動く階段
果たしていつぶりだったか。
まだ瘴気とは何ぞやといった頃合いの話だから、記憶もぼんやりしてしまうほど昔のことだ。いや、目の前の塔に初めて入ってからの出来事が濃すぎて頭から追いやられてしまっているだけである。
だが、特徴的な屋敷は見た瞬間に遥か彼方の記憶を引き戻した。なるほど、ここは学者の住まう場所、『おしゃべり』の相手としては適任かもしれない。昔話や神話に絡めて瘴気を解き明かした学者なのだから、まさにおとぎ話の世界の住人としか思われていない精霊に対しても、何かしらの見解を示してくれるだろう。
そのように思っていた僕自身に今起きている状況を訴えたくて仕方がなくなる。
家主の元へ全くたどり着かないからである。外から見る分には多く見積もっても数分で最上階までたどり着けるはずだった。しかしどうだろう、いくら歩けど階段とレンガの壁ばかりである。踊り場があった? はずだけれども、いつになっても視界に現れることがなかった。扉なんて入り口で見たっきりだ。
もっとたちが悪いのは、やたら体が重たかった。
「これは一体、ロジ主任は何か知っていますか」
「いいや、具体的なことは何にも。強いて言うなら恐らくはかなり機嫌が悪い」
「分かっているじゃないですか」
「機嫌を悪くする理由が分からなければ知らないと言ったって変わらないだろう?」
「取っ掛かりになりそうなこともないのですか」
「そりゃあ君さあ、覚えていないのもしょうがないかもしれないけれど」
ロジ主任の言葉が少しばかり風向きを変えた気がした。しょうがない、という言葉が出てくるのはどうしてだろう? 何も知らないヒトが口にするような言葉ではなかった。
「一応、ノグリくんも一緒だったのだけれど、覚えていないの? 本当に?」
「全く見に覚えがないです」
「ルフィーが君たちを見た瞬間に崩れ落ちたのだよ。原因があるとしたら君たちのはずだが、心当たりはないのだね? 私の知らないところでルフィーをビビらせるようなことをしたわけじゃあないだろうね」
「そんなわけないじゃないですか。僕が学者さんに会ったのはロジ主任に連れられて来た時以来ですよ」
「じゃあどうしてあんなにうろたえるようなこととなったのか? まさかあの遺体か? しかしルフィーもかつての警察団員、もっとエグいものを見てきたはずなのにあの程度で」
どこからともなく分厚い本が現れてロジ主任めがけて突撃していった。ロジ主任は自然なことのように避けて難を逃れた。主の姿は見えなくとも先方には見えているらしい。攻撃したくなるほど、となるとロジ主任の言葉はあながち間違っていないのだろうか。
「ルフィーいい加減にしてくれ! この魔法を何とかするのだ」
言葉を聞いていると知るやいなや、姿なき主に向けて声を荒げた。聞こえているのか聞こえていないのか、しかし反応は帰ってこない。
「ルフィーの力が必要だと言っている!」
「お前が何に苦しんでいるのか分かったこっちゃない」
「新しい異変が起きているから力を貸せ」
「逃げるばかりか!」
ロジ主任は続けて言葉を投げつけるが、なしのつぶてでいよいよ言葉が届いているのか怪しくなってきた。これは聞こえていないか、耳をふさいで聞こえていないふりをしているのだろうか。
――そうだよ、大人気ないよお母様。
割って入る言葉に僕は脚が止まってしまった。階段を登らせまいとする魔法に捕まってロジ主任との距離が見る間に離れてゆく。
僕は捕えられてしまった。重なって聞こえた声を僕は知っている。両方共知っている。重なった声が一字一句同じ言葉をどこかへ向けたのだ。僕は完全に巻き添えを食らっている。
放たれた言葉は僕とロジ主任の間を抜けていった。けれどもロジ主任は言葉を耳にしているように見えなかった。ロジ主任は僕を振り返って、
「どうした歩かないと戻されるぞ」
と気遣ってくれていた。
僕には聞こえてロジ主任には聞こえないそれは。またたく間に動く階段を止めさせたのである。
「今のうちだ。さっさと上がってしまってあいつの顔を拝んでやりましょう」
幻の中の声。精霊の子の声。ロジ主任に腕を引っ張られる中、その声だけが頭に反響した。




