山野リコの自殺②
歩きながら意見を出し合った結果、昼食はファミレス近くのコンビニで購入することになった。
「炭水化物と炭水化物」
親子丼だけでは満足できず、エビマヨおにぎりを手にとったコーメイに、テーコがすかさず指摘した。口元は少し緩んでいるように見える。彼女が仕切り直しの昼食に選んだのは、メロンパンとブルーベリージュース。コーメイはエビマヨおにぎりをもう一個かごに追加したが、今度はなにも言われなかった。
東の方角に向かって歩いているうちに、古びた二階建てのアパートが行く手に見えた。ハイツ浜屋。その202号室が説得屋の事務所だ。
202号室のドアには、しわだらけになり、セロハンテープで何か所か繋ぎ止めてある、みすぼらしい紙が貼られている。そこにはお世辞にも流麗とはいえない筆致で、こんな文言が記されている。
『あなたの近くに、考えを百八十度変えさせたい人はいませんか?
高価な骨董品を買うと言って聞かないお年寄りから、自殺志願者の若者、核ミサイルのボタンを押そうとしている大統領まで、説得屋・牧岡広明が全力で説得します。
電話番号……』
ドアの鍵を開け、二人は中に入る。
親子丼とスパゲティミートソース、どちらから温めようかと考えて、後者は詩音のために買ったのだと思い出した。先にそちらを電子レンジにかけ、温め不要の購入商品を応接室のテーブルへと運ぶ。
コーメイが応接室と呼んでいるのは、フローリング張りの六畳間。置かれているのは、ガラステーブルと三脚の黒革のソファからなる応接セット。それ以外には、文房具と菓子を保管しているキャビネットがあるだけで、他に家具類は一切置かれていない。狭い部屋を少しでも広く見せるためのささやかな工夫だ。
テーコの姿を探すと、玄関でサボテンの鉢にじょうろで水をあげていた。縦長の靴箱の上に置かれたプラスチックの鉢からは、まだ芽は出ていない。
掃き出し窓を開錠して開け、ベランダに出る。仕切り板を取り外すと、203号室のベランダに布団が敷かれている。
うららかな五月の日差しを浴びながら、薄手の掛け布団を顎の下まで被って、髪の毛を金色に染めた少女が眠りに就いている。寝顔も寝息もこの上なく安らかで、コーメイは微笑を禁じ得ない。今年で二十歳になると言っていたから、少女ではなくて女性と呼ぶべきなのだろう。しかし、そのあどけない顔を見ると、少女という呼称ほどしっくりくる呼称はないと思う。
「詩音ちゃん、詩音ちゃん」
肩を強めに揺さぶると、ゆっくりと瞼が開いてコーメイの姿を捉えた。おどけたように手を振ると、眠たそうに細められていた瞳の面積が徐々に拡大していく。
詩音は何度かまばたきし、大きなあくびをした。上体を起こし、掛け布団を蹴りはぐ。
着ているのは、お馴染みのクリーム色のネグリジェ。襟が伸びきっているので、角度によっては、異性がみだりに直視してはいけない部分が見えてしまいそうだ。だからこそ、呼びに行く役割をテーコに委任しようとしたのだが、なんだかんだでコーメイが引き受けることが多い。
「コーメイさん、おはようございます」
もう一つあくびをして、寝癖だらけの髪の毛を触りながら、時間帯に見合っていない挨拶をする。
「ところで、今何時ですか?」
「もうお昼の二時が近いよ。こんにちはの時間だね」
「え……うそ。まだ朝ごはんも食べてないのに」
「そんな詩音ちゃんに朗報だよ。ごはん買ってきたから、いっしょに食べよう」
「ほんとですか!」
詩音は双眸を瞠った。コーメイが頷くと、目に見えて表情が明るくなった。髪の毛がぼさぼさで、ノーメイクで、よれよれの寝間着を着ているのが信じられないくらいに、魅力的な一人の少女に様変わりした。
「私のぶんもあるってことですよね? テーコちゃんもいっしょですか?」
「うん。いっしょに尾行していて、さっき帰ってきたところ。あちらさんも、こっちの空腹具合に配慮してくれるわけじゃないから、ちょっと遅くなっちゃってね」
「尾行ですか。そういえば、そんなことも言っていましたね。結果はどうでした? 説得、成功しました?」
「うーん……。まあ、それは食べながら話すよ」
苦笑しながらそう答え、部屋に引き返す。いったん部屋に戻って着替えてくるのかと思ったら、詩音は弾むような足どりでついてきた。
「あっ、テーコちゃん。おっはよー!」
二人がけのソファの一方にちょこんと腰を下ろし、テーコはメロンパンを食べていた。口の中を空にしてから詩音と目を合わせ、
「こんにちは、だと思う。昼の一時だから」
「コーメイさんと同じセリフ。血の繋がりを感じるねー」
軽やかな足どりでソファに歩み寄り、テーコの隣に座る。テーコは少し眉根を寄せて詩音を見た。ソファは二つ空いているのに、なんでわざわざ隣に座るの、と言いたげな顔だ。
迷惑そうな眼差しなど気にも留めずに、詩音はレジ袋を漁る。ほどなく、「わお!」という歓声が上がった。
「エビマヨ! エビマヨおにぎりじゃないですか! しかも二つ!」
「そうなんすよ。運よくゲットできて」
答えながら親子丼の在り処を探したが、テーブルの上にもレジ袋の中にもない。キッチンからどこか間の抜けた電子音が聞こえて、スパゲティを温めていたことを思い出した。
「コーメイさん、エビマヨ、食べていいですか。できれば二個!」
「ほんとは一個もらうつもりだったんだけど、いいよ。二個ともあげちゃう」
「やったー! ありがとうございます!」
礼を述べたときには、詩音は早くも一個目の開封作業にとりかかっている。手つきが雑なので、粉々になった海苔が粉雪のように天板に落下する。
「詩音ちゃんにはスパゲティミートソースもあるよ。温め終わったみたいだから、とってくるね」
「炭水化物に炭水化物、ですね」
「そう。テーコが忌み嫌っている」
「私的には全然大丈夫です。チャーハンをおかずに白ごはんを食べられるので」
「気が合うね。さすがは詩音ちゃんだ」
こうして賑やかな昼食時間がはじまった。
詩音は食べ物をやたらにシェアしたがる。エビマヨおにぎりの一口とメロンパンの一口の交換を申し出たが、テーコはすげなく拒否した。しかしこれに落ちこむことなく、食事を奢ってくれた礼と称して、コーメイにスパゲティの一口を贈呈した。しかも「あーん」してくれるオマケつきだ。
鼻の下を伸ばす叔父に、いつもであれば冷ややかな一言を送るテーコだが、今日は黙々とメロンパンをかじり、ブルーベリージュースを飲むばかり。過食に苦言を呈することもない。
食事量に言及するとなると、ファミリーレストランで食べたことに触れる必要が出てくる。テーコはおそらく、それを避けたがっている。
本日の仕事の話は、食べながらした。ひきこもりである山野リコが珍しく外出した時点で、嫌な予感がしていたこと。今日食べる昼食について話しているうちに、山野リコを見失ったこと。雑居ビルの屋上、フェンスの外側に佇む山野リコを発見した瞬間、悲劇的な結末を覚悟したこと。説得する機会を持てないまま、山野リコが飛び降りたこと。
「脚がL字って……うわぁ……。食事中にやめてくださいよー」
詩音はそう言いながらも、ミートソースで口元を汚しながらスパゲティを食べている。コーメイはもちろん、聞き手が精神的なダメージを受けないと把握していたからこそ、飛び降りた直後の様態を簡潔ながらも描写したのだ。
「まあ、気持ちいいものじゃないよね。人が死ぬ瞬間を見たのはこれで二度目だけど、やっぱり嫌なものだよ。病死と自殺だと、当たり前だけど全然違うし」
親子丼を咀嚼しながら、姪の様子を窺う。メロンパンを食べ終え、スマホを弄っている。コーメイたちが交わしている話に強い興味を抱いている、というわけではないようだ。ファミレスでの一件の影響で、山野リコの遺体への関心は萎えてしまったのだろうか。
なにかしらフォローをする必要を感じたが、詩音の前でその件に触れられることは望んでいないはずだ。
「ところで詩音ちゃん、詩音ちゃんはお金は大丈夫なの? 生活費とか、家賃の支払いとか」
キャビネットから取り出した菓子をガラステーブルの上に広げながら、コーメイはもう一つの懸案事項について尋ねてみる。食事が済んだら、次は菓子。食欲旺盛なコーメイと詩音がともに家で食事をしたさいの、お決まりのパターンだ。詩音はさっそくポテトチップスの大袋を開け、数枚まとめて指先でつまみ、
「大丈夫じゃないけど、大丈夫です。たまに友だちの手伝いとかをしているので、生活していくだけならなんとか」
袋をテーブルに戻し、小気味のいい音を立てて噛み砕く。コーメイは自分もポテトチップスを一枚食べてから、
「手伝い? どんなことを手伝っているの?」
「えーっと、どう言えばいいのかな。簡単に言うと――」
詩音は説明を始めたが、いまひとつ要領を得ない。詳細まで語ろうとはせず、意図的にはぐらかしている節がある。ただ、以前にも詩音が言及したことがある地名や人名がちらほらと出てきたので、信頼がおける人間のもとで、金銭を得るためのなにかしらの活動を行っているのはたしかだ、と分かった。
「詩音ちゃんはバイトとかしないの。友だちを個人的に手伝うんじゃなくて、求人情報誌に載っているようなバイト。短期のバイトなんか、詩音ちゃんの性に合っていると思うけどね。ある程度貯まったら遊んで、遊ぶお金がなくなってきたらまたバイト、みたいな」
「それは嫌なんです。というよりも、それすらも嫌っていうか。やっぱりこう、なにものにも縛られない生き方をしたいじゃないですか。私、猫派なんで」
「生活費を稼がなきゃいけないから仕方なくバイト、とはならないのが詩音ちゃんのすごいところだよね。俺なんて、姉ちゃんの圧に負けてニートやめちゃったよ」
「でも、説得屋を一から始めたわけですよね。普通の道を行かないという意味では、私と同じだと思いますよ」
「そうだね。でも、看板を掲げちゃったことで、自由がある程度されちゃったからねぇ。依頼を引き受けたが最後、解決まで予想以上に時間がかかる場合も多いし。そもそも、人を説得するという行為が、思っていたよりも遥かにきついんだよね。他人の心に踏みこむって、むちゃくちゃ精神力を消費するから。だから、詩音ちゃんが羨ましいと思うときが結構あって」
塩気のあるものを食べると甘いものが食べたくなる、ということで、チョコレートクッキーの箱を開ける。欲求の赴くままに菓子をつまみながら、仕事について、人生について、コーメイと詩音は大いに語り合う。
いい歳をして、一回り以上歳が離れた女の子と青くさい議論をして、なにをやっているんだろうな、俺は。
そんな冷ややかな気持ちがないでもなかったが、しかしやはり、気の置けない相手と肩肘を張らない話をするのは、楽しい。プレッシャーがかかる話し合いは、たとえ大金を積まれたとしても気乗りがしないが、無駄話なら大歓迎だ。
「ごちそうさま」
ポテトチップスがそろそろ食べ尽くされようかというころ、テーコがおもむろにソファから立ち上がった。
「叔父さん、詩音、またね」
「もう帰っちゃうんだ。宿題?」
「家に帰って読書。紙のやつだから、スマホだと読めない」
「そっかー。そういうことなら、今日のところはばいばいだね。テーコちゃん、またね」
「うん。さようなら」
別れる前に一度、軽くでもファミレスの件に触れるべきか否か、コーメイは迷った。挨拶がないのを怪訝に思ったのだろう、テーコは叔父の顔をじっと見つめる。悩ましい二者択一だったが、
「気をつけて帰るんだよ。また明日も、気が向いたら寄ってね」
やはり詩音がいる場で蒸し返すべきではないと判断し、ほほ笑んでいつもどおりの挨拶を口にする。コーメイに対しては小さく頷き、詩音に対しては控えめに手を振り返し、テーコは事務所を去った。
詩音はけっきょく、夕方遅くまで事務所でだらだらと過ごし、コーメイに夕食を奢ってもらうことに成功したのだった。