閑話:古の人の誤字脱字
治療院を出たアントワーヌのロジはすぐさま右に進路を進めた。彼女の仕事場たる詰め所は左側へ三ブロックほど歩けば着ける場所である。どうして彼女は正反対の道を歩んでいる? なぜに早足で詰め所から、あるいは治療院から離れようとする?
インセンタ。ロジは聞いたことのない言葉とノグリに告げた。大して興味がなさそうに受け応えた一方、内心は不意打ちで頭をフルスイングされたかのような衝撃を持って受け止めていた。
ロジは急がなければならない。ふいに通りから人気のない小道に入るなり指を慣らした。
一瞬でロジは消えた。
どうしてロジは焦る?
発端はアントワーヌのディルフィールが言っていた言葉だった。仕事の合間の休憩として、彼女の家に押しかけていた時のことである。
「つい昔話をしてしまったよ」
「仕事場を内緒で抜け出して話すのがそれ? って何も知らなければ言ってしまうのだろうけれど。どういう気まぐれなのかしら」
「私をこの体にした元凶をまた見てしまった。どうにかして嫌な気持ちを外に吐き出さなければ狂ってしまいそうだったものでね」
「それは、穏やかじゃないね」
ディルフィールは平積みにされた本をパラパラとめくっては本棚に移していく。ロジには見覚えのない本の山、どうやら性懲りもなくまた書物を買い漁ったらしい。こいつはどれだけ稼いているのやら。
新作はいつ出すのか、とロジは尋ねてみるが、ディルフィールの反応は芳しくなかった。曰く、気が向かないのだとか。
「なら、このあたりも近く住めない場所になってしまうかもしれないのね。良い場所なのに」
「そんなことにはさせない。そのために私の部隊があるし、私の部下がいる」
「お手並み拝見かしら」
勝手に移動してくるグラスを受け取ると、中に入っている酒を一気に煽った。その横でディルフィールは本の塔から最上階を剥ぎ取るなり先頭からパラパラとめくり始める。
「仕事中でしょう? そんなに酒を飲んで良いのかしら」
「お前が出してきたのだろうが。それに今日の仕事はもう片付けた。緊急の用事もそうは無かろう」
「でも、そんな飲み方をしちゃって。まだ昔話をするのが足りていないのでは」
「……うるさい」
どこからともなくやってくる酒瓶にグラスを向ければ絶妙な塩梅で酒を注がれてゆく。揺れる表面が落ち着きかけたところをロジは揺らして邪魔をした。
再び一気に煽ったロジがディルフィールに目を向ければ、本の中で迷子になっているらしかった。読み進めたかと思ったら何ページも戻ったり、かと思えばまた先のページに移ったり。先頭からパラパラとめくって『読める』という彼女らしからぬ読み方だった。
「変な本でも掴まされた? それ、新しく買ったんでしょう」
「変な本、というわけではないのだけれど、誤字がすごい本を買ってしまったらしい」
「誤字がひどい? 手書きで写していた系統の本?」
「いいや、文字の感じだと版で作られているみたい。すごく高い本だったから版で作られているのは分かっていたのだけれども、にしても、版のせいかしら。同じ誤りが色んな所にあって」
「へえ、そんなこともあるのね。どんな言葉」
「インセンタ」
「インセンタ? ああ、イノセンタと何となく似ている言葉ね」
「そう、私もイノセンタの誤植だと思うのよね。ただ、書かれている内容がイノセンタとはまるで違うと言うか、物騒極まりなくて。そういう言葉も実はあったのかもしれないと思えるほど」
ロジは例をいくつか求めてみたら、ディルフィールは答える代わりに手元の本を渡してきた。渡した時の彼女の表情は何度も見たことのある表情だった。
開けば紙面にぎっしりと言葉が並べられていて。今では使われていない言葉。かろうじて文字は今も使っているものが並んでいるが、その組み合わせはロジには読み解くことはできない。
「読めるわけ無いだろ」
突き返せば先程の表情をまだしていた。どうでも良いいたずらをしなければ気がすまないのだろうか。ディルフィールに言わせれば息抜きだとか、遊び心は大切だ、という。ロジからしてみれば、遊び心を発揮するような年齢ではないと思わざるを得なかった。
「例えば『理を捨て、あるいは加えて、あるいは捻じ曲げる』ってことが書いてあって。他には『全てを守る力』だとか、『インセンタの前にトーバインの壁は意味をなさなかった。壁は作り変えられ、水となった。水はトーバインの軍団を襲いかかった』」
「軍事的な話ってこと」
「軍記ものだね。トーバインっていうのは多分、敵の軍勢のこと。対象の名前か町の名前、あるいはその両方かも。ちゃんと読む前に誤字が気になっちゃったから追えていないけれど」
「聞く分には、どうもイノセンタとは関係ないように感じるけれど」
ディルフィールが示した例を突き合わせても、ロジの知るイノセンタとは全く重ならない。ロジが知っているのは、それがドラコにとって猛毒であるという点のみだった。猛毒! 守る力になりえないし、仮に使えたとしても、使った本人もろとも飲み込んでしまうに違いない。
そう、その時はその程度にしか考えていなかったのだ。誤字にしては変だな、という違和感。単純にして明快な言葉の違いがため、頭にほんの小さな汚れのこびりつきのように残っていたのである。だからノグリからその言葉が発せられた時の衝撃は凄まじかったのである。ゴマ粒ほどのシミがたちまち、巨大な文様を描き出したのだ。
だからロジは確かめなければならなかった。
ノグリの言っていた言葉『淀みを書く人』『淀みを消す人』。専門家の見解を質さなければならなかった。
 




