧の声で現実に引き戻される。
だが蓮の頭には、あの白球の感触が消えてはいなかった。
単車に跨がる前、蓮はもう一度だけ港の野球場を見た。
いつか、あの土の上に戻る――理由なんてなかった。ただ、胸の奥に、消えない火種が残っていた。
その夜の抗争は、後に港町の均衡を大きく揺るがすことになる。
そして、それが「伝説の不良高校生たち」が集う最初のきっかけになるとは、この時、誰も予想していなかった。