第五話『海より山へ到る道』その八
メイリが後方に控える中、顔を上げたリンタロウは訥々と話しはじめた。
「殿様のもとを下がって控え室へ戻ると、男がピアを掴まえており、わたしは剣を抜いてそちらへ向かいました」
このあたりのあらましは、メイリはすでに漁村で聞いている。彼女は、後ろから見ても大きなリンタロウを見つめている。
彼の声は体格から想像されるほど低くなく、深みがあるというよりは張りがある。いい声だ、と思う。
「男とピアが消えてわたしの背後に現れました。おそらくは何かの術。入り口に留まっていた小姓二人と男が対峙するかたちに」
指で当時の位置関係を示す。説明に慣れていない感じだ。これまで彼と会話をして、一人で長い話を語るのがあまり得意ではないのだろうという印象をメイリは受けている。
「そして男は小姓の剣を奪って殺害しました」
リンタロウが語り終えると、ハイエイは少しの間考えていたようだが、
「それだけか?」
と催促した。
「正直なところ、ディープフォグには不審なところがあると思っている。だが貴殿の言葉だけで犯人と決めることはできまい。一度逃げた身であることだ」
じろりと睨む。
確かに耳が痛い。武士としての敬意ある扱いを望むならば、あのとき逃げたというのは減点対象になる。
「だが、無下に切り捨てるのは惜しい。わたしはカギアギ殿を虚言家とは思っておらぬ。今からでも堂々と訴え出るのならば、公正になるよう取り計らうつもりだ」
ハイエイは公の裁きの場にディープフォグを引きずり出したいのである。そして、殿のディープフォグに対する信頼を失わせ、影響力を減らす。それがリバース藩のためなのだ。
本当にフォグが犯人ならよし。仮にリンタロウの言うことが間違っていても、この機会にフォグの悪い評判を殿に聞かせることができる。
「それでは時間がかかりすぎます。ピアがさらわれてすでに五日以上、正式な裁判の余裕はありませぬ」
だからこそあの場でリンタロウは逃げたのだ。
「それは私情にすぎん。エルフの子供一人と、小姓二人、さらにはこともあろうにセヴン・ヴァーチューズの城を騒がせた件、武士ならばどちらを優先すべきかは明白」
ハイエイは、フォグの評判を落とすという計算は顔に出さず、武士の心がけのみを強調して言った。
「そのことは、ここ数日考えておりました」
洞窟の中では考える時間がいくらでもあった。自分の取った行動が、武士として誤っていたのではないか。やはりあそこで捕まっておくべきだったのではないか。何度も自問した。得た結論は……。
「どちらを優先すべきかは必ずしも明白ではないようです」
リンタロウは、ハイエイの言葉に異を唱えた。ハイエイは予想だにしていなかったリンタロウの台詞に驚きを隠せない。
「畏れ多くも初代帝の血を引く、このゴトク家中の問題だぞ。他に優先すべきことがあるものか」
「武士たるの本分である『忠』に照らせば、トウザン殿の仰るとおりでありましょう。が、『仁』に基づけば、優先すべきは人の命」
「それで武士の面目が立つと思うか!」
リンタロウは端座したまま、あくまで平静に、
「面目など要りもうさぬ」
ハイエイは怪物を見る顔になった。外見の話ではない。内面が通常の武士とはまるで誓っていることに気づいたのだ。
武家社会の価値観がしっかり根付いた通常の武士であるハイエイと、書物だけで武士の道を習い覚えたリンタロウの差は大きい。
現実として、面目を失った武士は武家社会から軽蔑されて居場所を失う。出世はまず不可能になり、問題が起こったときにかばってくれる者もいない。本人だけではない。息子の出仕も難しくなる。娘がいれば縁談はなくなる。面目とはそういうものであった。だから武士は面目を保つために腹を切ることすらするのだ。
それを、本で読んだ徳を優先して面目を放棄するなど、ハイエイからしてみれば正気の沙汰ではなかった。
「貴殿は……それは机上の理屈だ。現実に通用すると思っているのか」
「お待ちください!」
このままでは危険な領域に踏み込むと察知して、メイリが割って入った。
「失礼しました。信心宗武闘派の武法僧、メイリと申します」
メイリは頭を覆っていた布を取った。尼削ぎのおかっぱ頭がさらりと流れ出る。メイリはそのまま、合掌して頭を垂れた。
「僧侶がなぜここに?」
「カギアギ様が裁判に出られぬ理由は他にあります。その男、ディープフォグは、そもそも人の法で裁くような相手ではないからなのです」
意味がわからぬという顔のハイエイに、メイリは続けて言う。
「ディープフォグは妖魔なのです」
「どういうことだ? 妖魔とは何だ」
「妖魔は魔物の中でも高い知性を持ち、人を殺します。何食わぬ顔で世間に混じることができます」
「あの男が魔物だと?」
明らかに信じていないようすのハイエイ。
「先ほどのカギアギ様の話で不審な点はありませんでしたか。エルフの男が、おサムライ様の刀を奪い、二人を殺したというところです」
「確かにその通りだ」
だからそれほどリンタロウの話を信用する気にならなかったのだろう。
「サクラもカシワも義人流中級ライセンスの腕前である。ディープフォグにむざむざとやられるような男ではない」
「しかし、剣が効かない相手では? 妖魔には通常の武器が通用しません。よって、刀で斬りつけても効果がなかったということは妖魔である可能性が高い。ただし、カギアギ様の言葉を信用するならば、ですが」
彼女個人の思いとは別に、リンタロウが嘘をついているという可能性も隠すことなくハイエイの前に提出してみせた。そこはフェアでなければいけない。
それがかえって信憑性を増したようで、ハイエイは検討する顔になっている。
「だから裁判では裁けぬというのか。辻褄は合っているようだが」
「少なくとも我々武法僧のように魔物と術に関する知識を持つ者がいなければ、その裁判は意味を成さないものになるでしょう。そしてそういった者を裁判に参加させようという気は、おそらくこの藩のお殿様にはないのではないでしょうか」
殿様ゴトク・クモナリは、仏の教えが嫌いなのだ。その証拠にドレッドの市街に寺院は一つもない。
武法僧のいない裁判になってもディープフォグを断罪することはできない。殿様がフォグへの信頼を失うこともないだろう。ハイエイの目的は果たせないということになる。
ハイエイは考える顔になった。
メイリは続けて、
「最近、魔物の被害が増えていたことはご存知でしょう。それと、ドライドレッド城内の妖魔らしき人物には、何らかの関係があるものだとわたしは疑っております。わたし個人の意見ではありません。信心宗武闘派別院、ハラミ藩ユリガタニ勧善寺の住職たるドウシン大師もリバース藩が魔物騒ぎの中心ではないかと言っておられました」
「ドウシン大師がか。むむ……」
ハイエイも大師のことを見知っていて、信頼を置いているようであった。さすがに大師は顔が広い。
「ディープフォグ調査のため入城の許可を頂きたく、お願い申し上げます」
殿様が僧侶嫌いのため、公的な許可が出ることはまずない。リンタロウやメイリを城に入れるときは、ハイエイの独断ということになる。
ハイエイにとって事は重大である。ディープフォグが本当に妖魔であるならば一刻も早く取り除く必要がある。その場合は独断でリンタロウらを入れたのもハイエイの手柄になるだろう。殿様の素行も改まり、リバース藩が一層栄える可能性もある。リターンは大きい。
だが彼らの言うことが虚偽であったらどうか? 手柄どころか責任問題になる。城内ではハイエイを引きずり下ろしたがっている重臣どもも少なからず存在する。リスクも大きい。
果たしてリンタロウたちの言葉を信じるか、どうか?
沈黙と長考はそのせいであった。
ハイエイは半ば時間稼ぎのように質問した。
「妖魔が、なぜドライドレッド城にいる? 何をしようとしているのだ」
「わかりません。それを知るために調査の必要があるのです。ですが少なくとも、妖魔降伏の専門家である我々武法僧から姿を隠すのに、ドライドレッド城ほど都合のいい場所はないでしょう」
ハイエイは更に長考している。メイリはさらに説得の材料を探すが、なかなか見つからず焦った様子だ。
と、リンタロウが再び、頭を深く下げた。
「トウザン殿。是非ともお頼み致す。かの者が妖魔でなかった暁には、わたし一身に咎を被せ、首を打っていただいて結構」
打ち首は武士の恥辱である。それでも文句はないとリンタロウは言った。
感情が激した口調ではなかった。むしろ淡々としていた。浮ついたところの一片もない淡々さであった。
リンタロウの学んだ武士道が単なる机上の理屈としても、ここまで言えるのならば、ただ上っ面だけの言葉ではない。
ハイエイは沈鬱たる表情で、
「そこまでの覚悟か」
リンタロウを眺めやった。いわば俗世の武士道に染まったハイエイにしてみれば、まるで虚構の理想世界をそのまま信じているようなリンタロウの姿は、馬鹿馬鹿しい、と同時に一抹の羨望を感じるものであったろう。
「ディープフォグが魔物であること、疑いないか」
「一切の余地なく」
「よろしい」
ハイエイはうなずいた。顔が変わっていた。迷いを吹っ切って決断を下した男の顔であった。
「ではどのように城へ入るかだ。案があれば聞かせよ」
・
ハイエイは去っていった。首尾良く彼の協力を取り付けることができて、ようやくに張り詰めていた空気が弛んだようであった。
「結局のところ、トウザン様を動かしたのはカギアギ様の至誠でした。わたしの言葉ではなく」
「否、わたしだけでもトウザン殿が首を縦に振られることはなかった。メイリ殿の理があってこそ」
「では、二人の情と理が二輪となってトウザン様を運んだということに」
メイリは珍しく、軽口のようなものを叩いて微笑んだ。