運命的な主従
王城の最奥、後宮。そこは王やそれに連なる者たちが生活する場だ。
ファニア王国で最も尊い血族を守るため、近衛の精鋭たちが身命を賭して護る場所でもある。
とはいえ王族は平等ではない。そこには厳然とした序列があり、優先順位があるものだ。
そして後宮の端にあるサルバドル=デ=ファニアの居室は、その順位が最も低い場所だった。
サルバドルの視線の先には、いるはずのない人物が存在していた。
黒い髪の少女。年齢は10歳前後であろうか。着衣は使用人のそれだが、王城に勤める使用人の中で成人していない者は少ない。その中に黒髪の者はいなかったはずだ。
それにこの部屋は夜間に使用人が来ないよう通達してある。なにしろこの部屋の主であるサルバドルには、近い内に不意の来客の襲撃があると予想されていた。
一応ここも後宮の一部ではあるので、近衛の警備範囲に入ってはいる。だがその密度はお世辞にも高いとは言えない。襲撃者が来ればどうなるか、考えるまでもないだろう。
そのため王城に勤める優秀な使用人たちを自分のような厄介者の巻き添えで失うのも馬鹿らしいと、サルバドル自身が彼らを遠ざけたのだ。
ならばこの少女もまた襲撃者なのだろうか。だがそうであるならば、何故サルバドルはまだ生きているのか。
この少女が自ら姿を現すまで、サルバドルは気配に気付くことができなかった。自分を殺すつもりだったなら難しくなかったはずだ。だが少女はそうしなかった。
同じような年齢にしか見えないにもかかわらず、自分では及びもつかない技術を持つ少女。おまけにその目的もわからない。サルバドルにとって、少女は全く未知の存在だった。
「其方は何者だ」
誰何を受けた少女は、返答より前に跪いた。一つ一つの所作に気品があり、一つ一つの動作に隙がない。礼と武が一体となり美を成している。
「ロベルタと申します」
涼やかで澱みない声で少女が告げる。だが姿同様、その声にも名前にも憶えがない。
「面をあげよ」
「はい」
起こされた少女の顔が月明りに照らされた。その整った容貌と洗練された所作から、いずれかの貴族家の血筋の可能性もある。だが一見して良く知る高位貴族の家系の特徴はない。
そのため左眼にかけた片眼鏡と黒髪黒瞳から、サルバドルは少女の正体を絞り込んだ。
(黒髪黒瞳と言えばシスネロス子爵家の血筋か? 片眼鏡と言えば先代の墓守男爵が思い浮かぶが……。そういえばレアル家の特徴はこのような怜悧な細面と聞く。あそこの当主夫人はシスネロス家からの嫁入りだったはず。であればこの娘は……)
「レアル家の娘か」
「はい」
問い質しているはずなのに、まるで試されているかのように錯覚するサルバドル。
こちらを見上げる視線があまりにも真摯であるからか、それとも単純にロベルタの美しさに魅入られつつあるだけか。
(っ! 何を考えているのだ私は)
「何用があってここに来た」
苦し紛れに発したその問いを、サルバドルはすぐさま後悔した。
まるで氷のように静謐であったロベルタの表情が、まるで花開くように綻ぶ。
何か途轍もない危険な扉を開いたとサルバドルの直感が警鐘を鳴らす。踏み込んではいけない。覗き込んではいけない。アレはそういうモノだ。
「これを……」
細い指が左眼から片眼鏡をゆっくりと外し、懐へ入れる。改めて熱の籠った視線を投げるロベルタの両の眼を見て、サルバドルは気付いた。気付いてしまった。
「黒魔法使い……」
「はい」
誇らしげに楽しげに、ロベルタが応える。
レアル家の黒魔法使いについては、サルバドルも密かに聞いていた。ロベルタがそうであるならば、この行動にもなんとか説明がつく。しかし納得はいかない。
(レアル家に与えられている密命では、忠誠の対象は王国と王家のはずだ。確かに私は王家の一員ではあるが、その忠誠はまず国王陛下に捧げられるべきではないか)
「其方が忠誠を捧げるべきは、私ではあるまい」
「いえ」
即座に否定しつつも、ロベルタは理由を説明しようとしない。まるで説明するまでもないと言わんばかりに。
確かに、サルバドルには自分が国王より優先されてしまう事情に心当たりがある。そしてこの少女が真実黒魔法使いであるなら、その事情を知る手段を持っていてもおかしくはない。
むしろその事情を加味すれば、ロベルタにとってサルバドルは最良の主となり得るだろう。なぜなら二人は利害が噛み合い過ぎている。
(どうする。どうすればいい。どうするのが正解なのだ)
突然目の前に突き付けられた選択に、サルバドルは大いに戸惑っていた。
サルバドル=デ=ファニアがまさに人生の岐路に立って大いに懊悩しているその時、ロベルタは人生最大の歓喜に包まれていた。
サルバドルが推察した通り、ロベルタとサルバドルは利害が強固に一致している。それは黒魔法による情報収集で事前にわかっていた。
だがサルバドルはロベルタの想定をはるかに超えて優秀だったのである。これが喜ばずにいられようか。
そもそも、この部屋に侵入してからロベルタは内心の昂りを表に出さぬよう、必死で表情を抑えていた。そのためサルバドルの質問に最低限しか応えられないほどに。
にも関わらず、サルバドルはロベルタの特徴からレアル家の娘であること、また両眼のわずかな差異から黒魔法使いであることを見抜いた。貴族家の情報を網羅する記憶力、豊富な知識量、鋭い観察眼、いずれも卓越している。
これこそロベルタの思い描いた理想の主君だった。喜びはいよいよ高まり、今や表面を取り繕うのに必死だ。これでは丁寧な説明をする余裕などあるはずもない。
その結果ロベルタは自分が生まれて初めて心からの笑顔を浮かべたことにも、またサルバドルがその笑顔によって激しく動揺したことにも気付いていなかった。
この邂逅はロベルタが思っている以上に運命的だったのである。
サルバドル=デ=ファニア、10歳。
現国王パトリシオ=デ=ファニアの甥にあたる。
幼少の頃より多方面において優秀であると評価されていた。しかし将来については全く期待されていない。
容姿においても輝くような金髪に朱色の瞳とファニア王家の特徴がよく出ており、美しい中にも風格を兼ね備えている。しかし婚約などの話は全く無い。
性格は冷静沈着かつ慎重。やや考えすぎるきらいはあるものの、年齢に見合わぬ落ち着きを見せている。しかし交流のある人物は極端に少ない。
これらの原因はひとえに彼の生い立ちにあった。
サルバドルは現国王パトリシオの甥である。正確にはパトリシオの妹であるカサンドラの息子だ。
そしてその父親は不明となっている。
そう、カサンドラは先代国王であるレアンドロ=デ=ファニアの娘で歴とした王女でありながら、父親不明の子を産んだのだ。それも成人である15歳より前に。
なおカサンドラは産後すぐに亡くなっており、真相は闇の中だ。
カサンドラが臣籍に降嫁するようなことがないまま亡くなったため、サルバドルの籍は王族のままとなっている。しかし父親が不明であることから、余計な争いが起こらぬよう王位継承権は持たされていない。
そしてその不名誉な生い立ちから、サルバドルはどれほど美しく優秀であったとしても、貴族社会から嘲られ疎まれてきた。サルバドルが自らを厄介者と称する所以である。
だがしかし、ここまでは表向きの話に過ぎない。
ロベルタが黒魔法によって王城に長く務めた侍従や侍女、近衛騎士の死霊からより得た真相は以下のようなものだった。
サルバドルの父は他でもない。カサンドラの父でもあるレアンドロだ。
つまりレアンドロは己の娘を成人前に手籠めにし、あまつさえ子まで産ませていたのである。
当時からレアンドロのカサンドラに対する溺愛ぶりは問題視されていたが、カサンドラの成人が近くなり、政略的な婚約を結ばざるを得ないようになったことが暴走のきっかけだったらしい。
サルバドルは母系の系譜から見れば現国王の甥だが、父系の系譜で見れば王弟にあたるわけだ。
ファニア王国の法においてもリスタ教の教えにおいても、近親相姦は堅く戒められている。それは政教一致の聖ランツ教国の法においても変わらない。ただ一点の違いを除いて。
ファニア王国の法において、近親相姦の罪は親にのみ帰する。これはリスタ教の教えにおいても同様だ。生まれた子にはなんの罪もないという扱いになる。
だが聖ランツ教国のディバド教においては、生まれた子は穢れの象徴として扱われてしまう。具体的には浄化の対象になるのだ。
つまり聖ランツ教国との戦争に負けた今、サルバドルはその生い立ちの真相が広まれば、ディバド教会によって火刑にかけられてしまう。
王家の血を引くということもこの場合は見せしめとしてむしろ効果的であるため、ディバド教会は遠慮などしないと考えられた。
そう、サルバドルはロベルタと同じく、秘密が公になればディバド教によって焼かれる立場にあるのだ。これこそロベルタがサルバドルを選んだ理由だった。
ロベルタは自らを使いこなす使い手を求めていた。だが誰でも良いわけではない。
優秀であればそれに越したことはないが、それ以上にロベルタが求めたのは強い絆だった。
とはいえロベルタは家族の愛を知らない。恋愛も知らない。友情も仲間意識も同情すらも知らない。知らない以上、それらを誰かと結ぶということが全くわからない。
そこでロベルタが考えたのは、利害が強固に一致する人物を探すことだった。利害の一致は時に情の繋がりを凌駕する。ロベルタはそれを求めた。
そして情報収集の結果浮かび上がったのが、サルバドルだったというわけだ。
本人に会う前から、らしくないほどロベルタが舞い上がっていた理由がここにある。
明確に意識はしていなかったが、ロベルタは生まれて初めて『信じてもいい相手』に会おうとしていたのだ。それは返事が最低限になったり、図らずも笑顔が出たりするもの無理はない。
そしてサルバドルは、その優れた洞察力と直感によってロベルタの巨大に膨れ上がった期待を感じ取り、その重さに恐怖したのだ。これもまた無理もない話である。
サルバドルとしては、せめて落ち着いて考える時間が欲しかったであろう。いかに優秀とはいえ10歳の少年だ。絶世と言っても過言ではない美少女が見えない尻尾を盛大に振って懐いてきた時の正しい対処法など、知っているはずがない。
だがロベルタはもはや自分を制御しきれない。最後まで取り繕っていた表情まで先ほどから緩み始めている。これでは勢いのままサルバドルを押し倒しかねない。
そうならずに済んだのは、まさにこの時サルバドルに不意の来客があったからだった。
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