市境またぎ
雨はまだ降り止まない。詰め所を出てどれぐらい時間がたったろうか。網にかかった反応を目指してから一度も晴れ間を見ていなかった。
索敵の膜はずっと張り続けていた。何度か索敵の魔法を張り直しているが、未だによく分からないそれは網に引っかかっている。僕が移動している中、追加で三体ほどの魔物を『弱らせて』いた。そしてどんどん魔物寄りになっていった。
弱くなっていったとは言え、そのまま生きながらえているわけではない。はじめに検知した二体はすでに姿を見失っていた。網にもがいているような三匹もいずれ消えてしまうに違いない。
よく分からないのが飛び込んだかと思えば、新しい魔物と衝突していた。人の数倍も大きな魔物である。何だろう、四足なのか、かと思えば二足になって人を殴っているような。僕がヒペオを回っている中で見たことのない姿だった。
かつて人が住んでいた場所、それが今や瘴気にまみれて魔物の巣窟となっている。見るもおぞましいであろう魔物が闊歩している。想像するだけで気味が悪かった。
それ以上に、その場で荒くれている人間の姿は気味悪さを通り越して意味が分からなかった。
時折届けられるドードの音は苦しんでいた。苦しんでいた? 身体的な苦しみは感じられない。そこにあるのは後悔とするのがふさわしいか。
――どうして、みんな、離れ離れに。
――俺は何をしているのか。
――メイフェル、会いたい。
――グコール、すまなかった。
――トバス、なぜああやって冷たい目を向けるのか。
――ノグリ、どんなに謝っても許されないに違いない。
ああ、なんてことだろうか。ドードは知っているのだ。覚えているのだ。僕が襲われたあの日のことを。トバスもメイフェルも覚えていないという全ての始まりの日を。覚えていなければ考えないに違いないことを思念として伝わってくるのである。
もちろん念が、そう聞こえているだけ、って可能性もある。どうして索敵の網でそれらが拾えるのか、僕自身もよく分かっていなかった。でも無碍にできなかった。あまりにも響く声が生々しかったのだ。まるで目の前にその人がいて語っているかのようだった。
ドードが僕に話しかけてくる。襲われる前の、仕事終わりの一杯が思い出される。ああ、あの時の地酒はおいしかった。しかし耳に入ってくる、いや、頭に入ってくる言葉はどれも酒がまずくなってしまうようなものばかり、慰めを求めているようにも聞こえた。
あの時はひどく僕を攻撃してきたというのに。それほど攻撃は異常だったのだろうか。ずっと後ろめたさを感じていたのか。
魔法の向こう側で魔物が打倒された。人間らしきものはますます魔物に近づいた。
仮に人を辞めつつある存在がドードだとして、どんな気持ちで魔物を屠っているのか。延々と垂れ流されてくることを考えながら戦っているとは思えない。思いたくなかった。彼の頭の中には志がない。危険地帯へ行くに足る目的がなければ足を踏み入れないだろうに、流れ着くそれらに目的を感じることができない。
雨はまだやまない。
数時間も歩いて、時折走って、雨をしのげる窪地を見つけて身を寄せる。ずぶ濡れの木の枝を集めて、本来の近い道ではないだろうが、淀みの炎で僕の全身もろとも乾かした。枝に火をつけてから索敵の魔法を放ち直した。
程なくして見つけた姿は未だ移動をやめていなかった。降りしきる雨はけたたましい。これほどの雨の中を絶えず進み続けているのは心身を削られる。そもそも、彼はいつからさまよっている? 僕が気づくよりも前に動き出しているはず。メイフェルを置いていってから何日経っている?
まさか、一度も休まないで移動している? だとしたらとっくのとうに人間をやめている。
さて、ふと索敵の魔法から少しばかり炎へ関心を向けたところ、炎の向こう側に何かがいた。手のひらを炎に向けて暖を取っているのは、まるで子供のような姿だった。本降りの雨が降っているというのに、その子がまとう緑の格子柄の貫頭衣はまるで干したてのように乾いていた。
「ねえねえ、ここで何をしているの?」
「えっと、君こそ何をしているの。ここがどこなのか分かっているのかな。とっても危ない場所だから、君みたいな子は入っちゃいけないよ」
「何言っているの? ここは僕たちの街だよ?」
「僕はヒペオの旧市街に向かっている。少なくともここに人が住んでいるわけがないのだけれど」
「だってここは精霊たちの場所だもの。おじさんたちはどうして僕たちのところに来たの? 魔物退治をしに来てくれたの?」
聖地。危険地帯。ヒペオの旧市街。そんな場所が、精霊なるものの街になっていた。