第四話『対山閣上、春風に舞う』その三
手渡されたのが竹刀で、リンタロウはほっとした。立ち会いというから真剣勝負なのかと一瞬思ったのだ。さすがの酔狂な殿様も、血が噴き出す命のやりとりを見たいというわけではなさそうだ。
(これも見世物の一環か……仕方ない)
人に見せられるような剣術の腕前が自分にあるとは考えられない。何せ初級ライセンスだ。それを言い立てたところで殿様が止めてくれるとも思えないから、黙って笑い物になる覚悟をするリンタロウ。
幸い、竹刀だ。手ひどくやられたところでたかが知れている。
踏みしめた庭は固く踏みならされていて、意流道場の土間を思い起こさせた。
縁側で殿様らが見物する前で、リンタロウはもう一人の剣術家と向かい合った。背は高くないとはいえ、体の厚み、腕の太さはすごい。修練の程がわかる。
「さて、我が剣客殿相手にどれほど持ちこたえられるかな」
腕前を見せよとはいうものの、はじめからリンタロウが負ける前提の言葉だ。殿様のことだから剣客も普通ではない強者を用意しているのだろう。
「我が剣客も獣還りだぞ。猿のな」
笑いながら殿様が言う。リンタロウは思わず相手の顔を見直したが、そんなことはなかった。人間の顔だ。ただ、猿によく似た顔ではある。
剣術家は顔を真っ赤にして、
「殿、ご冗談を」
と歯ぎしりするかのように声を押し出した。怒りを必死に抑えているようであった。節度のない殿様のこと、常日頃から顔のことをからかっているのだろう。相手が殿では怒りを向けるわけにもいかない。
「意流、カギアギ・リンタロウ。ご教授願います」
リンタロウは、相手より頭が低くなるよう深々と礼をした。
景気のいい音と共に、後頭部に衝撃。リンタロウはくらっときた。
下げた頭を竹刀で打たれたのだ。驚いたリンタロウが、手で後頭部をかばって前を見る。
「実戦なら死んでいたぞ」
剣術家の声は悪意を隠していなかった。
「おれは貴様のような獣還りを何人も打ち倒してきた。調子に乗るな」
睨みつけてくる眼光が普通でない。獣還りが嫌いなのだろうか。いつも殿様に猿の獣還りみたいに言われているのならば仕方のないところかもしれないが、いずれにせよ、リンタロウが恨まれる筋合いはない。
「義人流、上級ライセンス。ヴォルガワ・ナイシ」
上級ライセンスだ。しかも最大流派の義人流である。同じ上級でも意流のものとは格が違うと言っていい。
殿様は、ヴォルガワの憎悪も慣れっこといった様子でニヤニヤしている。
「はじめよ」
「キエエエーイ!」
ヴォルガワの声が響いた。すべるような動きで四方に素早く動く。
リンタロウは戸惑った。意流には存在しない足の運びだ。すり足は、地面の凹凸に引っかかる危険があるのでなるべくしないように、と師匠が板間で教えているのを聞いたことがある。だが、はじめから地面が平らだとわかっていればすり足のほうが合理的に違いない。
そのなめらかな動きに幻惑されて、リンタロウの竹刀の切っ先がぶれる。
この足捌きだけでも、ヴォルガワが高い技術を持っているのがわかる。リンタロウは相手の動きを追うのをあきらめた。
(どうせできることなどこれしかない)
弧を張った。上段。
瞬間、ヴォルガワは近づいたとも思えない動きでするりとリンタロウの間合いに入った。脇を抜けながら、がら空きの胴を打つ。リンタロウは打たれるまで反応すらできなかった。
「一本!」
見ていた殿様が宣言した。
だが、それと同時に、リンタロウは振り向きざま、背を向けているヴォルガワに後ろから片手面を振り下ろしていた。
思いもよらない打撃に片膝をついたヴォルガワ。その後ろ姿に向けてリンタロウはもう一度、今度は両手で斬り下げた。強く打たれたヴォルガワはそのまま地面にずるずると伸びてしまった。
(大丈夫かな?)
自分でやっておきながらもリンタロウは心配になり、ひざまずいてヴォルガワの様子を見る。
「おまえ! 一本と言っただろう」
殿様の声に、リンタロウはそちらを向いて礼をした。
「勝負ありだ。真剣ならおまえは胴を斬られていたということだぞ」
リンタロウはヴォルガワを介抱しながら、
「いいえ」
「なんだと?」
口答えされると思っていなかった殿様の目に不機嫌な光が宿る。隣のハイエイが慌てた様子で口を開こうとした。
その時、ヴォルガワが目を覚ました。リンタロウの顔を認めると、仰向けの体勢から憎悪と憤怒の顔で殴りつけた。不意に一撃を食らったリンタロウはわずかにのけぞった。
「貴様ァ!」
ヴォルガワは竹刀を握り立ち上がるとリンタロウに襲いかかる。
「やめよ」
殿様は立ち上がった。ヴォルガワは雷に打たれたように動きを止めてひざまずいた。
「いいえと言ったな?」
リンタロウに向けて殿様は言った。
「はい」
「説明してみよ」
苛立ちが顔に出ている。
あまり機嫌を損ねてはまずい、と内心リンタロウは焦ったが、幸い顔には出ないタチだ。外からは平静に見えていることだろう。
リンタロウは正直に話すしかなかった。
「先ほどの胴斬りですが……浅傷だと思いました」
打つ瞬間は鋭かったが、その後ヴォルガワは力を抜いた。手心を加えたわけではなく、スムーズに脇を通り抜けるためにそうしたのだろう。真剣であったならば、服を斬り、皮を斬り、肉までいったとしても、そこ止まりであって、動けなくなるほどの傷は負わなかっただろう。そうリンタロウは判断して、反撃をやめなかったのだ。
話し上手でないリンタロウはそこまで詳しく説明はしなかったけれども。
ヴォルガワは怒りで赤い顔を更に赤くした。
「見苦しい言い訳を! ならば真剣で立ち会ってやろう! トカゲの頭を四つ辻にさらしてくれる」
「痴れ者め!」
誰よりも早くヴォルガワを叱責したのは、今まで黙って控えていたトウザン・ハイエイであった。
「御前を血で汚す気か。控えよ」
ヴォルガワが顔を赤くしたまま黙り込む。
殿様はそちらには目もくれずリンタロウのほうを見ている。
「なるほど、おまえは浅傷だと思ったのだな。だが、余は一本と言った。余に逆らったというわけだ。お前の判断は余の判定より偉いのか?」
この殿様にして、抑えた口調なのが逆に不穏である。下手なことを言ってみろ、という目だ。
「いいえ。そうではありません」
「ほう?」
顎で続きを促す。どんな言い訳をするのか待ち構えている顔だ。
「その……」
リンタロウは下を向いて言い淀んだ。その場の誰もが、身分が上の者の怒りを受けて恐懼している様だと思った。
違った。
実は、リンタロウは、恥ずかしがっていたのである。
「……一本が勝負ありの意味だと知らなかったのです」
「知らぬ?」
意想外の言葉に、殿様の問いただす声も気が抜けている。
リンタロウの様子を見る限り、その場しのぎの嘘ではないということは見て取れる。
ヴォルガワの剣は道場剣術だ。ヴォルガワが熟達しているのは真剣を使って実戦で人を斬るためではなく、竹刀を用いて道場で人を打つための技術だ。ヴォルガワがおかしいわけではなく、天下泰平の今どきの剣術というものは、おおむねそういうものなのである。
意流は違う。時代遅れの流派だ。骨まで斬れと教えられる。地稽古はあっても試合はない。まして、板間にも上がれず素振りと意斬りしかやっていないリンタロウだ。本当に知らなかったのだ。
殿様は怒りも萎えて笑えてきたらしい。肩をふるわせ、呆れたとばかりに噴き出した。
「ベルナミはそこまで田舎か! 見よハイエイ、剣をやっていて一本を知らぬ男がここにいるぞ」
呵々大笑である。
ひとしきり笑った後、
「剣はもうよい。毒気も何も抜かれてしもうたわ。上がれ」
どうやら怒らせずにやり過ごせたらしい、とリンタロウは内心で胸を撫で下ろした。
ちらっと見たところ、ハイエイも同じような心境であるらしく、目が合った際にわずかに頷いてくれた。