第三話『雨とともに降る記憶』その三
師匠は数日前から所用で旅に出ており、留守をソウヤが任されていた。
大雨ということもあり、道場へ顔を出したのはソウヤを除けばリンタロウただ一人だった。
ソウヤは板間で、リンタロウは土間でそれぞれ一人稽古を行っている。
ひとしきり稽古が終わるとソウヤはタオルで汗を拭いた。
「どうぞ」
控えていたサヨが、白湯の入った茶碗をソウヤに差し出した。
「リンタロウさんも」
「かたじけない」
そう言うと、サヨはクスクス笑った。
「な、何か変だっただろうか?」
「だって、リンタロウさんいつも『かたじけない……』ばっかり」
「たしかに」
ソウヤも笑った。
それはサヨを前にするとあがってしまうからだ。もちろんそんなことは言えないので、リンタロウはただ黙って白湯を飲み干し、意斬りに戻った。
サヨも笑いを振りまきながら奥へ帰っていった。
サヨといるとなぜか集中力が途切れがちになるリンタロウだったが、意斬りを繰り返すうちに、いつものように集中できるようになった。
ソウヤはリンタロウの振る剣を見ていたが、しばらくして声をかけた。
「リンタロウ」
見えない相手に斬りかかろうとしていたリンタロウは、それで集中が途切れてしまった。イメージ上の敵が消えてしまっては斬れない。中途半端に刀を止めて友人のほうを向いた。
「一緒に稽古しようぜ。上がってこいよ。素振り二年、意斬り三年もやれば十分その資格はあるだろう」
笑顔で板間へと誘った。
リンタロウは困った声で、
「しかし、師匠の許しも得ず、留守の間にそんなことをするのはよくない」
「おれはおまえの実力を認めて言ってるんだ。おまえだってわかってるだろ? 板間の上の連中でも、おまえより弱いやつは何人もいるって」
謹厳なリンタロウと違ってソウヤにはそういう奔放なところがあった。
「ソウヤがそう言ってくれるのはうれしいが、いや……しかし」
板間に魅力を感じないといえば嘘になる。しかし師匠の目を盗むような真似には抵抗があった。師匠がどんな思いでリンタロウを土間のままにおいているか聞いた今となっては、なおさらである。
ソウヤは諦めない。
「師匠がいないんだから、今はおれが道場の師範だ。師範が言うんだぞ。上がれよ」
そこまで言われては断りきれなかった。リンタロウは不安と期待を共に抱きながら、入門以来五年にしてはじめて板間へと上がった。
冬の板張り床は土よりも冷ややかである。
ソウヤはリンタロウに竹刀を手渡した。自らも竹刀を手に、板間の中央近くへ進み出た。
「地稽古だ。来い」
双方が自由に打ち合う実戦形式の稽古のことである。むろん、リンタロウはまだ未経験だ。とはいえ、土間から地稽古のさまを見たことはいくらでもある。やりかたがわからないということはない。ただ、実際に人と立ち会ったことがないのだ。
ソウヤは完全に真面目だった。まるで敵を前にしたような殺気で、中段に構えている。
親友のソウヤと戦わねばならないことプラス、まだ師匠の許しを得ていないというためらいを残しつつ、リンタロウはソウヤに対峙した。
リンタロウは師匠から意流の初級ライセンスしかもらっていない。ソウヤは上級ライセンスを師匠から許されているほどの腕前だ。本気でやっても勝てはしないだろうという、奇妙な安心感はどこかにあった。
二人、正面で向かい合う。リンタロウは見よう見まねの中段の構えだ。
ソウヤが動いた。立て続けに数度打ち込まれる。防具をつけないので竹刀でもけっこう痛い。
リンタロウの動きに遠慮を見て取ったか、ソウヤは再び中段に戻ると、
「本気で来い! それが稽古だろう」
叱咤した。
ようやくリンタロウはためらいを捨てた。もとより、自分は斬ることしかできない。足運びだの体捌きだのといった技術は全く習っていないのだ。
リンタロウの竹刀が弧を張った。上段の構えだ。
「うおおお!」
トカゲが吼えた。一足に間合いを詰め、斬り下げる。その速さ!
ソウヤはかろうじて竹刀を寝かせて受け止めた。
異音がして、打ち合った竹刀が二本とも折れる。リンタロウの折れた竹刀がそのままソウヤの頭を打った。速く力強く、真剣ならば頭蓋を割っていたことは間違いなかった。
ソウヤはがっくりと床に崩れ落ちた。両手をつきうつむく彼の顔から、板張りの床に血が滴り落ちた。折れて鋭利になった竹が、彼の額をざっくりと切っていた。
ソウヤは流れる血をそのまま、動かない。
門下生たちの噂の一つに、こういうものがあった。リンタロウが板間へ上がれないのは、彼の実力を恐れ、彼には勝てないと感じている師範代のソウヤが反対しているからだ――。
果たして、ソウヤが無理にリンタロウに自分と立ち会わせたことに、その噂が関係しているのだろうか? リンタロウを恐れていると言われ、そうではないことを証明しようと、上級ライセンスを持つ自分の剣技を証明しようとしたのだろうか……?
だが結果は、これである。リンタロウが剣の技術を、単なる力と速度でねじふせたかっこうであった。
下を向いたままのソウヤの顔は、自信が打ち砕かれたように虚ろだ。
奥に引っ込んでいたサヨが、道場が静かになったのを見計らってやってきた。床に咲く血を見て、悲鳴をあげて駆け寄った。
「コガ様! どうなされました」
体を支えようとするサヨを押しのけ、ソウヤは自分の手ぬぐいで顔の血を拭き、頭に巻いて包帯とした。
道場内は気まずい沈黙だ。
リンタロウはいたたまれず、土間に下りた。