第三話『雨とともに降る記憶』その六
コガ・ソウヤの行方は杳として知れなかった。
事件を担当した奉行の見立てによると、乱心したソウヤが師匠と娘のサヨを斬殺し、逐電したということだった。
それを裏付ける状況証拠は多い。リンタロウが帰る時に間違いなくソウヤがいたし、戻ってきたらいなくなっていた。決定的だったのは、倒れ伏した師匠の脇にあった血刀が、ソウヤの佩刀『招風』であったという事実である。
犯人はコガ・ソウヤである。藩内にお触れが広まり、捜索が続けられていた……。
(なぜだ、ソウヤ!?)
リンタロウは裏庭で剣を振るっていた。もう道場はない。一人で剣を振るしかない。
理解者三人のうち三人全てを失って、リンタロウはどうすればいいというのか?
当時の現場がどんな状況だったのかは知らないが、どんな理由があろうと剣を握れぬサヨを惨殺したことは、武士として許される所業ではない。
(ソウヤよ……ソウヤよ!)
怒りと嘆きが暴力的に混じり合った嵐のような感情に突き動かされて刀を振る。意斬りではない。荒れ狂う感情を発散させようとするただのもがきであった。
メイドが彼を捜しに来た。獰猛な獣のようなリンタロウに少し怯えながら、父が呼んでいると言う。
「父が?」
まだ収まりきらない激情を荒い息として吐き出しながら、リンタロウは剣を納めた。
父がリンタロウを呼び出すことなど今まで絶えてなかった。この頃には、兄は自分の家を持ち、姉は嫁へ行き、リンタロウだけが家に残っていたが、両親が彼に目をかけることは一切なく、顔を合わせても無視、よくて一言二言何か言うくらいのものであった。
それが、今になって何の用なのだろうか?
リンタロウは父の部屋の扉をノックした。ここへ入った記憶はほとんどない。
「どうぞ」
父の声ではなかった。どうやら中にはボタがいるようだ。ボタは父の秘書の男である。
扉を開ける。机の向こうで父が腕を組んでどっしりと座っていた。父はいつでもどっしりとした人間であった。ごつごつした風貌と相まって"石のカギアギ"と仇名されていた。小さいころ、リンタロウは「石をめくったらトカゲがいた」などと囃されたことがあった。
リンタロウにとってはそれこそ、石のように冷たい父だ。父の前に出るだけで萎縮し、両拳を握りしめてしまう。
父の脇には案の定ボタがいた。さらにもう一人、いかにも力自慢といった武士が部屋の調度のように身じろぎもせず立っていた。
リンタロウは部屋へ入り、父にお辞儀をした。
「何の御用でしょうか」
「先の事件で、実はおまえが犯人だという話を聞いた」
「わたしではありません」
「わかっている。おまえにそのような度胸はあるまい」
(度胸の問題か)
父は何もわかっていない。度胸というならリンタロウが火熊を斬り殺したことも知るまいが、そういう問題ではない。
度胸があろうがなかろうが、あの道場の日々を壊すような真似をリンタロウがするわけがなかった。
「カギアギ家の力を削ごうという連中の画策だ。だがやっかいなことに、正しいことよりも面白いことを人は信じたがるものだ。コガ家の息子で、剣が取り柄の軽薄な色男と、カギアギ家の、トカゲの獣還りで、常識外れの巨体で、道場以外には外へ出ない謎の存在。どちらが犯人だと噂するのに面白いか。下らぬ噂だ。下らぬ噂に躓くようなことは避けねばならぬ。そうだな?」
質問の体を取っているが、もちろん父がリンタロウの答えを待っているはずなどない。
父が目配せをすると、ボタが卓上に革袋を一つ置いた。小石のような物が多数入っているような感じだ。
「とりあえず一〇〇両あります」
金?
「剣術を修めようとの志を持つ者ならば、師が殺害されたら仇を討たねば義が廃ろう」
生まれてこのかた何度目か、父の視線がまっすぐリンタロウの目を見た。
「仇討ちの旅に出よ」
リンタロウは驚いて口を大きく開けた。トカゲの歯並びを見て父が嫌そうな顔をする。
全く意外なことを言われて、リンタロウはしばらく口が利けなかった。ボタが革袋をリンタロウのほうへ押し出したが、それに手を触れることもできない。
ややあって、
「仇討ちが許可されるのは血縁の者だけでは?」
と、当然の疑問を口にした。
仇討ちは許可制である。グランド幕府に申請し、審査を経て許可証をもらえば、合法的に藩境を越えて仇の行方を追うことができるようになるという仕組みだ。その代わり仇を追っている間は特定の藩の武士ではなく浪人扱いとなる。
「仇討ち申請には、剣術の師弟の場合は家族に準ずるものと見なされる、という規定があります。現に一五年前のロクショウ藩、ナキトビ・ゴンゾウは、兄弟子の仇を討つ旅に出て、今から三年前に見事討ち果たしております」
ボタが冷静に解説する。そんな事例を暗記していたとは思えない。リンタロウが反問するのを見越して、あらかじめ調べておいたのだろう。
そこまでするということは、リンタロウが仇討ちをすることはすでに父の中では決定事項だ。リンタロウの意志が問われているわけではない。
父の狙いは何か。リンタロウに師の仇を討たせてやろうという親心、などではないことは確かだ。
狙いのうち一つは父自らが口にした。リンタロウがこの事件の真犯人であるという風評を拭い去るためだ。
もう一つの狙いは、コガ家の息子が人を殺し、カギアギ家の者が追っているとなれば、正義はカギアギ家にあるということだ。父にとっては派閥争いの武器になる。
そしてさらにもう一つ狙いがある、とリンタロウは洞察した。
今、父はリンタロウから目を離さないでいる。それは親の情愛に目覚めたからでもないし、弱者を威圧するためでもない。ボタともう一人の武士を同席させているのも同じ理由からだ。
強く育ったリンタロウを恐れているのだ。
恨まれているのではないか、復讐されるのではないか、という懸念が、石の冷たさの下から覗いている。巧妙に隠されたその恐怖心は、リンタロウが兄のように育てられていたら気づかなかっただろう。迫害されて育ったために、恐怖や怯えには敏感になっていた。
つまり、リンタロウを遠ざける。それが三つめの狙いだ。
それに気づいてしまったのは哀しいことだが。
トカゲの頭で生まれただけで、弱いときは蔑まれ、強くなれば恐れられる。実の家族に。カギアギの家は結局、リンタロウの居場所ではなかった。道場のほうがよほど心安らぐ場所で会った。それもソウヤのせいで失われたのだが。
「わかったな」
念を押す父の口調の強さがかえって情けない。
「わかりました」
全てを見透かしたうえで、リンタロウは父の命令に逆らわなかった。胸にわだかまるこの感情の行く先ができるのならば、こちらから頼みたいくらいであった。
(なぜだ、ソウヤ!)
そのことであった。
その答えを聞くために、そして斬るため、リンタロウはソウヤを追う。
リンタロウが頭を下げると、父の口から吐息が漏れたのがかすかに聞こえた。
・
申請の許可が下りるのに三ヶ月かかった。申請書はベルナミ藩からゴートへ送られ、そこで吟味されて許可証がまたベルナミまで送られてくるのだ。それくらいの時間はかかるものだ。
すでに世は春になろうとしていた。
リンタロウは誰も送る者のないカギアギ家から、春風とともにソウヤを捜す旅に出発した。
浪人笠を深くかぶり、懐には金、背には最低限の荷物。腰に二本の刀を差し、小袖に野袴、マントにブーツ。そして胸中には、必ずソウヤを見つけ出すという強い決意を抱いている。
だがリンタロウの胸にはもう一つ、懸念が雌伏する虎のようにわだかまっていた。
――果たして、自分はソウヤを斬れるか?
実力的に、そして、精神的に。
時として頭をもたげ、リンタロウの足を鈍らせようとするその虎を、強いて押さえつけて進むしかない。
(斬らねばならぬ。師匠と、お嬢さんのためにも!)