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第三話『雨とともに降る記憶』その二

 意流はベルナミ藩でしか行なわれていないマイナー剣術である。世紀の大剣豪〈グリフィン殺し〉のダイゴウが創始した塵芥流の流れを汲む一派ではあるが、傍流も傍流である。ベルナミ藩内でも、幕府公認流派の義人流のほうがはるかにメジャーだ。


 だから義人流は身分の高い家の者が多いが、意流は身分が低い者が多い。藩家老の家の子であるリンタロウは道場内でも浮いていた。ソウヤも要職の家の子だが、その明るく人懐っこい性格で皆に受け入れられていた。


 もっとも、リンタロウが浮いていた理由は身分だけではなかったかもしれないが……。


「早く板間まで上がってこいよ」

 と、ソウヤは言った。

 意流の道場は板張りだが、初級者はそこへ上がれず、地面の土をつき固めて屋根だけつけた半屋外の土間で稽古をするのだ。


 早くから道場へ通い、天稟にも恵まれたソウヤは、リンタロウが入門したときにはすでに板張りの道場へ上がることを許されていた。


 リンタロウは体力がつくまでひたすら素振り、素振りの毎日であった。斬り下ろし、斬り上げ、横薙ぎ、それだけをひたすら続ける稽古は単調で、入門者の大半がここで脱落する。

 だがリンタロウにとっては充実した時間だった。剣を振っている間は何も考えずにすむ。家中の者の視線や、嫌がらせを気に病む必要もないのだ。


 ちょうど成長期ということもあってリンタロウはめきめきと体力をつけ、さらに体も大きくなっていった。


 二年が経った。リンタロウは一三歳で、すでに六尺(約一八〇センチ)、大抵の大人より大きい体になっていた。


 今までほとんどリンタロウの存在を無視していた師匠が、はじめてリンタロウの素振りを見分して「よし」と言った。

 たった一言、短い「よし」であったが、リンタロウははじめて自分の存在を認められたような気がした。体が打ち震えるほどたまらなくうれしかった。


 リンタロウは初級ライセンスをもらい、稽古は次の段階へ進んだ。

 といっても、板間はまだだ。


 今までは木剣だったのが、真剣に変わる。名も素振りとは言わず、意斬(いぎ)りと言う。意を以ってそこに人がいるように斬るという意味である。

 必ず人を斬るつもりで剣を振らねばならない。


 その稽古が三年続いた。その間、師匠は以前のようにリンタロウをほぼ無視していた。

 意斬り三年は異例の長さである。いつしか門下生たちは噂しあった。なぜリンタロウが板間に上がれないのか?


 このころにはリンタロウも七尺(約二一〇センチ)を超え、剣の速度も回数も、十分に人斬りをイメージする意力も図抜けていた。彼よりも明らかに遅く、持久力にも意力にも劣る者が何人も板場へ上がる中、リンタロウは三年間意斬りの稽古だけだった。なぜか? 今では師範代となり、道場のナンバーツーとなっているソウヤが何度も師匠にかけあったが、師匠は頑としてリンタロウを板場へ上げない。なぜか?


「サヨお嬢さんがトカゲ頭を嫌っているらしい」

 サヨは師匠の一人娘である。その彼女がリンタロウを、虫唾が走るほど嫌っているため、娘に甘い師匠が道場に上げないのだとか。


「むしろ師匠自身がやめさせるつもりで放っておいているのではないか」

 師匠がリンタロウを嫌っている、という説である。


 いずれにせよリンタロウに好意的な噂は一つもなかった。


 リンタロウはそんな噂も耳に入れず(「やつの耳はどこにあるんだ?」とは、やはり噂好きの門人)、ただ孜々として剣を振るう毎日であった。


   ・


 リンタロウが噂を信じないのには確固たる理由があった。


 稽古で最後まで残るのはソウヤとリンタロウである。師匠が奥に引っ込んでも、二人は自主練習を続けることが多い。今日もそうだった。


「ここまでにしとくか。終わろうぜ、リンタロウ」

「わかった」

 二人が帰り支度をしていると、サヨが出てきた。手にお盆を持ち、その上には二人分の茶と茶菓子が載っている。

「今日も遅くまでお疲れ様」

 年が近いこともあって、三人は縁側で談笑するのが恒例になっていた。


「それで、ヨウキチのやつ木から下りられなくなってな……」

 ソウヤが披露した植木屋の話にサヨが笑い転げる。

 それを眺めるリンタロウの胸の内にも暖かいものが灯るようであった。


「リンタロウさんも、お菓子をどうぞ」

 サヨはリンタロウとも隔てなく言葉を交わすし、笑顔さえ向けてくれる。

「かたじけない」

 リンタロウがトカゲの口を開けて菓子を放り込むさまを見ても、彼女の表情が変わることはない。


 はじめて会ったときも、

「トカゲは嫌いじゃないもの」

 と言ってくれた。リンタロウが見たことのある他の少女と違って、顔を引きつらせることも、身体を遠ざけようとすることも一度としてなかったのだ。


 稽古が終わって帰るまでの短い時間だが、リンタロウにとっては、こんなに楽しい時間があっていいのかと思うほどであった。


 稽古が早く終わった日に、三人で草を踏んで春を探しに野歩きをしたこともあった。リンタロウが繁華な場所への出入りを禁じられていたので、人出の多いほうへいくことはなかったが、サヨがそれについて不平を言うことは決してなかった。


 だから、サヨがリンタロウを毛嫌いしている、などという噂をリンタロウが信じるわけがなかった。


 師匠自身が嫌っている、という話についても同様だ。

 ある日のことである。誰よりも早く道場へ来たリンタロウは、彼女と父である師匠が話している声を聞いた。挨拶をしようとしたが、

「――リンタロウさんのことです」

 というサヨの声に、思わず扉の裏で足を止めた。


「なぜ土間のままなんですか? 板間に上がれるだけの実力はあると思います。ソウヤさんもそう言っていました」

「おまえの知るところではない」

「いいえ。もしリンタロウさんがあのような姿だからという理由なのであれば、それはお父様のなすべきこととは思えません。そうでないのであれば他に理由があるはずです」


 師匠は溜め息を吐いて、

「あれが獣還りだからだ」

 サヨが息を呑む気配。リンタロウも同じく呼吸を止めた。

「まさかお父様、本当に……!?」

「そうだ」

 師匠の声は揺るぎなかった。


 だがそれは、獣還りを差別しているという意味ではなかった。

「獣還りは普通の人間より強い身体を持つ。今のあれに必要なものはその特性を生かした剣の迅さと剛さだ。だからそれを養わせている。リンタロウは強くなるだろう」

 リンタロウはそれを聞きながら、物陰で頭を垂れた。


 やはり師匠は自分を見てくれていたのだ。決して冷遇していたわけではなかった。それがわかって、リンタロウは胸が詰まるような思いであった。

(師匠……精進します)


「よかった。わたしてっきり……申し訳ありませんでした、お父様」

「もう弟子が来る時間だ。下がりなさい」


 リンタロウが、心ない弟子たちの噂を信じるはずがない。

 友がいて、自分を避けない少女がいて、差別しない師がいて、妨害も禁止もされず剣の錬磨に打ち込める。リンタロウの幸福な日々といってよかった。自分の居場所は道場にあると思っていた。


 そういう時期に、一つの出来事が起こった。


 大粒の雨の降る、薄暗い冬の日であった……。

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